1935年世界 20世紀
イアハートは、すでに人命を奪っていたハワイ〜本土間を単独無着陸で越えた
日付と暦
- 原典表記
- 1935年1月11日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1935-01-11(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 1月11日のページ
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概要
1935年1月11日午後4時44分、アメリア・イアハートはハワイ準州のウィーラー飛行場から一人でカリフォルニアへ向け飛び立った[SRC-01179]。機体はロッキード社のベガ単葉機で、NASMは型式を「5C」と記す[SRC-01176]。この航路では、イアハートの飛行以前にも人命が失われていた[SRC-01179]。スミソニアン国立航空宇宙博物館は、これを危険な飛行だったと記す[SRC-01176]。出発前、この飛行を宣伝行為ではないかとする見方も伝えられたが、イアハートと夫のジョージ・パットナムはこれを否定していた[SRC-01178]。1935年1月12日、イアハートは約18時間の飛行を経てオークランド近郊に着陸し[SRC-01179]、ハワイからアメリカ本土への単独飛行を成し遂げた最初の人物になった[SRC-01176][SRC-01177][SRC-01179]。スミソニアン国立航空宇宙博物館は、これを単独無着陸(ノンストップ)飛行としての最初の達成とも記す[SRC-01180]。
本文
1934年12月27日、イアハートは夫のジョージ・パットナム、ポール・マンツ夫妻、整備士アーニー・ティソ、1931年型ロッキード・ベガとともにホノルルへ到着した[SRC-01179]。一行は、うわさされていたホノルル〜カリフォルニア間の飛行が行われるかどうかについて、肯定も否定もしなかった[SRC-01179]。出発前、ハワイの実業家たちはハワイ〜本土間で最初にこの飛行を成し遂げた者に1万ドルの懸賞金を提供していたが、機体整備に陸軍の整備士が使われ民間整備士の仕事を奪っているとの批判や、海軍による無線到達距離・捜索費用への懸念も広がった[SRC-01179]。論争のため後援の実業家たちが支援から手を引こうとした際、イアハートは「支援があってもなくても、来週中にカリフォルニアへ飛ぶつもりだ」と述べて意志を曲げず、後援者たちは支援継続に同意したとパールハーバー航空博物館は記す[SRC-01179]。また、ある業界誌はイアハートがハワイ準州への注目を集めるための宣伝行為としてこの飛行を行おうとしていると報じ、イアハート本人と夫は即座に否定し、休暇中であり飛行機は自分たちの選ぶ目的のために使うだけだと説明した[SRC-01178]。
1935年1月11日正午ごろ、イアハートと夫はジョージ・スパーホーク中尉の自宅に到着した[SRC-01178]。イアハートは気象担当士官に天候を確認したが条件が整わず、離陸を待つ間に仮眠を取ったという[SRC-01178]。整備士が機体を点検し燃料補給の準備を進めたが、午後1時過ぎに雨が降り出し、機体はいったん格納庫に戻された[SRC-01178]。燃料容量520ガロンの補給が完了すると、飛行場司令官らが機体を確認し、飛行可能と判断した[SRC-01178]。午後4時22分、イアハートは飛行ラインに到着して飛行許可書に署名し、救命胴衣を着けてコックピットに乗り込んだ[SRC-01178]。ホノルル・アドバタイザー紙は同日、離陸予定時刻を午後4時40分と報じた[SRC-01178]。数時間に及ぶ雨による遅延の後、パールハーバー航空博物館の記録によれば午後4時44分、イアハートのベガは燃料500ガロン超・予備無線機・ゴムボート・サンドイッチ・ゆで卵・トマトジュース・ホットチョコレートなどを積んで、雨に濡れたウィーラー飛行場から飛び立った[SRC-01179]。
所定位置へ移動する際、雨でぬかるんだ滑走路の泥が尾橇(テールスキッド)に絡む場面があったが、イアハートは無事に飛び立った[SRC-01178]。その夕方、ウィーラー飛行場を離陸しホノルル上空を飛んだ際、イアハートは眼下に「一日の仕事を終えて家路につく、人間の蟻たち」を見たと描写したとパールハーバー航空博物館は記す[SRC-01179]。飛行中、イアハートは無線送信機で状況を報告し、「こちらKHABQ、すべて順調」と伝えた[SRC-01178]。高度8,000フィートを飛び、途中で同じ航路上の船を視認したことが、自身の位置の正確さを裏付けたという[SRC-01178]。予定よりやや遅れていることに気づくと、燃料節約のため速度を時速160マイルから140マイルへ落としたとパールハーバー航空博物館は記す[SRC-01179]。
西海岸の陸地を2度雲の影と見誤った後、3度目にようやく本物の陸地を視認した[SRC-01178]。1935年1月12日午後12時50分、イアハートはオークランド飛行場に着陸した[SRC-01178]。パールハーバー航空博物館は、着陸地点をオークランド近郊のベイファーム島飛行場と記し、着陸時の残燃料を約2時間分と記録している[SRC-01179]。NASMはこの飛行の距離を2,408マイルと記す[SRC-01176]。ハワイ州政府サイト掲載のホルヴァト著(1966年)は、約2,090海里・飛行時間18時間15分と記している[SRC-01178]。パールハーバー航空博物館は、飛行時間を「18時間」と記録している[SRC-01179]。オークランド飛行場には、ホルヴァト著によれば5,000人[SRC-01178]、パールハーバー航空博物館によれば5,000〜1万人が詰めかけ、クラクションを鳴らし歓声を上げて出迎えたという[SRC-01179]。ホルヴァト著は、集まった人々が「一つの大洋を単独無着陸で越え、もう一つの大洋の上を2,000マイル飛んだ最初の人間」を迎えたと記す[SRC-01178]。同書は、大きな賞金が待っていたわけではなかったとも記している[SRC-01178]。
歴史的背景
ハワイと北米大陸を結ぶ太平洋の空路では、イアハートの飛行以前から人命が失われていた[SRC-01179]。パールハーバー航空博物館によれば、オークランド〜ホノルル間飛行への最初の注目すべき挑戦は1925年、ある海軍司令官とその乗組員によるものだったが、目的地に届かずハワイの450マイル手前に水上機で着水し、帆を仕立てて10日後に島に到達した[SRC-01179]。1927年初め、陸軍航空隊の中尉2名が「バード・オブ・パラダイス」号でオークランド〜ウィーラー間の初の無着陸飛行を成し遂げたが、これはイアハートの飛行とは逆方向であり、複数の乗員による飛行だった[SRC-01179]。同年8月には、パイナップル事業家ジェームズ・ドールが懸賞金を懸けたドール・エア・レース(カリフォルニア〜ハワイ間)が行われ、レースの前・最中・後を通じて計10人の命が失われ、6機が失われるか修復不能なまでに損傷したとパールハーバー航空博物館は記す[SRC-01179]。イアハートの出発前には、オーストラリアの飛行家アルム機長がこの航路を越えようとした飛行で命を落としており、イアハートは出発前に彼を見送っていたとハワイ州政府サイト掲載のホルヴァト著は記している[SRC-01178]。同書は、アルムの悲劇的な喪失もイアハートの意志をくじかなかった、という趣旨も記す[SRC-01178]。
タイムライン
| 日付(グレゴリオ暦) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1925年 | オークランド〜ホノルル間飛行への最初の注目すべき挑戦(海軍司令官と乗組員)が目標地点に届かず洋上着水、帆走で10日後に到達 | [SRC-01179] |
| 1927年初め | 「バード・オブ・パラダイス」号、オークランド〜ウィーラー間の初の無着陸飛行(イアハートとは逆方向・複数乗員) | [SRC-01179] |
| 1927年8月 | ドール・エア・レース(カリフォルニア〜ハワイ間)で計10人の命が失われる | [SRC-01179] |
| 1934年12月27日 | イアハート一行、ホノルルに到着 | [SRC-01179] |
| 1935年1月2日 | ポール・マンツが機体の無線機を試験飛行で確認 | [SRC-01178] |
| 1935年1月5日ごろ(1月2日の3日後) | イアハート一行、周遊飛行に参加 | [SRC-01178] |
| 1935年1月11日 | ホノルル・アドバタイザー紙がイアハートの出発を報道(離陸予定午後4時40分) | [SRC-01178] |
| 1935年1月11日 午後4時44分 | ウィーラー飛行場を出発(パールハーバー航空博物館の記録) | [SRC-01179] |
| 1935年1月12日 午後12時50分 | オークランド近郊に着陸(飛行時間約18時間15分) | [SRC-01178] |
| 1937年7月2日 | 世界一周飛行の途上、消息を絶つ | [SRC-01177] |
異説・論争定説のない論点があります
出発前、この飛行の動機をめぐって当時から見方が分かれていた。ある業界誌は、イアハートがハワイ準州への注目を集めるための宣伝行為としてこの飛行を行おうとしていると報じた[SRC-01178]。これに対しイアハート本人と夫は即座に否定し、休暇中であり飛行機は自分たちの選ぶ目的のために使うだけだと説明した[SRC-01178]。スミソニアン国立航空宇宙博物館も、一部がこの飛行をイアハートとハワイの製糖業界プロモーターのための宣伝行為と呼んだことに触れている[SRC-01176]。本サイトはこの動機論争の当否を判定しない。
この飛行に懸賞金があったかどうかについても、出典間の記述は食い違うように読める。パールハーバー航空博物館は、ハワイの実業家たちがハワイ〜本土間で最初にこの飛行を成し遂げた者に1万ドルの懸賞金を提供していたと記す[SRC-01179]。一方、ハワイ州政府サイト掲載のホルヴァト著は、この飛行に大きな賞金は待っていなかったと記している[SRC-01178]。本サイトはいずれが正確かを判定せず、両立しうる可能性を排除しないまま両方の記述を併記する。
この飛行の「最初」という達成の射程についても、出典によって範囲が異なる。スミソニアン国立航空宇宙博物館・パールハーバー航空博物館は、イアハートが「ハワイからアメリカ本土(カリフォルニア)への単独飛行を成し遂げた最初の人物」になったと記す[SRC-01176][SRC-01179]。このうちスミソニアン国立航空宇宙博物館は、これを単独無着陸(ノンストップ)飛行としての最初の達成とも記している[SRC-01180]。同館は、これが「男性も女性もまだ成し遂げていなかった、イアハートにとって最初の大きな飛行」だったとも記す[SRC-01180]。一方、パーデュー大学アーカイブは、この飛行によってイアハートが「太平洋を単独横断した最初の人物」になり、「大西洋と太平洋の両方を単独横断した最初の人物」にもなったと、より広い射程で記している[SRC-01177]。本記事は、複数出典が直接支持するハワイ〜カリフォルニア間という区間に射程を限定し、パーデュー大学アーカイブのより広い記述は同アーカイブの見解として個別に紹介するにとどめる。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| この飛行の動機 | ハワイの製糖業界などのための宣伝行為だったとの見方 | [SRC-01178][SRC-01176] | 出発前に業界誌が報じ、当時から見方が分かれた |
| この飛行の動機 | 休暇中の飛行であり宣伝目的ではないとの本人・夫の説明 | [SRC-01178] | イアハート本人と夫による当時の否定 |
| 懸賞金の有無 | ハワイの実業家が1万ドルの懸賞金を提供していた | [SRC-01179] | パールハーバー航空博物館の記述 |
| 懸賞金の有無 | 大きな賞金は待っていなかった | [SRC-01178] | ハワイ州政府サイト掲載のホルヴァト著の記述 |
| 「最初」の達成の射程 | ハワイからアメリカ本土(カリフォルニア)への単独飛行として最初 | [SRC-01176][SRC-01177][SRC-01179] | 複数機関が共通して記す範囲 |
| 「最初」の達成の射程 | 上記のうち、単独無着陸(ノンストップ)飛行としての最初の達成 | [SRC-01180] | スミソニアン国立航空宇宙博物館単独の記述 |
| 「最初」の達成の射程 | 太平洋単独横断・大西洋と太平洋の両方の単独横断としても最初 | [SRC-01177] | パーデュー大学アーカイブのみが記す、より広い射程 |
関連する出来事
- 1925年、オークランド〜ホノルル間飛行への最初の注目すべき挑戦は目標地点に届かず洋上着水に終わった(本記事歴史的背景参照)[SRC-01179]。
- 1927年初め、「バード・オブ・パラダイス」号がオークランド〜ウィーラー間の初の無着陸飛行を、イアハートとは逆方向・複数乗員で成し遂げた[SRC-01179]。
- 1927年8月、太平洋横断を目指したドール・エア・レースで計10人の命が失われた(本記事歴史的背景参照)[SRC-01179]。
- 1935年、イアハートはロサンゼルス〜メキシコシティ間の単独飛行を行った[SRC-01177]。
- 1937年、イアハートは世界一周飛行の途上、消息を絶った[SRC-01177]。
関連人物
- アメリア・イアハート(あめりあ・いあはーと): アメリカの飛行家。1932年に女性として初めて大西洋を単独横断し、1935年1月にハワイ〜カリフォルニア間を単独で飛行した[SRC-01176][SRC-01177]。
- ジョージ・パットナム(じょーじ・ぱっとなむ): イアハートの夫。出版者。出発前、この飛行が宣伝行為ではないかとの見方に対し妻とともに否定した[SRC-01178]。
- ポール・マンツ(ぽーる・まんつ): イアハートに同行したパイロット。出発前、機体の無線機の試験飛行や整備を担った[SRC-01178]。
歴史的意義
イアハート自身は、この飛行についてこう語ったとスミソニアン国立航空宇宙博物館は記す。「私はただ貢献したくてこの飛行を望んだ。太平洋のあの区域をもう一度飛ぶことで、将来の航空業務が必ず行き交うことになる航路を、もう少しはっきり示すことができればと願うだけだった」[SRC-01176]。同館は、この飛行がイアハートを「世界で最も有名な女性飛行家」としての地位に決定づけたと位置づけている[SRC-01180]。パーデュー大学アーカイブは、この飛行によってイアハートが太平洋を単独横断した最初の人物になり、大西洋と太平洋の両方を単独横断した最初の人物にもなったとも記している(前掲・異説欄参照)[SRC-01177]。
現代の視点
1937年、イアハートは世界一周飛行の途上、ニューギニアのラエからハウランド島へ向かう区間で消息を絶ち、機体や痕跡は発見されないまま、1939年に法的に死亡と宣告されたとパーデュー大学アーカイブは記す[SRC-01177]。本記事は1935年1月の単独飛行の経緯とその前後の文脈を主題とし、1937年の消息不明そのものの経緯には立ち入らない(本稿の整理)。スミソニアン国立航空宇宙博物館は、この1935年の飛行がイアハートを「世界で最も有名な女性飛行家」としての地位に決定づけたと位置づけている[SRC-01180]。イアハートが飛行中に語った「将来の航空業務が必ず行き交うことになる航路」という言葉が指した太平洋横断の空路は、今日では商業航空路として現実のものになっている(本稿の整理)[SRC-01176]。
出典一覧
- [SRC-01176] Amelia Earhart/Smithsonian National Air and Space Museum(ランクA)
- [SRC-01177] Amelia Earhart Biographical Sketch/Purdue University Archives and Special Collections(ランクA)
- [SRC-01178] Amelia Earhart(Hawaii Aviation — 州航空局所蔵の航空史解説。Lt. Col. William Joseph Horvat 著『Above the Pacific』(1966年)からの抜粋を掲載)/Hawaii Aviation(ハワイ州交通局航空部門)(ランクB)
- [SRC-01179] Amelia Earhart and Hawaii/Pearl Harbor Aviation Museum(ランクB)
- [SRC-01180] Pennant, Pacific Flight, Amelia Earhart/Smithsonian National Air and Space Museum(ランクA)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-16 | あり |
| 2 | 2026-09-16 | あり |
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