OAPECは1973年10月17日、原油生産を毎月5%削減すると決定した
日付と暦
- 原典表記
- 1973年10月17日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1973-10-17(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 10月17日のページ
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概要
日本の外相・大平正芳は、1973年10月19日、アラブ諸国の使節の一団と向き合っていた[SRC-00548]。その2日前の10月17日、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)は、原油生産を毎月5%削減すると決定していた[SRC-00547][SRC-00548]。削減の基準は前月9月の生産量とされた[SRC-00547]。さらにその前日の10月16日には、OPEC加盟のペルシャ湾岸産油6カ国が原油公示価格を70%引き上げると発表しており、決定した組織も内容も異なる別の出来事だった、と査読論文は記す[SRC-00547]。アラブの友好国とみなされず削減の対象国となった日本では、石油入手への不安が広がり買占めパニックが発生することになった、と同論文は記す[SRC-00547]。
本文
1973年10月17日、OPECとは別の組織であるOAPECが、原油生産を毎月5%削減すると決定した[SRC-00547][SRC-00548]。削減の基準は前月9月の生産量とされた[SRC-00547]。
米国中央情報局(CIA)が決定の2日後に作成した分析は、この月5%が各国に課された義務であり、一部の国にはそれを上回る削減を行う道も開かれていた、と記す[SRC-00548]。同分析によれば、削減は、イスラエルが占領地から撤退を完了しパレスチナ人の「合法的権利」(原文: "legal rights")が回復されるまで続けるとされた[SRC-00548]。アラブ諸国は「友好国」(原文: "friendly")への通常どおりの石油供給の維持を約束したが、その「友好国」が具体的にどの国を指すかは示されず、最終的な解釈は各産油国に委ねられた、とも同分析は記す[SRC-00548]。イスラエルへ武力支援を行った国には全面禁輸で威嚇した、とも記す[SRC-00548]。
一方、査読論文は、OAPECがこの決定に、アラブ諸国に援助を提供するかイスラエルに強硬な手段を発動する国を「アラブの友好国」とみなしこの決定を適用しない、という条件を付けたと記す[SRC-00547]。
この決定の前日にあたる10月16日、OPEC加盟のペルシャ湾岸産油6カ国が原油公示価格を70%引き上げると突如発表した、と査読論文は記す[SRC-00547]。同論文は、第四次中東戦争が勃発したのは1973年10月6日であり、16日の発表はその10日後だったと記す(この勃発日について本サイトは独立した2系統目の裏づけに到達していない。異説・論争欄参照)[SRC-00547]。
決定の2日後の10月19日、外相・大平正芳は、アラブ諸国の使節の一団に対し、日本は国連を通じた解決を望むと述べ、1967年の国連安全保障理事会決議への支持に言及して、アラブ側からの直接的な政治的支持表明の要求を回避しようとした、とCIAの分析は記す[SRC-00548]。同分析は、日本が原油の約43%をアラブ諸国から輸入していたとも記す[SRC-00548]。一方、査読論文は、アラブの友好国とみなされず石油供給削減の対象国となった日本で石油入手への不安が浸透し、遂に買占めパニックが発生することになったと記す[SRC-00547]。
歴史的背景
アラブ諸国は、この生産削減の狙いを英国の新聞紙上の意見広告で説明した、と査読論文は記す[SRC-00547]。石油供給の削減で欧州諸国や日本に打撃を与え、それによって同盟国間の結束への危機感を醸成し、米国の対イスラエル支援政策を停止させることがアラブの戦略だ、との内容だったとされる[SRC-00547]。しかし米国は、自国のイスラエル支援政策を変更せずに中東和平交渉を成功させ、イスラエル政策と石油権益の両立を図ることを希求した、と同論文は評価する[SRC-00547]。原油の対アラブ依存度が高かった日本は、「イスラエルとの断交」を発表しなければ石油供給削減を更に強化すると迫るアラブ諸国と、イスラエルとの関係を軸とする中東政策への同調を迫る米国との狭間で、前例のないジレンマに陥ったと同論文は記す(この後の交渉経緯は本記事の範囲外とする)[SRC-00547]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1973年10月6日(グレゴリオ暦) | 第四次中東戦争が勃発した、と査読論文は記す(本サイトの到達は単一系統にとどまる) | [SRC-00547] |
| 1973年10月16日(グレゴリオ暦) | OPEC加盟のペルシャ湾岸産油6カ国が原油公示価格を70%引き上げると発表した、と査読論文は記す(OAPECとは別の組織・別の決定) | [SRC-00547] |
| 1973年10月17日(グレゴリオ暦) | OAPECが、原油生産を毎月5%削減すると決定した(基準を前月9月の生産量とする記述は[SRC-00547]、月5%が義務でありそれを上回る削減も可能だったとする記述は[SRC-00548]) | [SRC-00547][SRC-00548] |
| 1973年10月19日(グレゴリオ暦) | 日本の外相・大平正芳が、アラブ諸国の使節の一団に対し国連を通じた解決への支持を伝えた、とCIAの分析は記す | [SRC-00548] |
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
本記事が到達した2つの出典——日本国際政治学会発行の査読制学術誌掲載論文(SRC-00547)と、米国国務省が公開する外交史料集所収のCIA同時代分析(SRC-00548)——は、決定主体がOAPECであること・決定日が1973年10月17日であること・削減率が月5%であることの3点で一致している[SRC-00547][SRC-00548](調査範囲: 学術論文1件・米国政府公式外交史料1件への到達)。
一方、この3点を超える部分は、それぞれ一方の出典にしかない。削減の基準を前月(1973年9月)の生産量とする記述はSRC-00547にのみあり、SRC-00548には基準月の記述がない。逆に**「月5%は各国の義務であり、一部にはそれを上回る削減を行う道が開かれている」という限定はSRC-00548にのみあり**、SRC-00547は「毎月五%ずつ削減する」と書く[SRC-00547][SRC-00548]。ただしこの表現の差は対立ではない。SRC-00548自身が "All of the states are obliged to cut production by 5% a month, but the way is open for some to make larger cuts."(各国は月5%の削減を義務づけられるが、一部にはより大きな削減を行う道が開かれている)と述べており、義務としての削減率は月5%だからである[SRC-00548]。本記事はこれを異説ではなく同じ決定を伝える表現の差として扱い、どちらの出典がどちらの表現を用いるかを本文とタイムラインで書き分けた。
なお本記事は、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)とOPEC(石油輸出国機構)の決定を書き分ける方針をとる。SRC-00548自身も、生産削減の決定をOAPECの決定として記す一方、価格上昇の影響を論じる箇所ではこれを "The OPEC action" と呼んでおり、2つの組織の決定を区別して記述している[SRC-00548]。この書き分けは学術・一次資料に基づく対立説ではなく、出典の記述に従った本サイトの編集方針である。
第四次中東戦争の勃発日(1973年10月6日)については、本サイトが到達できた出典がSRC-00547の1系統にとどまり、独立した2系統目の裏づけは確認できていない。この日付自体に対立する説があるという情報は得ていないが、単一系統による裏づけにとどまる旨をここに明記する。
関連する出来事
- 1973年11月4日、アラブ諸国は11月の石油生産量削減を25パーセントに強化する方針を決定した、と査読論文は記す[SRC-00547]。
- この後の交渉過程で、アラブ産油国と米国・欧州・日本の関係は、石油消費国間の多国間協調の枠組みの形成へとつながっていく(詳細は歴史的意義欄参照)[SRC-00547]。
関連人物
- アラブ石油輸出国機構(OAPEC): アラブの産油国で構成する国際機関。1973年10月17日、原油生産を毎月5%削減すると決定した主体[SRC-00547][SRC-00548]。
- 石油輸出国機構(OPEC): 産油国で構成する国際機関。OAPECとは別の組織。加盟するペルシャ湾岸産油6カ国が、10月16日に原油公示価格の70%引き上げを発表した、と査読論文は記す[SRC-00547]。
- 大平正芳(おおひら まさよし): 1973年当時の日本の外相。決定の2日後、アラブ諸国の使節の一団に対応し、国連を通じた解決への支持を伝えた、とCIAの分析は記す[SRC-00548]。
歴史的意義
米国側の同時代分析が示す消費国の経済的打撃と、査読論文が論じる日本側の政治的対応の難しさ——この2つを合わせると、原油の供給と価格が産油国側の政治的判断に左右されるものであることを、この出来事が消費国側に強く認識させたと言える。これは前掲の経過から導かれる本サイトの整理であり、いずれの出典もこの因果を直接述べるものではない。日本を含む石油消費国は、対米協調と資源確保の両立という課題に直面し、後年、石油消費国間の多国間協調の枠組みの形成へとつながっていった、と同論文は位置づけている(枠組みの名称・発足時期についての詳細な事実確認は本記事の範囲外とする)[SRC-00547]。
現代の視点
本記事は、SRC-00547に従い、この一連の事態を「第一次石油危機」と表記する[SRC-00547]。価格を引き上げたのは10月16日のOPEC(加盟するペルシャ湾岸産油6カ国)であり、生産そのものを削減すると決定したのは翌17日のOAPECである——同論文はこの2日を、決めた組織も決めた内容も異なる出来事として書き分けている[SRC-00547]。この区別は、一次資料に当たらないと見えにくい。半世紀近く経った今も、この一文字の違いを読み分けるには出典に戻るしかない(本サイトの整理)。
出典一覧
- [SRC-00547] 第一次石油危機における日本外交——アラブ諸国と米国の狭間で——/日本国際政治学会(掲載誌『国際政治』2014年177号「政権交代と外交」)(ランクA)
- [SRC-00548] 223. Memorandum Prepared in the Office of Economic Research, Central Intelligence Agency (Washington, October 19, 1973) — Foreign Relations of the United States, 1969–1976, Volume XXXVI, Energy Crisis, 1969–1974, Document 223/アメリカ合衆国国務省 歴史編纂室(Office of the Historian, United States Department of State)(ランクA)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-04 | — |
| 2 | 2026-09-04 | あり |
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