ウッツォンは、招かれた開場式典を自ら辞退した

日付と暦

原典表記
1973年10月20日(グレゴリオ暦)
換算
1973-10-20(グレゴリオ暦)
掲載日
10月20日のページ

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概要

1973年10月20日、シドニー・オペラハウスの開場式典に、この建物を設計したヨーン・ウッツォンの姿はなかった[SRC-00576]。「ウッツォンは招待すらされず、名前も一切呼ばれなかった」という話が長く語られてきたが、ニューサウスウェールズ州立公文書館の記録によれば、州政府(ロバート・アスキン首相)は同年6月20日付でウッツォンに正式な招待状を送っていた[SRC-00576]。ウッツォンは同年8月1日付の返信で招待への謝意を示しつつ、大臣批判を避けられなくなることを理由に出席を辞退した[SRC-00576]。式典でエリザベス2世は、この建設が問題を伴わなかったわけではないと理解している("I understand that its construction has not been totally without problems")と述べて施設を公式に開場した[SRC-00571][SRC-00576]。この式辞はウッツォンの名を挙げなかったが、式典で自ら式辞を述べたアスキン首相は、ウッツォンの独創的で想像力に富む設計("Jørn Utzon's original and imaginative design")に触れ、その名を挙げた[SRC-00576]。

本文

1956年2月15日、ニューサウスウェールズ州首相ジョセフ・カヒールは、ベネロング・ポイントに建てる「国立オペラハウス」("a National Opera House")の国際設計競技を公示した[SRC-00573]。28か国から223件を超える応募が集まった[SRC-00573]。シドニー・オペラハウス公式沿革は、1957年1月29日に当時38歳で無名だったウッツォンの設計案(218番)の採用が発表され、見積もられた建設費は350万ポンドだったと記す[SRC-00573]。

1959年3月2日、カヒール自らが定礎の銘板を取り付けて着工した[SRC-00574]。しかしベネロング・ポイントの地盤が想定と異なり、当初予算にない補強工事が必要になった[SRC-00574]。屋根の球面解が承認された1962年半ばには建設費の見積りが1,370万ポンドまで膨らみ、ウッツォンと州政府の関係は悪化した[SRC-00572]。1965年の政権交代で公共事業大臣となったデイヴィス・ヒューズはウッツォンへの支払いを制限した[SRC-00572]。1966年2月28日の面会でウッツォンは席を立って退出し、その日のうちにヒューズは報道陣へ、ウッツォンは辞任したと公表した[SRC-00572]。同年4月28日、ウッツォンは家族とともにオーストラリアを離れた[SRC-00572]。

1973年、開場式の準備が進むなか、ウッツォンの出欠が新聞紙上で取り沙汰された[SRC-00576]。州首相府の内部メモ(1973年6月15日付)は、アスキン首相が招待の意向を示していたと記す[SRC-00576]。招待状は同年6月20日付で発送され、夫人同伴の招待に加え、旅費・宿泊の提供も申し出られた[SRC-00576]。ウッツォンは8月1日付の返信で、政府の客人でありながら大臣(ヒューズ)を批判せずにはいられなくなる("as I cannot be the guest of the Government of New South Wales and at the same time critisize [sic] one of its ministers")ことを理由に出席を辞退すると伝えた[SRC-00576]。翌日、首相府はウッツォンが出席しないことを公表した[SRC-00576]。

1973年9月28日、公式開場に先立ちオペラ・ホールで最初の演目(プロコフィエフ『戦争と平和』)が上演され[SRC-00571]、同年10月20日、エリザベス2世臨席のもと公式開場式典が行われた[SRC-00571][SRC-00576]。

歴史的背景

1957年の国際設計競技でウッツォンの案が採用されたことは、建設に対する「根本的に新しいアプローチ」("a radically new approach to construction")をもたらしたと、ユネスコ世界遺産センターの解説(英語版)は記す[SRC-00575]。SRC-00574によれば、ベネロング・ポイントの地盤が想定と異なり当初予算にない補強工事が必要になったことは、見積り費用350万ポンドを超える費用超過を招いた。また、屋根を支える構造の荷重は当時まだ確定していなかった。建設第一段階(Podium)は、当初の予定より2年遅れて1963年2月に完了した[SRC-00574]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1957年1月29日(グレゴリオ暦) ウッツォンの設計案(218番)採用発表。見積り費用350万ポンドと公式沿革は記す [SRC-00573]
1959年3月2日(グレゴリオ暦) 起工式。カヒール州首相が定礎の銘板を設置 [SRC-00574]
1962年(グレゴリオ暦) 建設費の見積りが1,370万ポンドまで上昇 [SRC-00572]
1966年2月28日(グレゴリオ暦) ウッツォン、公共事業大臣ヒューズとの面会後に離脱。政府は辞任と公表 [SRC-00572]
1966年4月28日(グレゴリオ暦) ウッツォン、家族とともにオーストラリアを離れる [SRC-00572]
1973年6月20日(グレゴリオ暦) アスキン州首相、ウッツォンに開場式典への招待状を送付 [SRC-00576]
1973年8月1日(グレゴリオ暦) ウッツォン、招待を辞退する返信を送る [SRC-00576]
1973年9月28日(グレゴリオ暦) オペラ・ホールで最初の演目(『戦争と平和』)上演 [SRC-00571]
1973年10月20日(グレゴリオ暦) エリザベス2世臨席のもと公式開場式典 [SRC-00571][SRC-00576]
2007年(グレゴリオ暦) ユネスコ世界遺産(文化遺産・登録基準(i))に登録 [SRC-00575]

暦の注記: 上表の日付はいずれもグレゴリオ暦(原典表記自体がグレゴリオ暦であり、改暦境界〔1582年10月・明治5年〕には該当しない)。

異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)

「ウッツォンは開場式に招待されず、名前も一切呼ばれなかった」という話は、長く広く語られてきた。ニューサウスウェールズ州立公文書館の記事は、この通説の実例として、開場式に招かれなかったという見出しを掲げた2015年のスミソニアン誌の記事、式典に招待されず名前も一切言及されなかったと記す2008年のウッツォン逝去に際したジ・エイジ紙の追悼記事、当夜のABCニュースの同様の報道を挙げる[SRC-00576]。この理解は、かつてWikipedia英語版の該当記事にも採用されていた[SRC-00576]。

しかしニューサウスウェールズ州立公文書館の記録は異なる経緯を示す。同館所蔵の内部メモ・招待状原本・ウッツォンの返信書簡(前節「本文」参照)によれば、州政府はウッツォンを正式に招待しており、ウッツォンはこれを自ら辞退した[SRC-00576]。名前についても、ニューサウスウェールズ州立公文書館の記事は、エリザベス2世の式辞がウッツォンを含め個人の名を一切挙げなかったと記す一方、同じ式典でアスキン首相自身が述べた式辞は、ウッツォンの独創的で想像力に富む設計("Jørn Utzon's original and imaginative design")に言及していたと記す[SRC-00576]。「一切呼ばれなかった」という理解は、女王の式辞に限れば成り立つが、式典全体(アスキンの式辞を含む)としては成り立たない。

この俗説がいつどのように生まれたかは判然としないが、ニューサウスウェールズ州立公文書館の記事は2つの仮説を示す。一つは、政府がウッツォンをプロジェクト復帰のために招くつもりはないと述べた声明との混同、もう一つは、実際に開場式で名を一切挙げられなかった別人物——1947年にオペラハウス建設運動の口火を切った指揮者ユージン・グーセンズ——との混同である[SRC-00576]。グーセンズは1956年、私生活を巡るスキャンダルで辞任し英国へ帰国、1962年に死去しており、1973年の開場式典で彼の名が一切言及されなかったことを惜しむ声が当時あったと記録されている[SRC-00576]。

論点 根拠・出典 学界での位置づけ
ウッツォンは開場式に招待されたか 通説: 招待されなかった [SRC-00576](スミソニアン誌等の通説として引用) ニューサウスウェールズ州立公文書館の一次資料調査により誤りと判明
同上 現在の見解: 1973年6月20日付で正式に招待され、8月1日付でウッツォン自身が辞退した [SRC-00576] 同館所蔵の招待状原本・返信書簡による
式典でウッツォンの名は一切呼ばれなかったか 通説: 一切呼ばれなかった [SRC-00576](通説として引用) 女王の式辞に限れば該当するが、式典全体としては誤り
同上 現在の見解: エリザベス2世の式辞は個人名を挙げなかったが、アスキン首相自身の式辞はウッツォンの名を挙げた [SRC-00576] 式辞原文の引用による

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

シドニー・オペラハウスは、20世紀建築の傑作として、2007年にユネスコの世界遺産(登録基準(i))に登録された[SRC-00575]。ユネスコは、独創的な設計・構造、卓越した技術革新、世界的に著名な建築の象徴としての地位を、その顕著な普遍的価値の根拠として説明する[SRC-00575]。ウッツォンの設計構想と、構造技術者オーヴ・アラップによる工学的解決が組み合わさったことも、この評価を構成する要素として挙げられている[SRC-00575]。

現代の視点

一次資料に当たらないまま繰り返された話が、いつしか定説のように扱われることがある。シドニー・オペラハウスの開場をめぐる俗説は、その一例として記憶されてよい(本サイトの整理)。ウッツォン自身は1978年のインタビューで、式典への出席が論争の再燃につながり祝祭を損ないかねないと考えたことを辞退の理由として語っている[SRC-00576]。「招かれなかった」という物語より、「招かれたが、自ら退いた」という記録の方が、この建築家の姿をよく伝えているのかもしれない(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-00571] 50 years of extraordinary moments(Our story)/Sydney Opera House(ランクA)
  2. [SRC-00572] Utzon departs the House(Our story)/Sydney Opera House(ランクA)
  3. [SRC-00573] Jørn Utzon AC(Our story)/Sydney Opera House(ランクA)
  4. [SRC-00574] Construction begins(Our story)/Sydney Opera House(ランクA)
  5. [SRC-00575] Sydney Opera House(World Heritage List No.166)/UNESCO World Heritage Centre(ランクA)(複数の資料を収載)
  6. [SRC-00576] The myth of a non-invitation: Jørn Utzon and the Sydney Opera House opening/Museums of History NSW(ランクA)

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訂正履歴

日付事実主張への変更
12026-09-04あり
22026-09-04あり
32026-09-04あり

訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。