世界 20世紀
1901年〜2000年 / 掲載 98 件
年表
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1901年
ヴィクトリア女王は、一連の脳卒中による急速な衰弱の末、オズボーン・ハウスで家族に見守られながら息を引き取った——ほぼ64年に及んだ在位が幕を閉じた
ほぼ64年続いた在位は、脳卒中による1週間足らずの急速な衰弱で幕を閉じた。
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1901年
マルコーニは、コーンウォールから大西洋を越えて届いたという無線信号を、ニューファンドランドで受信したと発表した——証拠は実験ノートと二人の耳だけだった
「大西洋横断受信」を裏づけるのは実験ノートの記載と2人の耳だけ——2000年代に入っても無線科学者の間で論争が続いた。
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1903年
1903年12月17日、ライト兄弟はキティホークで持続的・操縦された動力飛行に世界で初めて成功した——初回12秒、当日最後は59秒に達した
「世界初」を名乗るには、持続的・操縦・動力・重航空機という限定語が要る。ライト兄弟の主張も例外ではなかった。
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1904年
ランズダウンとカンボンが英仏協商に署名した——1904年4月8日、エジプトとモロッコでの互いの「自由裁量」を認め合った英仏の宣言
『英仏友好の始まり』と語られがちだが、実際はエジプトとモロッコの自由裁量を交換した、同盟ではない植民地上の取り決めだった。
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1906年
サミュエル・ベケット誕生——本人は生涯「4月13日」と語ったが、出生届は5月13日を記すとブリタニカは伝える
本人が語り続けた誕生日と、出生届の記載日は、実は一致していなかった。
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1906年
ライト兄弟、『飛行機械』の特許を取得——出願は初飛行の約9カ月前、付与までに約3年を要した
特許が守ったのは『飛行機』そのものではなく、翼をねじる機構や水平舵など18項に分かれたクレームだった。
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1907年
タイムズスクエアで初のニューヨーク・イブ・ボールドロップ——1907年、花火禁止を機に始まった新年の恒例行事
花火禁止から生まれた即興の代案が、120年近く続く世界的な大晦日の風物詩になった。
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1910年
マーク・トウェインが1910年4月21日に死去——ハレー彗星とともに来て、ともに去ると語っていた作家の最期
彗星とともに来ると自ら語った作家は、彗星が最接近した翌日に世を去った。
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1911年
1911年5月15日、合衆国最高裁判所がスタンダード・オイル・カンパニーに解体を命じた——反トラスト法に「合理の原則」を導入した判決
解体を命じた判決自身が、下級審の与えた30日という期限を『短すぎる』として少なくとも半年へ延長すべきであるとした。
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1912年
南極点に立ったスコット隊が見つけたのは、一足早く到達していたアムンセン隊の天幕と、ノルウェー国王への手紙を託す一通のメモだった
南極点で見つかったのは、一足早く着いていたアムンセン隊の天幕と、ノルウェー国王への手紙を託す一通のメモだった。
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1912年
アリゾナは、1912年2月14日、タフト大統領の布告により合衆国48番目の州として連邦に加入した——前年、州憲法の裁判官リコール条項を理由に一度拒否権を受けていた
アリゾナの州昇格は、大統領が州憲法の条項を理由に一度拒否権を発動した末に実現した。
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1912年
1912年12月18日、ロンドン地質学会で「ピルトダウン人」の発見が発表された——40年後、人骨とオランウータンのあごを組み合わせた捏造と判明する
「発見」から捏造の発覚まで40年——ピルトダウン人の物語は、疑いを手放さなかった科学の検証力の物語でもある。
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1913年
ローザ・パークスは、1913年2月4日、アラバマ州タスキーギで生まれた——母方の祖父母は、かつて奴隷とされていた人々だったという
奴隷制を経験した祖父母のもとで育った少女が、のちに公民権運動を象徴する存在になった。
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1914年
フォードが1日5ドルの賃金制度を発表した——満額を得るには、酒を断ち、下宿人を置かず、家を清潔に保っているかを審査された
「1日5ドル」の半分は無条件の賃金ではなく、私生活を審査されて初めて受け取れる利益配分だった。
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1916年
グリゴリー・ラスプーチンは、露暦1916年12月17日に殺された——実行者自身が書いた最期の顛末は、検死記録と食い違う
実行者本人が書いた劇的な最期は、のちの検死記録の検証とは食い違っていた。
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1917年
ロシア二月革命は、国際女性デーにペトログラードの女性労働者たちがパンを求めて街頭に出た、露暦1917年2月23日(新暦3月8日)に始まった
『二月革命』という呼称自体、当時ロシアが用いていたユリウス暦(露暦)の月名に由来する。
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1917年
ニコライ2世、退位——ロマノフ朝の終焉
皇位は息子から弟へ差し向けられたが、ロマノフ王朝の統治はそこで終わった。
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1917年
レーニン、亡命先のスイスからドイツ政府の便宜を受けた列車でペトログラードのフィンランド駅に帰還——露暦1917年4月3日(新暦4月16日)のことだった
「封印列車」は文字通りの密閉ではなく、治外法権を示す法的な取り決めだったとされる。
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1918年
米国、サマータイム法を制定——第一次大戦下の燃料節約策、標準時間帯の法制化と同時に
戦時の燃料節約策として生まれたサマータイムは戦後いったん廃止されたが、同じ法律が定めた標準時間帯の制度は生き残った。
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1918年
1918年11月11日午前11時、西部戦線の砲声が止んだ
休戦は午前5時ごろ署名されたが、戦闘停止が発効したのは午前11時だった。
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1919年
パリ講和会議、開幕——英首相ロイド=ジョージが総選挙を優先したためとされる遅れの末に
総選挙を優先した英首相のために、パリ講和会議の開幕は1919年1月18日までずれ込んだとされる。
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1919年
ワイマール憲法制定国民議会は、1919年2月6日、首都ベルリンでなくワイマールで開会した(会場はドイツ国民劇場とされる)——憲法そのものが可決されたのは、同年7月31日のことである
首都でなく地方都市ワイマールで開かれた議会が、後にワイマール憲法を可決した。
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1919年
エディントンらの皆既日食観測——一般相対性理論が予測した光の湾曲を検証
一夜にしてアインシュタインを世界的著名人にした観測は、データ除外の当否を巡る論争も後世に残した。
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1919年
休戦から7か月、ロイター少将は演習に出た英艦隊を見て『拿捕される』と判断した——スカパ・フローでドイツ艦隊74隻に自沈が命じられ、52隻が沈没した
休戦協定下で抑留されていたドイツ艦隊74隻に自沈が命じられ、52隻が沈没した。英国立陸軍博物館・BBCはこれを第一次世界大戦で死亡した最後の人々と記す。
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1920年
ウィルソンが提唱した国際連盟、条約発効の日に発足——提唱国アメリカは加盟せず
国際連盟を提唱したウィルソンの母国アメリカは、上院の二度の否決で加盟しないまま連盟の発足を迎えた。
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1920年
憲法修正18条は批准から1年後に禁酒法を発効させると自ら定めていた——発効日は最高裁と現代の解説で1日食い違う
禁酒法は成立から1年の猶予を自ら条文に書き込んでいた——その発効日さえ、最高裁と現代の解説で1日食い違う。
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1922年
1922年2月2日、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』がパリで刊行された——その刊行日は、ジョイスの40歳の誕生日だった
『ユリシーズ』は米誌連載が猥褻裁判で中断された末パリで刊行され、米国での正式刊行は1934年までかかった。
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1922年
ハワード・カーターが11月4日に見つけたのは、黄金ではなく一段の石段だった
「王墓発見の日」に見つかったのは、実は階段のたった一段だけだった。
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1922年
カーターが壁の穴からのぞいた直後、隠し場所ではなく王墓だと確信に変わった
壁の穴からのぞいた直後、二人の見立ては一転し、王墓だとの確信に変わった。それが調査で裏付けられ結論となったのは、翌27日のことだった。
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1923年
カーターが玄室の封印扉を開けると、そこは黄金の厨子で埋め尽くされていた
扉の先に見えた「黄金の壁」の正体は、王の石棺を覆う巨大な厨子だった。開封の日付は資料により16日と17日に割れている。
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1926年
ゴダード、世界初とされる液体燃料ロケットの打上げに成功
ゴダード宇宙飛行センターの名の由来となった人物による打上げも、当日は高度41フィート・2.5秒の地味な飛行にすぎなかった。
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1927年
1927年5月21日、チャールズ・リンドバーグがニューヨーク—パリ間を単独・無着陸で飛行してパリ近郊のル・ブルジェ飛行場に到着した——大西洋の無着陸横断自体は1919年のアルコックとブラウンに、大西洋横断自体は同年のNC-4に先例がある
「史上初」はFAI=単独・NY—パリ間、スミソニアン=単独・無着陸の大西洋横断という出典の限定句に限られ、無着陸横断自体は1919年に先例があった。
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1929年
マーティン・ルーサー・キング・Jr.は、父・祖父・曾祖父と続く牧師の家系に「マイケル」という名で生まれた——父も同じ名から「マーティン」へ改名していた
生まれたときの名は父と同じ「マイケル」。牧師の家系に生まれた少年は、のちに非暴力運動の指導者「マーティン」になった。
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1930年
冥王星発見、クライド・トンボーによる観測
「第9惑星」から「準惑星」へ——呼び名は変わっても、1930年2月18日の発見そのものは変わらない。
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1930年
ガンディー、塩の行進を開始
距離も参加者数も出典で数字が違う——「塩の行進」の細部は一枚岩ではない。
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1935年
エルヴィス・プレスリーは、ミシシッピ州タペロの2間の「ショットガン・ハウス」で、死産だった双子の片割れとともに生まれた——その歌声は、黒人のブルース・ゴスペルと白人のゴスペル・カントリーが交わる場所で育った
生まれ育った音の環境は、黒人のブルース・ゴスペルと白人のゴスペルの両方だった。その継承をどう受け止めるかは、今も意見が分かれる。
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1935年
イアハートは、すでに人命を奪っていたハワイ〜本土間を単独無着陸で越えた
命を奪ってきた太平洋の航路を、イアハートは単独で18時間かけて越えた。
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1936年
エドワード8世、シンプソン夫人との結婚を貫くため退位——法として成立したのは1936年12月11日
王位を賭けた決断も、法として効力を持つには一夜を要した——署名は12月10日、退位が法になったのは翌11日である。
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1937年
1937年5月27日、ゴールデンゲート・ブリッジが歩行者に開通した——翌28日、F・D・ルーズベルト大統領の電信キー操作で自動車交通にも開通
橋が最初に迎えたのは自動車ではなく、25セントの通行料を払って歩いた20万人余の人々だった。開通は一日ではなく二日にわたった。
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1941年
日本軍は真珠湾を攻撃しマレー半島に上陸した——同じ開戦は、米国の記録で12月7日、日本の記録で12月8日となる
同じ開戦でも、記録する国によって暦日が1日違う——真珠湾攻撃は米国で12月7日、日本で12月8日の出来事として記録されている。
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1944年
ノルマンディー上陸作戦——連合軍が北フランスの5海岸に上陸(D-デイ)
決断の最終決定も命令の文言も記録に残るが、決断の瞬間の一言一句は出典ごとに異なって伝わる。
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1944年
ルーズベルトは、戦時下のアメリカで、前例のない大統領4選を果たした
前例のない4選を果たしたルーズベルトは、副大統領トルーマンの就任からわずか82日後に世を去ったとされ、トルーマンが職を引き継いだ。
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1945年
国連憲章が発効し、国際連合が正式に発足した
国連の『誕生日』は6月の憲章署名日ではなく、批准がそろった10月24日である
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1945年
戦争は人の心の中で生まれる——ユネスコ憲章、ロンドンで採択
憲章が「採択」された日と、それが効力を持ち始めた「発効」の日は、同じ日ではない。
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1945年
ローレンス裁判長は開廷にあたり、この裁判が世界の司法史上に例がないと告げた
戦勝国が敗戦国指導者を裁いたこの法廷には、戦勝国のみによる法廷という批判と、国際刑事法の礎になったという評価という、相反する見方がある。
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1947年
1947年6月5日、米国務長官マーシャルはハーバード大学の卒業式典でヨーロッパ復興への経済援助を提案した——この演説には、録音テープの書き起こしと政府文書集所収版という、冒頭と末尾が異なる2つの記録が残っている
同じ演説でも、録音テープの書き起こしと政府文書集所収版とでは、冒頭と末尾の段落が異なる。
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1947年
バーディーンとブラッテンがゲルマニウムに金の接点を押し当てると、電気信号は真空管なしで増幅された——トランジスタの「発明日」は一つに定まらない
「トランジスタの発明日」は12月16日か23日か、出典によって答えが違う——本サイトはその幅自体を記録する。
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1948年
病気ではなく健康を定義した憲章が発効、世界保健機関が発足
WHOの「誕生日」は憲章に署名した日ではなく、26か国が締約国となり発効した日である。
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1948年
レムキンが名付けた罪を裁く条約が、1948年12月9日にパリで採択された——政治的集団は保護の対象に含まれなかった
「集団殺害」を裁く条約は、誰を守るかを最初から線引きしていた——政治的集団は、その外側に置かれた。
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1948年
エレノア・ルーズベルトが議長を務めた委員会の草案が、1948年12月10日、パリで世界人権宣言として採択された——それは、法的拘束力を持たない宣言だった
世界人権宣言は、義務を課す条約としてではなく、拘束力を持たない「宣言」として採択された。
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1949年
北大西洋条約調印——1949年4月4日、ワシントンで12カ国が結んだ集団防衛
条約が調印されたのは4月4日だが、発効したのは批准書がそろった約4か月半後の8月24日である。
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1949年
ジョージ・オーウェル『一九八四年』刊行——病床で書き上げた近未来小説、英国で出版される
病床で自らタイプを打ち続けた原稿が、刊行後まもなくほぼ全面的に傑作と評された。
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1950年
インド国民会議派が完全独立を宣言した日を選んで——1950年1月26日、新憲法の施行でインドは共和国となった
20年前の『プールナ・スワラージ』宣言と同じ日を選んで、1950年1月26日、新憲法の施行でインドは共和国となった。
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1950年
ロベール・シューマンが仏独の石炭と鉄鋼を結ぶ宣言を発表——1950年5月9日、条約も共同体もまだ存在しなかった
宣言の発表(1950年)と、ECSCを設立した条約の調印(1951年)・発効(1952年)は、別の年の出来事だった。
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1953年
ワトソンとクリック、DNAの二重らせん構造モデルを提唱——1953年2月28日、クリックは『生命の秘密を発見した』と告げたとされる
『発見』と呼ばれる出来事の多くは、ある一瞬のひらめきというより、複数人の協働と、時に緊張をはらんだデータのやり取りの積み重ねである。
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1954年
1954年5月6日、ロジャー・バニスターがオックスフォードのイフリー・ロード競技場で1マイルを3分59秒4、史上初めて4分未満で走った——発表時点では審査(批准)待ちの記録であり、18世紀の賭けにも4分未満の報告が1件(ウェラー)残っている
「史上初」は発表時点で審査(批准)待ちの記録という意味だった——18世紀の賭けにも4分未満の報告が1件(ウェラー)残っている。
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1954年
1954年11月30日、昼寝中のアン・ホッジズを隕石が直撃した——『隕石で負傷したと分かる唯一の人物』という評価は、出典によって言い回しが違う
『隕石で負傷したと分かる唯一の人物』という評価そのものは複数の出典が伝えるが、言い回しは『史上初』『記録に残る限り唯一』などまちまちである。
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1955年
ウィンストン・チャーチルが、1955年4月5日、女王エリザベス2世に辞表を提出し、第2次政権の英首相を退任した——後任イーデンは翌6日に就任した
80歳のチャーチルは、感情を制御できないことを理由に庶民院での告別演説を取りやめ、一人で車に乗り宮殿へ向かったという。
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1955年
アルベルト・アインシュタイン死去——死の直前に核兵器廃絶を訴える声明に署名し、未完の統一場理論のノートを秘書に求めて
死の直前に核兵器廃絶の声明に署名し、未完の理論のノートを求めながら世を去った。
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1955年
肉体的に疲れていたのではない——ローザ・パークス、モンゴメリーのバスで席を譲らず逮捕された日
パークスの拒否は、肉体的な疲れではなく服従することへの拒絶だった、とhistory.comは自著からの引用として伝える。
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1957年
ローマ条約調印——1957年3月25日、EECとEURATOMを生んだ『2つの条約』
1957年3月25日に調印されたのは1つの条約ではなくEECとEURATOMを設立する2つの条約であり、発効は同年ではなく1958年1月1日だった。
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1957年
ライカは、地球を回る初めての生き物になった——「数日間生存」という発表は、事実ではなかった
当時のソ連は『数日間生存』と発表したが、実際は打ち上げから数時間で死亡していたとみられる。1993年にガゼンコが、2002年に研究所報告が明らかにしたとされる。
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1961年
ガガーリン、人類初の有人宇宙飛行に成功——投げ出し降下による着陸は、当初の報道では不確かだった
射出座席で単独降下していたことは、実は当初の報道でははっきりしていなかった。
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1961年
1961年5月28日、ピーター・ベネンソンの論説「忘れられた囚人」が英紙オブザーバーに掲載された——『アムネスティ・インターナショナル』という名称が採択されたのは、翌1962年9月のことだった
新聞一本の論説が、『良心の囚人』という言葉とともに、やがて世界的な人権団体を生み出した。
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1961年
ソ連の技術者たちは、100メガトンの水爆の威力を、あえて半分に抑えた
「史上最大」とされる水爆は、設計値の半分の威力に、あえて抑えられて投下された。
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1962年
ジョン・グレン、フレンドシップ7号で米国人初の地球周回軌道飛行
世界初はガガーリン、米国初の有人宇宙飛行はシェパード。グレンが成し遂げたのは「地球を周回した初めてのアメリカ人」。
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1963年
ボストーク6号打ち上げ——テレシコワ、史上初の女性宇宙飛行士
テレシコワの飛行の後、次にソ連の女性が宇宙へ飛んだのは1980年代になってからだった。
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1963年
ケネディ大統領は、ダラスの車列でオズワルドの銃弾を受けて死亡した——共謀の有無をめぐり、公式調査の結論は割れている
発砲者の特定では一致した公式調査も、共謀の有無と音響証拠の評価では結論が割れたままである。
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1963年
BBCは1963年11月23日、『ドクター・フー』第1話「An Unearthly Child」を放送した
『10分遅れて放送された』と語られてきたが、BBCが自サイトに掲げる専門解説書では実際の遅れはわずか80秒だったとされる。
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1963年
ジョンソン大統領は、暗殺から1週間後に大統領令へ署名し、ウォーレン委員会を発足させた——共謀の可能性についての捜査を、16年後の議会委員会は不十分だったとも評価した
暗殺からわずか1週間で発足した調査委員会は、その徹底度を、16年後の議会調査から問われることになった。
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1965年
レオーノフ、史上初の宇宙遊泳に成功——帰還の危機は何十年も公表されなかった
宇宙服が膨張して機体に戻れなくなった危機は当時は伏せられ、広く知られたのは数十年後だった。
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1965年
ホワイト、ジェミニ4号でアメリカ人初の宇宙遊泳——操縦装置はすぐに燃料切れとなった
手持ち操縦装置の燃料はすぐに尽き、残りは命綱を引いての移動だった。
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1966年
1966年6月2日、米国の無人探査機サーベイヤー1号が月面に軟着陸した——月面への軟着陸そのものは、この4か月前にソ連のルナ9号が世界で初めて達成していた
「世界初」ではなく「米国初」——月面への軟着陸を世界で初めて果たしたのは、この4か月前のソ連のルナ9号だった。
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1967年
アポロ1号の地上試験中に火災が発生し、グリソム・ホワイト・チャフィーの3飛行士が死亡した——発火源は、今も特定されていない
発火源を特定できないまま、NASAは司令船の設計と試験の安全手順を根本から見直した。
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1967年
ラ・イゲラの小さな校舎で、革命家チェ・ゲバラが銃殺された
1967年10月9日、ボリビアで捕らえられていたチェ・ゲバラは、ボリビア軍の手で銃殺により処刑された。
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1967年
1967年12月3日、クリスチャン・バーナードは世界初のヒト間心臓移植手術に踏み切った——手術は成功、患者は18日後に肺炎で死亡した
手術は技術的に成功したが、患者は18日後に死亡した。ドナーの死の判定過程は、今も出典によって語りが異なる。
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1968年
アポロ8号は、月を周回しながらクリスマスイブに創世記を読み上げた——NASAは「有人初の月周回ミッション」と位置づける
NASAは「有人初の月周回」と位置づけるが、その「初」の中身は、同じ機関の中でも少しずつ違う言葉で語られている。
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1969年
UCLAからSRIへのARPANET最初のホスト間通信は、「login」の「lo」まで送信したところでクラッシュしたとされる
ARPANET最初の通信は、「lo」の2文字でクラッシュしたとされる。
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1970年
第1回アースデイ開催——1970年4月22日、推定2000万人が参加した全米一斉の「環境教育デー」
たった12万4000ドルの予算で始まった草の根の一日が、現代の環境保護運動の出発点になった。
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1971年
アポロ14号は、アポロ13号が目指しながら到達できなかったフラ・マウロ高地に着陸した——シェパードは、船外活動の終わりにゴルフクラブを振った
アポロ13号が到達できなかった地に降り立ったのち、シェパードは月面でゴルフクラブを振った。
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1972年
アポロ17号は、真夜中に打ち上げられた——アポロ計画、最後の有人月面着陸ミッションへ
アポロ計画で機材の故障が原因となったとされる唯一の打ち上げ遅延を経て、アポロ17号は暗闇の中、計画最後の月への旅に飛び立った。
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1973年
OAPECは1973年10月17日、原油生産を毎月5%削減すると決定した
生産削減を決めたのはOAPECである。前日に価格を引き上げたOPECとは別の組織だ、と査読論文は書き分けている。
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1973年
ウッツォンは、招かれた開場式典を自ら辞退した
ウッツォンは開場式に招かれていた。しかし論争を持ち込みたくないと、自ら出席を辞退した。
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1974年
兵馬俑の発見——井戸を掘っていた農民が掘り当てた秦始皇帝陵の地下軍団
井戸を掘っていた農民の鍬が、2000年余り眠っていた皇帝の地下軍団を掘り起こした。
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1974年
1974年4月25日、ポルトガルでカーネーション革命が起き独裁体制エスタド・ノヴォが崩壊した——「ほぼ無血」の通称と政治警察本部前での発砲による死者4名
「ほぼ無血」と呼ばれた革命でも、政治警察本部前では発砲で4人が命を落としたと記録されている。
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1975年
貨物船エドマンド・フィッツジェラルド号の沈没原因は、今も特定されていない
エドマンド・フィッツジェラルド号はなぜ沈んだのか、その答えは今も出ていない。
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1976年
1976年1月21日、コンコルドが定期超音速旅客便として就航した——ブリタニカ百科事典は「世界初」と位置づけるが、超音速機として先に飛んでいたのはソ連のTu-144だった
超音速機として先に飛んでいたのはコンコルドではなくソ連のTu-144だった——「初」の中身は一様ではない。
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1977年
テネリフェ空港衝突事故——ボーイング747二機が滑走路上で衝突、583名が死亡
無線交信のわずかな行き違いが惨事につながり得ることを示し、事故後の管制用語標準化を促した。
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1979年
スリーマイル島原発事故——米国史上最悪の商業炉事故、検出可能な健康影響はなしとされる
機器の不具合と人的要因が重なった事故は、原子力の安全規制を大きく見直す転機となった。
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1979年
マーガレット・サッチャーがイギリス史上初の女性首相に就任——1979年5月4日、総選挙の投票から翌日のことだった
総選挙の投票と首相就任は、別の日に起きた別の出来事だった。
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1981年
ヤルゼルスキ将軍は、1981年12月13日早朝にポーランド全土へ戒厳令を布告し「連帯」を止めた——彼が語った理由は、のちに公開された文書によって疑問視されている
「連帯」を止めた戒厳令——ソ連侵攻阻止のためという理由は、公開されたソ連・ポーランド側文書によって疑問視されている。
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1987年
モントリオール議定書の採択 — 世界最初とされる報告は、なぜ届かなかったのか
世界最初とされる警告は届かず、翌年の警告が世界を動かした、といわれる。生まれた条約は今、国連史上初めて全世界がそろって守る条約になったとされる。
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1989年
チャウシェスクが演説を始めると、動員されたはずの群衆は反旗を翻し、テレビの生中継は「約3分間」中断したとワシントン・ポスト紙は伝える
台本どおり歓声を送るはずだった動員集会が、生放送の最中に崩れた。生中継は「約3分間」途切れたとワシントン・ポスト紙は伝えており、政権崩壊の引き金になった。
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1989年
チェコスロバキア連邦議会は、共産主義体制下で選ばれた議員が大半を占めるまま、ハヴェルを大統領に満場一致で選出した——ラジオ・プラハは「不条理劇のような選挙」と伝える
拍手で満場一致に選ばれた議場の大半は、なお革命前の体制下の選挙で選ばれた議員だった。
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1990年
リトアニア、ソ連からの独立を宣言
独立を「宣言した日」と、ソ連自身が「承認した日」の間には1年半の隔たりがあり、その間に経済封鎖と流血の事件があった。
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1990年
1990年4月24日、NASAがハッブル宇宙望遠鏡をディスカバリー号で打ち上げた——主鏡の欠陥発覚から1993年の補正光学系取り付けまで
打ち上げから本来の視力を取り戻すまで、ハッブル宇宙望遠鏡は3年半余りを要した。
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1996年
ディープ・ブルーは、1996年2月の第1局でガルリ・カスパロフに勝利し、現役世界王者からトーナメント条件下で初めて1ゲームを奪ったとされる——ただし1996年のマッチ全体は、カスパロフが4–2で制している
「AIがチェス王者に勝った」最初の1局は1996年——だがマッチ自体はカスパロフが4–2で制していた。
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1997年
ディープ・ブルーが、カスパロフとの再戦でマッチ全体を制し、トーナメント条件下で現役世界王者からマッチを奪った初のコンピュータとなったとされる——決着は1997年5月の第6局
1996年に1局だけ勝ったAIは、1年後にマッチ全体で世界王者を下し、再戦の要求には応じなかった。