1974年世界 20世紀

1974年4月25日、ポルトガルでカーネーション革命が起き独裁体制エスタド・ノヴォが崩壊した——「ほぼ無血」の通称と政治警察本部前での発砲による死者4名

日付と暦

原典表記
1974年4月25日(グレゴリオ暦)
換算
1974-04-25(グレゴリオ暦)
掲載日
4月25日のページ

この記事の主張は出典に紐づけて検証しています。検証記録を見る

概要

1974年4月25日未明、ポルトガルの首都リスボンで、国軍運動(Movimento das Forças Armadas=MFA)と呼ばれる地下組織に属する若手・中堅将校団が軍事クーデターを起こした[SRC-02015][SRC-02016]。標的は、1932年にアントニオ・デ・オリベイラ・サラザールが樹立した権威主義体制「エスタド・ノヴォ(新国家)」を引き継いでいたマルセロ・カエターノ政権である[SRC-02014]。作戦は前夜から未明にかけての2度のラジオ放送を合図に始まり、その日の夕方までにカエターノが軍人アントニオ・デ・スピノラへの政権委譲に同意したことでほぼ決着した[SRC-02016]。兵士のライフルの銃口にカーネーションが挿された光景が世界に伝えられ、この出来事は「カーネーション革命」と呼ばれるようになった[SRC-02018]。作戦の大部分は流血をほとんど伴わずに終結したと複数の資料が記す[SRC-02015][SRC-02018]。一方、同じ日の夜、リスボンの政治警察(DGS)本部前では要員による発砲があり、4人が死亡したことも学術資料に記録されている[SRC-02016]。この出来事はポルトガルの民主化と、ポルトガル領アフリカ植民地の独立過程の起点になったとも伝えられる[SRC-02015][SRC-02019]。

本文

クーデターの計画は1973年にさかのぼる。植民地戦争(アンゴラ・モザンビーク・ギニアビサウでの独立運動との戦い)の長期化で将校の損耗が増し新規将校の確保が難しくなっていたことを背景に、カエターノは大学卒業者が短期の養成課程を修了すれば陸軍士官学校卒業生と同等の階級で任官できる制度を導入した[SRC-02014]。政令353号・409号(1973年7月・8月)は、4年制の軍事教育を受けてきた将校たちに強い不満を生み、彼らはわずか2学期の養成課程を経た新任の「ミリシアーノ」将校に自分たちが追い越されうることを受け入れなかった。その反発の集まりが、のちの国軍運動(MFA)の母体となった[SRC-02017]。1973年12月、将校団はヴァスコ・ロウレンソ、ヴィトール・アルヴェス、オテロ・サライヴァ・デ・カルヴァリョの3名に軍事クーデターの計画を委任し、1974年3月5日の秘密会合では植民地戦争の交渉による終結・体制の解体・西欧型民主主義の樹立を掲げる「大尉たちのマニフェスト」が採択された[SRC-02017]。作戦には「ヴィラージェン・イストリカ作戦(Operação Viragem Histórica、歴史的転換作戦)」の名が与えられたと学術資料は記す[SRC-02016]。

1974年4月24日22時55分、リスボン放送連合のアナウンサーが「23時まであと5分です」と読み上げてパウロ・デ・カルヴァリョの楽曲を流したことが、将校団への第一の合図となった。翌25日0時20分、ラジオ・レナシェンサ局がジョゼ・アフォンソの楽曲「グランドラ、ヴィラ・モレーナ」を放送したことが第二の確認合図となり、各地でMFAに属する部隊が戦略拠点の制圧に動いた[SRC-02016]。カエターノは同日朝、政治警察(DGS)長官からの電話で事態を知らされ、リスボン中心部カルモ広場のGNR(国家共和警備隊)本部へ避難した[SRC-02016]。サルゲイロ・マイア大尉率いる部隊がカルモ広場のGNR本部を包囲し、メガホンによる投降勧告と威嚇射撃ののち、文民の仲介者を通じてカエターノからスピノラへの政権委譲の意向が伝えられた。同日16時30分ごろ、カエターノがスピノラへの投降に正式に同意し、この学術資料が引用する先行研究は、これを半世紀続いた独裁体制の崩壊を決定づける画期だったと位置づけている[SRC-02016]。作戦は前夜22時55分の第一信号から数えて19時間で完了したとされる[SRC-02016]。この日、軍の一部部隊同士が発砲寸前まで対峙する場面が2度あったが、いずれも発砲には至らなかったと学術資料は記録している[SRC-02016]。クーデターは数時間のうちにほぼ流血を伴わずに成功したと複数の資料が記す[SRC-02015][SRC-02018]。

一方、カルモ広場での投降劇の後、18時以降にリスボン中心部のアントニオ・マリア・カルドーゾ通り(DGS本部所在地)に数百人のデモ隊が集まった。20時20分ごろ、DGS要員による発砲が始まり、この発砲で45人が撃たれ、そのうち4人が死亡したと学術資料は記録している。死亡した4人は、フェルナンド・カルヴァリョ・ジェステイロ(商業従業員)、ジョゼ・ジェームズ・ハートレイ・バルネト(事務員)、ジョアン・ギリェルメ・レゴ・アルーダ(学生)、フェルナンド・ルイス・バレイロス・ドス・レイス(兵士)と氏名が記録されている[SRC-02016]。DGS本部はその後も抵抗を続け、投降したのは25日から26日にかけての夜だったと記されている[SRC-02016]。この学術資料の著者は「MFAがラジオで『グランドラ、ヴィラ・モレーナ』の最初の詩節を聞いたとき、体制からどれほどの抵抗に遭うかは分からなかった。この抵抗はほぼ存在しなかったが、DGSの一部要員は本部に追い詰められた状態で、同じ日に4人を殺害した」と総括している[SRC-02016]。

カエターノをはじめ旧体制の高官の多くは逮捕され国外追放となり、その多くはブラジルへ亡命したと記録されている。亡命中だった社会党指導者マリオ・ソアレスとポルトガル共産党指導者アルヴァロ・クンハルは、蜂起後数日のうちに帰国して迎えられた[SRC-02015]。スピノラは1974年5月に新体制の暫定大統領に就任したが、自身が構想していた連邦的解決ではなく、ポルトガル領アフリカ植民地の独立を認めざるを得なくなり、ギニアビサウは同年9月初旬に独立を達成し、他の植民地の独立交渉も進行したと記されている[SRC-02015]。この記事は1974年4月25日のクーデターそのものの経過を主題としており、独立後のアンゴラ・モザンビークなど各植民地でその後実際にたどった過程の当否・評価には立ち入らない。

歴史的背景

エスタド・ノヴォ体制は、1926年の軍事クーデターで第一共和政が崩壊した後、1932年に首相となったアントニオ・デ・オリベイラ・サラザールが同年に樹立した権威主義体制であり、1933年の新憲法によってコーポラティズム理論が制度化された[SRC-02014]。国別研究書は、サラザールが効率的な秘密警察の助けを借りて専制的な支配を敷き、検閲を導入し、体制への反対者を投獄・国外追放し、時に殺害したと記している[SRC-02014]。1960年代、アンゴラ・モザンビーク・ギニアビサウ(当時ポルトガル領ギニア)で独立を求めるゲリラ運動が勃興し、10年以上に及ぶ植民地戦争がポルトガルの人的・財政的資源を消耗させた[SRC-02014]。1968年にサラザールが事故で執務不能となり、国務院は後継としてマルセロ・カエターノを選んだ。カエターノは体制の一部近代化・自由化を試みたが、大統領アメリコ・トマスや軍高官らの守旧派に阻まれたと国別研究書は記している[SRC-02014]。1973年に刊行されたスピノラの著書『ポルトガルと未来』が植民地戦争の遂行を批判したことも、体制内部からの初の公然たる異議として大きな衝撃を与えたと記されている[SRC-02015]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1973年(グレゴリオ暦) ポルトガル軍将校団が政令353号・409号への不満から地下組織を結成、のちの国軍運動(MFA)の母体となる [SRC-02017]
1974年3月5日(グレゴリオ暦) 秘密会合で「大尉たちのマニフェスト」が採択される [SRC-02017]
1974年3月16日(グレゴリオ暦) カルダス・ダ・ラインャで未遂のクーデターが起きる [SRC-02017]
1974年4月24日22時55分(グレゴリオ暦) ラジオ放送による第一の決起合図 [SRC-02016]
1974年4月25日0時20分(グレゴリオ暦) 「グランドラ、ヴィラ・モレーナ」放送による第二の決起合図 [SRC-02016]
1974年4月25日16時30分ごろ(グレゴリオ暦) カエターノがカルモ広場のGNR本部でスピノラへの政権委譲に正式合意 [SRC-02016]
1974年4月25日18時(グレゴリオ暦) 軍事作戦がほぼ終結(第一信号から19時間) [SRC-02016]
1974年4月25日20時20分ごろ(グレゴリオ暦) リスボンのDGS本部前で発砲、45人が撃たれ、うち4人死亡 [SRC-02016]
1974年4月25日夜〜26日(グレゴリオ暦) DGS本部が投降 [SRC-02016]
1974年9月初旬(グレゴリオ暦) ギニアビサウが独立を達成 [SRC-02015]
1975年4月25日(グレゴリオ暦) 憲法制定議会選挙が実施される [SRC-02019]
1976年7月(グレゴリオ暦) 最初の憲法政府が発足 [SRC-02019]
異説・論争定説のない論点があります

この出来事をめぐっては、事実の対立というより「呼称・特徴づけ」と「実際に記録された犠牲」との関係が論点になる。本記事が確認した6件の資料のうち、米国議会図書館の国別研究書1件(SRC-02015)と米国外交官の口述史(SRC-02018)は、この出来事を「ほぼ無血」(原文でそれぞれ"virtually no bloodshed"・"the nearly bloodless revolution")と特徴づけている。これに対し、査読を経た学術論文(SRC-02016)は、この特徴づけを否定するのではなく、「体制からの抵抗はほぼ存在しなかった」としたうえで、同じ日にDGS要員が4人を殺害した事実を明記している。すなわち、複数の資料は「軍と旧体制側との衝突がほとんどなかった」という意味での「無血」という通称と、「政治警察本部前での発砲による死者が実際に出た」という事実の両方を記録しており、本記事はいずれか一方を採らず両方を記載する。

なお、DGS本部前での発砲で撃たれた45人とそのうち死亡した4人の氏名については、本記事が確認した6件の資料のうち学術論文(SRC-02016)のみが具体的な数値と氏名を記しており、他の5件はこの数値に言及していない。本記事はこの死者数・氏名を単一の資料にのみ基づく記述として扱う。なお同資料が死者の年齢の典拠として挙げる博物館の記録(未登録)を照会したところ、氏名・職業は一致する一方で年齢に相違があったため、本記事は年齢の記載を見送り氏名・職業のみを記す。

このほか、本記事が確認した登録出典の間には、周辺的な事実について4件の記述の相違がある。第一に、蜂起の第一の合図の時刻について、SRC-02016は「4月24日22時55分」と記すのに対し、SRC-02017は「23時45分」と記している。第二に、作戦名について、SRC-02016は「ヴィラージェン・イストリカ作戦」と記すのに対し、SRC-02017は同じ作戦を「フィン・レジーム作戦(Fim-Regime)」と呼んでいる。第三に、スピノラの著書『ポルトガルと未来』の刊行時期について、SRC-02015は「1973年」と記すのに対し、SRC-02017は「1974年2月」と記している。第四に、エスタド・ノヴォ体制の樹立年について、SRC-02014は「1932年」に樹立されたと記すのに対し、SRC-02018は「1933年」に樹立されたと記している。本記事は本文でSRC-02016・SRC-02015・SRC-02014の記述をそれぞれ採用しているが、これらの点については登録出典間で記述が一致していない。1932年の採用は、SRC-02014がサラザールの首相就任(1932年)とエスタド・ノヴォ体制の始まりを同年の出来事として明記していることに基づく。

上記以外に確認された異説はない(調査範囲: 米国議会図書館の国別研究書〔独立した3つの章〕、査読学術誌論文1件、ポルトガル公共放送の教育解説記事1件、米国の外交史専門団体による口述史1件の計6件を横断的に確認した)。クーデターの主体・日付・カエターノ政権の打倒という中核的事実については、独立した複数の資料系統間で記述の対立は確認されなかった。「ほぼ無血」という特徴づけは上記のとおり2系統(SRC-02015・SRC-02018)で確認しており、これを否定する記述も確認されなかった。

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

複数の資料は、この出来事が権威主義体制エスタド・ノヴォの終焉になったと記している[SRC-02015]。米国外交史専門団体の資料は、同体制を「西欧で当時最も長く存続した独裁体制」だったと位置づけている[SRC-02018]。また、この出来事の1年後に実施された憲法制定議会選挙は、多くのポルトガル人が多元的民主主義を志向する中産階級政党に投票する結果となり、多くの国民がこれを民主主義確立の兆しと受け止めたと国別研究書は記している[SRC-02019]。この出来事を機にポルトガル領アフリカ植民地の独立交渉が始まったことも、複数の資料が共通して記す帰結である[SRC-02015][SRC-02018]。これらはいずれも各資料が記す評価・帰結であり、本サイト自身がこの出来事の歴史的な当否を評価するものではない。

現代の視点

今日、4月25日は「ポルトガル自由の日」として祝われており、リスボンの橋は「4月25日橋」の名で知られている[SRC-02018]。本記事は、この出来事そのものの経過と、当時の資料が記す直後の帰結(政権の交代・独立交渉の開始)を扱うものであり、その後のポルトガルやかつての植民地における政治的展開の当否については扱わない。

出典一覧

  1. [SRC-02014] Portugal - THE REVOLUTION OF 1974 (chapter: The Salazar-Caetano Era)/countrystudies.us(原著: Eric Solsten (ed.), *Portugal: A Country Study*, Washington: GPO for the Library of Congress, 1993)(ランクA)
  2. [SRC-02015] Portugal - Spínola and Revolution/countrystudies.us(原著: Eric Solsten (ed.), *Portugal: A Country Study*, Washington: GPO for the Library of Congress, 1993)(ランクA)
  3. [SRC-02016] O 25 de Abril de 1974 e a PIDE/DGS/Revista Crítica de Ciências Sociais(Centro de Estudos Sociais, Universidade de Coimbra 発行)(ランクA)
  4. [SRC-02017] As motivações do golpe militar de 25 de Abril de 1974/RTP Ensina(ポルトガル公共放送RTPの教育部門サイト)(ランクB)
  5. [SRC-02018] The Carnation Revolution – A Peaceful Coup in Portugal/Association for Diplomatic Studies and Training (ADST)(ランクB)
  6. [SRC-02019] Portugal - The Transition to Civilian Rule/countrystudies.us(原著: Eric Solsten (ed.), *Portugal: A Country Study*, Washington: GPO for the Library of Congress, 1993)(ランクA)

本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。

訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-29—
22026-09-29あり
32026-09-29あり
42026-09-29あり
52026-09-29あり
62026-09-29あり
72026-09-29不明

訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。