1904年世界 20世紀

ランズダウンとカンボンが英仏協商に署名した——1904年4月8日、エジプトとモロッコでの互いの「自由裁量」を認め合った英仏の宣言

日付と暦

原典表記
1904年4月8日(グレゴリオ暦)
換算
1904-04-08(グレゴリオ暦)
掲載日
4月8日のページ

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概要

1904年4月8日、ロンドンで、イギリス外務大臣ランズダウン侯爵と駐英フランス大使ポール・カンボンが、英仏協商(アンタント・コルディアル)を構成する3つの文書——「エジプト・モロッコに関する宣言」「ニューファンドランドおよび西・中央アフリカに関する条約」「シャム・マダガスカル・ニューヘブリディーズに関する宣言」——に署名した[SRC-01877]。中心となったのは、エジプトでのイギリスの自由裁量とモロッコでのフランスの自由裁量を互いに認め合った、エジプト・モロッコに関する宣言である[SRC-01876][SRC-01877]。この取り決めは、1898年以降フランス外務大臣を務めたテオフィル・デルカッセの外交方針が行き着いた到達点であり[SRC-01876]、軍事同盟を創設するものではなく、英仏間に積み重なっていた植民地上の懸案を解決しようとする試みだった[SRC-01876][SRC-01878]。

本文

交渉の背景には、1882年にイギリスがエジプトを占領して以来くすぶり続けていた「エジプト問題」があった[SRC-01878]。イギリスによる占領はフランスのエジプトにおける野心を退けるものであり、両国を少なくとも一度は戦争寸前にまで追い込み、他の列強につけ込まれる火種であり続けた[SRC-01878]。1898年からフランス外務大臣を務めていたデルカッセは、フランスとイギリスの間で了解を築くことが、西欧におけるドイツの同盟網に対するフランスの安全保障になると考えていた[SRC-01876]。交渉の成功は、駐英フランス大使ポール・カンボンとイギリス外務大臣ランズダウン侯爵の尽力によるところが大きく、親仏的だった国王エドワード7世の存在も一因になったとされる[SRC-01876]。

「エジプト・モロッコに関する宣言」第I条で、イギリス政府はエジプトの政治的地位を変更する意図がないと宣言した[SRC-01877]。フランス政府は、その見返りとして、イギリスによる占領に期限を設けるよう求めるなどの形でイギリスの行動を妨げないと宣言し、エジプト債権者の利益保護のための勅令案にも同意した[SRC-01877]。第II条では逆に、フランス政府がモロッコの政治的地位を変更する意図がないと宣言し、イギリス政府は、モロッコと広範囲にわたって国境を接する国としてフランスが同国の秩序維持や行政・経済・財政・軍事上の改革を援助する立場にあることを認め、フランスの行動を妨げないと宣言した(ただし、イギリスがモロッコで従来享受してきた通商上の権利は維持するという留保付きだった)[SRC-01877]。この二つの条項をあわせ、Britannicaは「イギリスにエジプトでの、フランスにモロッコでの自由裁量を与えたことが、この協定の最も重要な特徴だった(後略。原文はこれに続けて、モロッコに関するフランスの将来の措置がスペインの利害に妥当な配慮を払うとの留保を付す)」と説明する[SRC-01876]。宣言はこのほか、スエズ運河の自由通航の保証(第VI条)、ジブラルタル海峡の自由通航を確保するため、モロッコ海岸のうちメリリャとセブー川右岸を望む高地との間の区間(両地点を含まない)への要塞・戦略施設建設を禁止すること(第VII条。ただし地中海側のスペイン占領地にはこの条件を適用しない)、スペインの利害への配慮(第VIII条)なども定めた[SRC-01877]。

同じ4月8日には、ニューファンドランド沖の伝統的漁業権をめぐる長年の紛争を解消する条約(フランスは漁業特権の一部を放棄する代わりに西アフリカでの領土的補償を得た)と、シャム(現在のタイ)・マダガスカル・ニューヘブリディーズ諸島における英仏の勢力圏・権益を整理する宣言も、同じくランズダウンとカンボンによって署名された[SRC-01877][SRC-01876]。

「エジプト・モロッコに関する宣言」に署名したのはイギリス・フランス両国の代表2名のみであり、この宣言によって自由裁量が事実上取り決められたエジプトとモロッコの代表は、署名者に含まれていない[SRC-01877]。イースト・アングリア大学のT.G.オット教授は、この取り決めの核心を「エジプトに対するイギリスの優越権を認める見返りに、モロッコにおけるフランスの自由裁量を認め合う、一種の帝国間バーター(取引)だった」と評している[SRC-01878]。

歴史的背景

英仏協商が結ばれた当時、両国はそれぞれ孤立に近い立場にあった。イギリスには1902年以来の日英同盟があったが、ヨーロッパの海域で戦争が起きた場合には役に立たない同盟であり、フランスには盟友ロシアがあったものの、まもなく始まる日露戦争(1904年〜1905年)でロシアの威信は大きく傷つくことになった[SRC-01876]。1904年2月に始まった日露戦争は、日本と同盟関係にあるイギリスと、ロシアと同盟関係にあるフランスとがこの対立に巻き込まれる事態を避ける必要を強め、英仏間の了解の締結を後押しした[SRC-01878]。

当時のヨーロッパでは、露仏同盟とオーストリア・ドイツ・イタリアの同盟網とがにらみ合っており、フランスとの間で積年の植民地上の懸案を解決することは、イギリスをこうした大陸の対立からより距離を置いた立場に保つことを意図していた[SRC-01878]。もっとも実際には逆の展開をたどり、1905年のタンジール事件を経て英仏の軍事協議が始まるなど、両国の連携はむしろ強まっていく(詳細は下記タイムライン・歴史的意義を参照)[SRC-01876]。1906年、ランズダウンの後任のイギリス外務大臣エドワード・グレイは「あらかじめ大陸での戦争参加を約束することは重大な問題であり、それは協商(アンタント)を同盟(アライアンス)に変えてしまうことになる」と述べ、正式な同盟化を拒む姿勢を明確にした[SRC-01878]。

国王エドワード7世は1903年にパリを公式訪問しており、これが英仏関係「氷解」の契機だったとしばしば語られる。しかしオット教授は、実際の交渉(「アンタント」に向けた話し合い)はこの訪問以前から進められており、両者の関係は単純な因果関係では説明できないと指摘する[SRC-01878]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1898年(グレゴリオ暦) テオフィル・デルカッセがフランス外務大臣に就任し、英仏間の了解の構築を志向する [SRC-01876]
1903年(グレゴリオ暦) 国王エドワード7世がパリを公式訪問。英仏関係「氷解」の契機だったとしばしば語られるが、オット教授は交渉自体はそれ以前から進んでいたとして単純な因果関係には留保を付す [SRC-01878]
1904年2月(グレゴリオ暦) 日露戦争が始まる。日英同盟・露仏同盟を通じて両国が対立に巻き込まれる事態を避ける必要が交渉を後押しした [SRC-01878]
1904年4月8日(グレゴリオ暦) ロンドンで英仏協商の3文書(エジプト・モロッコに関する宣言/ニューファンドランド・西中央アフリカに関する条約/シャム・マダガスカル・ニューヘブリディーズに関する宣言)にランズダウンとカンボンが署名 [SRC-01876][SRC-01877]
1905年(グレゴリオ暦) ドイツがモロッコでフランスを牽制しようとしたタンジール事件(第1次モロッコ事件)が起きるが、かえって英仏協商を強化する結果となった [SRC-01876]
1906年(グレゴリオ暦) アルヘシラス会議で英仏の連携が確認される [SRC-01876]
1911年(グレゴリオ暦) 第2次モロッコ事件で英仏の連携が改めて確認される [SRC-01876]
異説・論争定説のない論点があります
論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
協定の性格をめぐる評価 通説: 「英仏友好の始まり」を告げた歴史的な出来事として語られることが多い/学術的評価: オット教授は、こうした語りを断片的な学校教育の記憶と後知恵が混ざり合って「神話化された」過去の英仏関係像であり、英仏海峡をまたぐ関係では友好よりも摩擦のほうがありふれた特徴だったと指摘し、1904年の取り決め自体は同盟ではなく植民地上の懸案の実務的解決(「悪い歴史だが良い政治」)だったと位置づける [SRC-01878] イースト・アングリア大学のオット教授による2023年の歴史エッセイでの指摘。本サイトが調査した範囲では、この論点を専門に扱う他の学術文献への到達はできていない
エジプト・モロッコの当事性 「エジプト・モロッコに関する宣言」に署名したのはイギリス・フランス両国の代表のみで、エジプト・モロッコの代表は含まれていない(条約文書自体が示す事実)。オット教授は取り決めの核心を英仏間の「帝国間バーター(取引)」と評しており、両地域の将来が英仏間の交渉で取り決められた性格を含意する評価といえる [SRC-01877][SRC-01878] 本サイトが調査した範囲では、この点を主題として論じた専門文献(エジプト・モロッコ側の視点からの評価を含む)への到達はできておらず、条約文書自体が示す構造的事実と、Otte(2023)の評価的フレーミングの紹介にとどめる

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

英仏協商は、それ自体は軍事同盟ではなかったが、その後の英仏の外交的協力の土台となった[SRC-01876]。1905年のタンジール事件でドイツがこの協商を揺るがそうとした試みは、かえって英仏の連携を強める結果となり、両国の参謀本部間の軍事協議も始まった[SRC-01876]。1906年のアルヘシラス会議、1911年の第2次モロッコ事件でも、英仏の連携は繰り返し確認された[SRC-01876]。もっとも、イギリスの外交方針は、大まかには、1914年夏に意味を失うまで、大陸での戦争参加を事前に約束する正式な同盟へは踏み込まないという立場を保っていた[SRC-01878]。

現代の視点

この協定は、今日「アンタント・コルディアル」という言葉とともに、英仏友好の象徴として語られることが多い(本サイトの整理)。しかし、オット教授が指摘するように、この語りは実際の複雑な歴史的経緯を単純化した「神話化された」イメージである側面があり、1904年の取り決め自体は軍事同盟ではなく、エジプトとモロッコにおける互いの自由裁量を認め合うという、植民地上の利害配分の実務的な解決だった[SRC-01878]。また、この宣言の対象となったエジプトとモロッコの代表がその署名者に含まれていなかったという事実は、20世紀初頭の列強間外交が、当事地域の意向とは独立に進められていたことを示す一例といえる(本サイトの整理)[SRC-01877]。

出典一覧

  1. [SRC-01876] Entente Cordiale | Franco-British Alliance, 1904 Treaty | Britannica/Encyclopaedia Britannica, Inc.(ランクB)
  2. [SRC-01877] Entente Cordiale (1904)/Wikisource(英語版)/原文献: Brant, R., & Hertslet, G. (eds.) (1907). A Complete Collection of the Treaties and Conventions, and Principal Regulations at Present Subsisting Between Great Britain and Foreign Powers. Vol. XXIV. London: Harrison and Sons.(ランクB)
  3. [SRC-01878] The Entente Cordiale: bad history but good politics/Engelsberg Ideas(The Axel and Margaret Ax:son Johnson Foundation for Public Benefit 発行)(ランクB)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-29あり
22026-09-29あり

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