1917年世界 20世紀

ニコライ2世、退位——ロマノフ朝の終焉

日付と暦

原典表記
1917年3月2日(ユリウス暦)
換算
1917-03-15(グレゴリオ暦)
掲載日
3月2日のページ

暦の注記: この出来事は当時のロシア帝国が用いていたユリウス暦(露暦)の1917年3月2日に起きたとみられる(グレゴリオ暦〔新暦〕換算: 1917年3月15日)[SRC-01577][SRC-01578][SRC-01581][SRC-01524][SRC-01579][SRC-01580]。ただし、出典間で退位日の表記が『3月2日』(暦種別の明記なし)[SRC-01577][SRC-01578][SRC-01581]と『3月15日』[SRC-01524][SRC-01579][SRC-01580]に分かれており、この2つの値を同一出来事の換算ペアとして単一の出典が直接明記している箇所は確認できなかった。本サイトは、ロシア帝国が1918年2月まで露暦(ユリウス暦)を用いていたこと[SRC-01522]、退位詔書自身が『March 2, 1917』の日付を自ら記し同時代のロシア語紙『ペトログラード・ジャーナリスト委員会報知(イズヴェスチヤ)』を原出典とすること[SRC-01581]、20世紀のユリウス暦/グレゴリオ暦の日数差が13日であること[SRC-01524]を踏まえ、『3月2日』を原典の値として 03-02 のページに掲載しているが、この対応づけの確からしさは『確実』ではなく『有力』の水準として扱う(詳細は異説・論争欄)。

この記事の主張は出典に紐づけて検証しています。検証記録を見る

概要

1917年、ロシア二月革命の展開の中で、ロシア帝国皇帝ニコライ2世が退位した[SRC-01577][SRC-01578][SRC-01525]。ニコライは退位に際し、当初は皇太子アレクセイへの譲位を意図したが[SRC-01577][SRC-01578]、アレクセイが健康上の理由(血友病)で不適格であるとの助言を受け、皇位は弟のミハイル大公へ差し向けられた[SRC-01578]。ミハイルは正式な統治者とはならず[SRC-01577][SRC-01578][SRC-01579]、300年以上続いたロマノフ王朝による統治はそこで終わりを告げた[SRC-01523][SRC-01579]。ロシア二月革命の発端となった抗議行動(露暦2月23日・本サイトの別記事の主題)から数日のうちに起きた出来事である[SRC-01523][SRC-01525]。

本文

1917年2月末、ロシア帝国の首都ペトログラードでは、デモと暴動が勃発し、社会のどの層も君主制を支持しなくなっていた[SRC-01578](デモの契機である食糧〔パン〕不足については本サイトの別記事を参照。本記事の射程外)。皇帝ニコライ2世は当時、大本営のあるモギリョフに滞在していたが[SRC-01578][SRC-01579]、事態の悪化を受けて自軍の将軍たちと国会(ドゥーマ)からの代表団により、退位のみが社会的平和をもたらせると説得された[SRC-01523]。ペトログラードへ戻って旧状回復を図ろうとしたニコライの試みは実らなかった[SRC-01523]。

ニコライは、まず息子であり皇位継承者である皇太子アレクセイの名において譲位した[SRC-01577][SRC-01578]。しかし、アレクセイが血友病を患っており[SRC-01578]、医学的に不適格であるとの助言を受けると[SRC-01578]、ニコライは弟のミハイル大公へ皇位を差し向けた[SRC-01577][SRC-01578][SRC-01579]。World History Encyclopediaは、ニコライが「ロマノフ家が歴史から消え去ろうとしていることを理解していなかった」と評しつつ、弟を後継に選んだと記す[SRC-01577]。

国会臨時委員会(この時点で臨時政府となっていた)からの代表団がミハイル大公のもとを訪れたが[SRC-01579]、ミハイルは皇帝としての正式な即位を辞退した[SRC-01578][SRC-01579]。Encyclopedia of World Biographyは、この結末を「君主制は、王朝からもその支持者たちからも、ほとんど何のあらがいもなく消え去った」と記す[SRC-01579]。Encyclopedia of Russian Historyは端的に「ミハイルがこれを拒否すると、ロマノフ王朝は終わりを告げた」と記す[SRC-01578]。他方、World History Encyclopediaは、ミハイルが「ミハイル2世として1日だけ在位したが、正式にそのように確認されることはなかった」と、やや異なる特徴づけで記している[SRC-01577](この相違については異説・論争欄を参照)。

退位の際のニコライの心境については、出典が引用する日記の一節に対照的な調子の違いがある。World History Encyclopediaは、ニコライの日記の一文「あたり一面、裏切りと臆病と欺瞞だ!」を引用する(Montefioreの著作からの孫引き)[SRC-01577]。他方、Encyclopedia of World Biographyは、退位は比較的平静に行われたとしたうえで[SRC-01579]、その翌日、列車の中でニコライが「長くぐっすりと眠った……日差しと霜……ユリウス・カエサルを多く読んだ」と記したという、対照的に平穏な日記の一節を引用している[SRC-01579]。

歴史的背景

ニコライ2世は、第一次世界大戦で自ら軍の統帥を執るという決断をしたが、これは不用意なものであり皇帝の権威失墜の一因になったとされる[SRC-01577]。戦争による食糧不足と物価高騰への民衆の不満は、1917年2月末にペトログラードでの抗議行動として噴出し(露暦2月23日・本サイトの別記事の主題)、数日のうちに軍部隊の離反、国会臨時委員会による臨時政府の樹立へと拡大した(本サイトの整理)。皇帝の退位は、この一連の展開の帰結として位置づけられる(本サイトの整理)。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
露暦1917年2月23日 ロシア二月革命の発端となる抗議行動が始まる(本サイトの別記事の主題。本記事の射程外) [SRC-01523][SRC-01525]
露暦1917年2月27日(シーゲルバウムのエッセイの記述の流れに沿えば) ペトログラードで主要な軍部隊が離反する [SRC-01523]
露暦1917年2月28日(同エッセイは「翌日」と記す) 帝政の閣僚たちが逮捕される [SRC-01523]
露暦1917年3月2日(原文に暦種別の明記なし。本記事は露暦とみられると判断) 国会臨時委員会が自らを臨時政府と宣言する。同日、ニコライ2世が退位したとされる [SRC-01523][SRC-01577][SRC-01578]
露暦1917年3月2日(グレゴリオ暦換算とみられる1917年3月15日) ニコライ2世が皇太子アレクセイへの譲位を経て弟ミハイル大公へ皇位を差し向け、ミハイルは正式な統治者とならなかった(本記事の主題) [SRC-01577][SRC-01578][SRC-01579][SRC-01581][SRC-01524]
1918年7月(日にちの記載に出典間で1日のずれあり) ニコライ2世とその家族が処刑される(本記事の射程外) [SRC-01577][SRC-01580]
異説・論争定説のない論点があります
論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
退位日の暦種別と換算の確度 退位日を『3月2日』(暦種別の明記なし)と記す出典と、『3月15日』と記す出典があり、両者を同一出来事の換算ペアと直接明記する出典は確認できなかった。退位詔書自身は『March 2, 1917』と日付を自ら記すが、新暦での対応日は記さない [SRC-01577][SRC-01578][SRC-01581](3月2日)/[SRC-01524][SRC-01579][SRC-01580](3月15日) 本サイトはロシア帝国が1918年2月まで露暦を用いていたこと[SRC-01522]、退位詔書自身が同時代のロシア語紙『ペトログラード・ジャーナリスト委員会報知(イズヴェスチヤ)』を原出典として『3月2日』の日付を記すこと[SRC-01581]、20世紀の日数差13日[SRC-01524]から、両者を露暦/新暦の対応と扱うが、単一出典による直接の明記を欠くため、この対応づけの確からしさは『有力』の水準に留める(本サイトの独立検証では独自の暦換算には当たらないと確認されているが、単一出典で直接明記される水準には至っていないためこれを『確実』とはしない)。ロシア二月革命の開始日換算〔ART-00170〕とは異なり、この対応関係自体は本記事が出典の記述を組み合わせて構成したものである点を開示する
ミハイル大公の対応の性格づけ World History Encyclopediaは『ミハイル2世として1日だけ在位したが、正式に確認されることはなかった』と記す一方、Encyclopedia of Russian History・Encyclopedia of World Biographyは『即位を拒否した』と端的に記す [SRC-01577]/[SRC-01578][SRC-01579] 本記事が確認した出典の範囲では、この特徴づけの相違について出典間の言及や学界的な優劣判定は確認できない。本サイトは両論を並記するにとどめる
譲位先の変遷の理由 ニコライが当初の譲位先(皇太子アレクセイ)を弟ミハイルへ変更した理由について、Encyclopedia of Russian Historyは『アレクセイが医学的に不適格との助言』を明記するが、World History Encyclopediaはこの理由に触れず『弟を選んだ』という結果のみを記す [SRC-01578]/[SRC-01577] 医学的理由(血友病)を明記するのは本記事が確認した範囲では単独系統であり、他系統がこれを否定しているわけではない(言及がないのみ)。本サイトはこの点の確からしさを『有力』の水準として扱う
処刑日の記載 ニコライ一家の処刑日について、World History Encyclopediaの年表は『7月17日』、HISTORY.comは『7月16日の夜』と記す(本記事の射程外の事象) [SRC-01577]/[SRC-01580] 処刑そのものは本記事の主題(退位)の射程外であり、本サイトはタイムラインで具体的な日にちを断定せず『1918年7月』とのみ記す

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

1613年以来続いた[SRC-01577]ロマノフ王朝による統治は、ニコライ2世の退位と、後継とされたミハイル大公が正式な統治者に至らなかったことにより終わりを告げた[SRC-01577][SRC-01578][SRC-01579]。皇位継承の順序(皇太子アレクセイ→弟ミハイル大公)が短期間のうちに変転し、ミハイルが正式な即位に至らなかったという結末は、帝政ロシアの統治体制がこの時点で急速に求心力を失っていたことを示す一例として位置づけられる(本サイトの整理。ミハイルの対応の性格づけ自体は出典間で相違がある——異説・論争欄参照)。もっとも、この後の臨時政府の展開や、ボリシェヴィキによる十月革命、皇帝一家の処刑(1918年)は、本サイトの別記事・射程に委ねる。

現代の視点

ロシア帝国の退位手続きにおいて、皇帝が息子でなく弟を後継に指名できたのか、また弟が即位を辞退したことの法的な位置づけをどう見るかは、出典間でも記述の性格づけが分かれる論点である(World History Encyclopediaの「1日だけ在位したが未確認」という表現と、他の出典の「拒否した」という表現の相違——異説・論争欄参照)。本サイトはこの相違を事実として開示するにとどめ、いずれか一方の評価に断定しない(R6)。

出典一覧

  1. [SRC-01577] Tsar Nicholas II: Last of the Romanovs/World History Encyclopedia(非営利法人。著者: Mark Cartwright)(ランクB)
  2. [SRC-01578] Nicholas II/Encyclopedia.com(Gale刊行の複数の参考事典を集約するページ。本Sourceが使用するのは著者Peter Waldron『Encyclopedia of Russian History』収載項目のみ)(ランクB)(複数の資料を収載)
  3. [SRC-01579] Nicholas II (1868–1918)/Encyclopedia of World Biography(Gale刊。encyclopedia.com経由で参照)(ランクB)
  4. [SRC-01580] Czar Nicholas II abdicates Russian throne | March 15, 1917/HISTORY(A&E Television Networks)(ランクB)
  5. [SRC-01524] Russian Revolution | Definition, Causes, Summary, History, & Facts/Encyclopaedia Britannica(ランクB)
  6. [SRC-01525] Women in the Russian Revolution/World History Encyclopedia(非営利法人。著者: Mark Cartwright)(ランクB)
  7. [SRC-01523] February Revolution — Subject Essay: Lewis Siegelbaum/Seventeen Moments in Soviet History(ミシガン州立大学)著者: Lewis Siegelbaum(ランクA)
  8. [SRC-01522] Russian Revolution/HISTORY(A&E Television Networks)(ランクB)
  9. [SRC-01581] Abdication Manifesto/Seventeen Moments in Soviet History(ミシガン州立大学)。掲載テキストの原出典書誌: Frank Golder, ed., Documents of Russian History, 1914-1917 (New York: The Century Co., 1927), pp. 297-98(ランクA)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-19あり
22026-09-19あり

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