1923年世界 20世紀
カーターが玄室の封印扉を開けると、そこは黄金の厨子で埋め尽くされていた
日付と暦
- 原典表記
- 1923年2月16日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1923-02-16(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 2月16日のページ
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概要
1923年2月16日の午後、ハワード・カーターは、エジプト・王家の谷にあるツタンカーメン王墓の前室奥に立つ2体の衛兵像の間の封印扉を、エジプト政府高官・考古学者ら約20名の立会いのもとで開封した[SRC-01465][SRC-01466]。鑿で開けた小さな穴に電灯を差し入れたカーターの目に最初に飛び込んできたのは、行く手を塞ぐ"a solid wall of gold"(黄金の壁)だった[SRC-01466]。約2時間かけて石材を取り除くと、その正体は、部屋のほぼ全体を占める巨大な黄金の厨子(シュライン)の側面であることが分かった[SRC-01466][SRC-01467]。厨子の内部にはさらに封印されたままの第二の厨子があり、その封印はこの日割らずに残された[SRC-01466][SRC-01467]。隣接する未封印の小部屋も同日のぞき込み、黄金のカノプス厨子と4体の女神像などを視認している[SRC-01466][SRC-01467][SRC-01468]。この開封が行われた日付は、カーター自身の発掘日誌と同席者2名の私信・覚書では16日と記録される一方、発見翌年に刊行されたカーターとメイスの共著は「金曜日の17日」と記しており、日付に食い違いがある[SRC-01465][SRC-01466][SRC-01467][SRC-01468]。
本文
2月中旬までに、前室(Antechamber)内の副葬品はすべて研究室へ運び出され、床も隅々まで掃き清められて、2体の衛兵像だけが特別な理由で残されていた[SRC-01466]。開封は2月16日と定められ、当日午後2時過ぎ、立会いを許された約20名——カーナヴォン伯爵、レディ・イヴリン・ハーバート、公共事業省高官アブド・エル=ハリム・パシャ・スレイマン、文化財局長官ピエール・ラカウ、サー・ウィリアム・ガースティン、メトロポリタン美術館のライスゴー、そしてウィンロック、ブレステッド教授、エジプト学者アラン・ガーディナー[SRC-01470]、メイス、キャレンダー、ルーカス、バートンら——が集まった[SRC-01465][SRC-01466][SRC-01468]。
報道陣は、政府代表者を立ち会わせない"secret opening"(秘密の開封)が行われるのではと数日前から現場に張り付いていたが、観光客を避けるため開封は午後に設定され、サー・ウィリアム・ガースティンら数名は昼食会へ直接到着して人目につかなかったため、これを出し抜く形になったという[SRC-01468]。衛兵像を保護する板囲いの間に小さな足場が組まれ、上から下へ封印を崩していく方針が取られた[SRC-01466][SRC-01468]。カーターは上着を脱いで足場に上がり、震える手で最初の一撃を振るったと記す[SRC-01466][SRC-01468]。鑿で漆喰と石を除き、10分ほどで電灯を差し入れられる穴が開くと、"there, within a yard of the doorway, stretching as far as one could see and blocking the entrance to the chamber, stood what to all appearance was a solid wall of gold"(扉から1ヤードも離れていない場所まで、見渡す限り迫る黄金の壁のようなものが立ちはだかっていた)と記録される光景が現れた[SRC-01466]。
正体はすぐには分からなかったが、メイスとキャレンダーも作業に加わり、約2時間がかりで石材を取り除くと、扉の先にあったのは玄室(sepulchral chamber)そのものであり、行く手を塞いでいたのは王の石棺を覆う巨大な黄金の厨子の側面だったことが判明した[SRC-01465][SRC-01466]。ガーディナーはその場での目算として厨子を"at least 24 x 16 x 10 feet"(少なくとも24×16×10フィート)と記し、"the whole catafalque, or shrine, very nearly filled the room"(厨子はほぼ部屋全体を占めていた)と書いている[SRC-01467]。後日の実測では17×11×9フィートとされた[SRC-01466]。厨子と壁の間は、カーターの記録では約2フィート、メイスの記録では約18インチとされるわずかな隙間しかなく、その隙間を伝ってようやく奥へ進むことができた[SRC-01466][SRC-01468]。
厨子東側の観音開きの扉は閉じてはいたが封印されておらず、開けてみると、内側にはひとまわり小さい第二の厨子があり[SRC-01467]、その閂には壊されていない封印が見えた[SRC-01466]。カーターは"This seal we determined not to break, for our doubts were resolved, and we could not penetrate further without risk of serious damage to the monument"(この封印は割らないことに決めた。疑問はもう解けていたし、記念物に深刻な損傷を与える危険を冒してまで先へ進む必要はないと思われたからだ)と記しており、一行は静かに扉を閉じ直した[SRC-01466]。玄室の東側には封印のない低い戸口があり、そこから隣接する小部屋の全景を見渡すことができた[SRC-01466]。黄金で覆われたカノプス厨子と、それを四方から守るように立つ4体の女神像、亜麻布に包まれ持ち運び用のそりの上に横たわるアヌビス神の像、数多くの黒い厨子や箱などが目に入った[SRC-01466][SRC-01467][SRC-01468]。一行は午後2時15分に地下へ下り、外へ出たのは5時を過ぎてからだった[SRC-01468]。
歴史的背景
この開封は、1922年11月4日の階段最初の一段の発見(関連記事「ハワード・カーターが11月4日に見つけたのは、黄金ではなく一段の石段だった」を参照)と、同月26日の前室内部の視認(関連記事「カーターが壁の穴からのぞいた直後、隠し場所ではなく王墓だと確信に変わった」を参照)に続く一連の発掘の延長線上にある[SRC-01465]。前室が王墓であるとの見立てのもと、発掘隊は同年末から翌1923年2月にかけて、前室内の副葬品を記録・搬出する作業に費やし、この作業が完了した2月中旬になって初めて、衛兵像の間の封印扉——その先に玄室があると見立てられていた扉——に着手できる状態になった[SRC-01466]。あわせて1月26日には、カーナヴォン伯爵とカーターがカイロで政府関係者(首相・公共事業省大臣・同省高官・文化財局長官ラカウ)と面会し、報道の扱いや一般公開の日程を取り決めている[SRC-01465]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1922年11月4日(グレゴリオ暦) | 階段最初の一段を発見(関連記事参照) | [SRC-01465] |
| 1922年11月26日(グレゴリオ暦) | 前室内部を初めて視認(関連記事参照) | [SRC-01465] |
| 1923年1月26日(グレゴリオ暦) | カーナヴォン伯爵とカーターがカイロで政府関係者と面会し、報道・一般公開の扱いを取り決め | [SRC-01465] |
| 1923年2月15日(グレゴリオ暦) | 玄室封印扉開封の準備、印章の調査を継続 | [SRC-01465] |
| 1923年2月16日(グレゴリオ暦) | 約20名の立会いのもとで玄室封印扉を開封。黄金の厨子を視認 | [SRC-01465][SRC-01466][SRC-01467][SRC-01468] |
| 1923年2月17〜18日(グレゴリオ暦) | 視察・公開の準備。18日はベルギー王妃らを招いての披露 | [SRC-01465] |
| 1923年2月19日(グレゴリオ暦) | 報道陣が墓を訪れる | [SRC-01465] |
| 1923年4月5日(グレゴリオ暦) | カーナヴォン伯爵、カイロで死去したとされる | [SRC-01469][SRC-01470] |
暦の注記: 上表の日付はいずれもグレゴリオ暦であり、1922〜23年の本事象に改暦境界等の複雑さは生じない。ただし2月16日の開封という同一の出来事について、資料間で日付表記が1日食い違う点があり、異説・論争欄で扱う。
異説・論争定説のない論点があります
調査範囲: SRC-01465(カーター自身の発掘日誌)・SRC-01466(カーターとメイスの共著、発見翌年刊)・SRC-01467(ガーディナーの私信、開封翌日付)・SRC-01468(メイスの覚書、開封の約2週間後付)。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 玄室封印扉を開封した日付 | カーター自身の発掘日誌は「16 Feb.」の条に開封の記述を置く | [SRC-01465] | カーター本人による発見当日中の記録 |
| 同上 | アラン・ガーディナーが妻へ宛てた私信は、開封翌日の1923年2月17日付で「Yesterday(昨日)」開封作業があったと記す。すなわち開封日は16日となる | [SRC-01467] | カーターとは独立した第二の目撃者による、開封翌日付の同時代記録 |
| 同上 | アーサー・メイスが開封の約2週間後(1923年3月3日付)に記した覚書は、開封が「On the Friday(金曜日に)」行われたと記す | [SRC-01468] | カーター・ガーディナーとは独立した第三の目撃者による同時代記録 |
| 同上 | 発見翌年(1923年)に刊行されたカーターとメイスの共著は、開封の日を「Friday, the 17th(金曜日の17日)」と記す。この日付表記は、2002年発表の学術論文(呪いに関する統計研究)にも引き継がれている | [SRC-01466][SRC-01469] | カーター本人らによる記録だが、日誌・私信の約1年後に編集を経て公刊されたもの |
| 同上(曜日の手がかり) | 1923年2月16日は金曜日、17日は土曜日である(本サイトの暦計算) | ― | 日誌・両私信が指す16日という日付は「金曜日」という曜日表記と一致するが、刊行書の「金曜日の17日」という記述は曜日と内部的に矛盾する |
関連する出来事
- カーナヴォン伯爵は1923年4月5日、カイロで、蚊に刺された部位に生じた丹毒から敗血症・肺炎へと進行して死去したとされる[SRC-01469][SRC-01470]。この死をきっかけに、作家アーサー・コナン・ドイルが、発掘によって解き放たれた「精霊(elemental)」のしわざだとする見方を公言するなど、「ファラオの呪い」を語る報道が国際的に広まった[SRC-01469][SRC-01470]。もっとも、王墓自体から侵入者への呪詛を記した銘文が見つかったわけではない[SRC-01470]。2002年に英国医学雑誌に発表された統計的研究は、発掘・開封に立ち会った関係者と、立ち会わなかった人々との生存期間を比較し、両者の間に統計的に有意な差はなく、呪いの存在を支持する証拠は見られなかったと結論づけている[SRC-01469]。
関連人物
- ハワード・カーター(Howard Carter): イギリス人考古学者[SRC-01469]。1923年2月16日、玄室封印扉に最初の一撃を加え、開封作業を主導した[SRC-01466]。
- カーナヴォン伯爵(Lord Carnarvon、ジョージ・ハーバート): カーターの発掘の後援者[SRC-01465][SRC-01469]。開封に立ち会い、ラカウとともに玄室内部へ入った[SRC-01466]。
- ピエール・ラカウ(Pierre Lacau): エジプト政府文化財局(Service des Antiquités)長官[SRC-01465][SRC-01466]。開封に立ち会い、内部を確認した[SRC-01466]。
- アブド・エル=ハリム・パシャ・スレイマン(Abd el Halim Pasha Suleman): エジプト公共事業省の高官[SRC-01465][SRC-01466]。開封に立ち会った、エジプト政府側の代表者の一人[SRC-01465]。
- アーサー・C・メイス(A. C. Mace): 考古学者。カーターの共著者[SRC-01466]。開封作業でカーターを手伝い、その体験を覚書に記した[SRC-01468]。
- アラン・H・ガーディナー(A. H. Gardiner): エジプト学者[SRC-01470]。開封に立ち会い、その翌日に妻へ宛てた私信で体験を記した[SRC-01467]。
- アーサー・コナン・ドイル(Arthur Conan Doyle): 作家[SRC-01470]。カーナヴォン伯爵の死去を、発掘によって解き放たれた「精霊」のしわざだと公言した[SRC-01470]。
- レディ・イヴリン・ハーバート(Lady Evelyn Herbert): 1923年2月16日の玄室封印扉開封に立ち会った、その場に居合わせた唯一の女性[SRC-01466][SRC-01468]。
- アーサー・キャレンダー(Arthur Callender): カーターの発掘に協力した人物[SRC-01465]。開封に立ち会い、石材除去の作業を手伝った[SRC-01465][SRC-01466]。
- ツタンカーメン(Tutankhamun): 古代エジプトの王[SRC-01466]。1923年2月16日に開封された玄室の厨子は、この王の石棺を覆い保護するためのものだった[SRC-01466]。
歴史的意義
この開封により、発掘隊は初めて玄室そのもの——ツタンカーメンの石棺を納めた場所——の存在を目視で確認した[SRC-01466]。厨子は全面が金で覆われ、側面には青いファイアンスの象嵌パネルが施されており、なお内側に少なくとも一つの封印された厨子が控えていることも分かった[SRC-01466][SRC-01467]。隣接する小部屋に残るカノプス厨子と4体の女神像について、メイスは"the most impressive monument I've ever seen"(これまで見た中で最も印象的な記念物)と記している[SRC-01468]。
現代の視点
一般に「ツタンカーメン王墓の発見」といえば1922年11月の出来事として語られることが多いが(本サイトの整理)、王の石棺を覆う厨子そのものが視界に入ったのは、それから3か月近くを経た1923年2月16日のことだった[SRC-01465][SRC-01466][SRC-01467][SRC-01468]。この開封の場には、エジプト政府文化財局長官ラカウや同政府の高官・複数の監督官、政府系プレス機関の代表者らが立ち会っており、発掘がエジプト政府の監督下で進められていたことがうかがえる(本サイトの整理)[SRC-01465][SRC-01466]。
「ファラオの呪い」は、この開封からおよそ7週間後のカーナヴォン伯爵の死去を機に広まった物語である[SRC-01469][SRC-01470]。2002年の統計的研究は、開封・発掘に関わった人々の生存期間を関わらなかった人々と比較し、有意な差を見いだせなかったとしている[SRC-01469]。もっとも、同研究自体も、入手できた記録の完全性や比較対象の設定に限界があると自ら述べており、呪いの存在を積極的に証明も反証もするものではない(本サイトの整理)[SRC-01469]。
開封の日付をめぐっては、カーター自身の発掘日誌と、開封に居合わせた2人の目撃者(ガーディナー、メイス)による独立の同時代記録が、いずれも2月16日(金曜日)を指し示す一方、発見翌年に刊行された記録——カーターとメイスの共著——は「金曜日の17日」と記しており、1923年2月17日が実際には土曜日だったことと矛盾する[SRC-01465][SRC-01466][SRC-01467][SRC-01468]。同時代の一次記録に立ち返ると、刊行物の記述にも食い違いが潜んでいることが見えてくる。
出典一覧
- [SRC-01465] Tutankhamun: Anatomy of an Excavation — Howard Carter's excavation journal, 1st Season (28 October 1922 – 30 May 1923)/The Griffith Institute, University of Oxford(ランクA)
- [SRC-01466] The Tomb of Tut-ankh-Amen, Vol. I: Search, Discovery and the Clearance of the Antechamber — Chapter XI: The Opening of the Sealed Door/Internet Archive(原本: Cassell and Company, Ltd., London, 1923)(ランクA)
- [SRC-01467] A. H. Gardiner's account of the opening of the burial chamber of Tutankhamun on February 16, 1923/The Griffith Institute, University of Oxford(ランクA)
- [SRC-01468] A. C. Mace's account of the opening of Tutankhamun's burial chamber/The Griffith Institute, University of Oxford(ランクA)
- [SRC-01469] The mummy's curse: historical cohort study/BMJ(英国医師会雑誌)/PubMed Central (PMC139048)(ランクA)
- [SRC-01470] Unmasking Howard Carter—the man who found Tutankhamun/National Geographic(ランクB)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-18 | あり |
| 2 | 2026-09-18 | あり |
| 3 | 2026-09-18 | あり |
| 4 | 2026-10-09 | なし |
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