1912年世界 20世紀

南極点に立ったスコット隊が見つけたのは、一足早く到達していたアムンセン隊の天幕と、ノルウェー国王への手紙を託す一通のメモだった

日付と暦

原典表記
1912年1月17日(グレゴリオ暦)
換算
1912-01-17(グレゴリオ暦)
掲載日
1月17日のページ

この記事の主張は出典に紐づけて検証しています。検証記録を見る

概要

1912年1月17日、南極探検隊の隊長ロバート・ファルコン・スコットと、エドワード・ウィルソン、ヘンリー・バウワーズ、ローレンス・オーツ、エドガー・エヴァンズの4名は、テラノヴァ遠征の一環として南極点に到達した[SRC-01224][SRC-01225]。翌18日、隊が目にしたのは、ノルウェーのロアール・アムンセンを隊長とする隊がおよそ1か月前の1911年12月14日にすでに到達し[SRC-01225][SRC-01227]、残していった天幕だった[SRC-01224]。天幕の中には、アムンセンら5人の名前を記した記録とともに、ノルウェー国王への手紙を転送してほしいと頼む一通のメモが残されていた[SRC-01224]。帰路、隊員5名は全員が命を落とした[SRC-01224][SRC-01225]。

本文

スコットが率いたテラノヴァ遠征は、1910年から1913年にかけての南極遠征である[SRC-01226]。英国立自然史博物館は、遠征がスコット前回のディスカバリー遠征(1901〜04年)で始めた調査を継続することと、地理上の南極点に最初に到達することの両方を目指した、科学的・地理的な目的を伴う遠征だったと記す[SRC-01226]。

1912年1月16日、隊は午前中に順調に行軍し、正午の観測で南緯89度42分の地点にあることを確認した[SRC-01224]。その日の午後の行軍中、隊員バウワーズが遠方に黒い点を発見した。近づくと、それは橇の担い桿に結びつけられた黒旗で、周囲には野営の跡・橇の走行痕・複数の犬の足跡が残っていた。スコットは日記に「これで事情はすべてわかった。ノルウェー隊が我々を出し抜き、極点への一番乗りを果たしていた」(原文: "This told us the whole story. The Norwegians have forestalled us and are first at the Pole.")と記した[SRC-01224]。翌1月17日、スコット隊は極点に到達した。スコットは「極点だ。そうだ、だが予期していたのとはまったく異なる状況で」(原文: "The Pole. Yes, but under very different circumstances from those expected.")と日記に書き残している[SRC-01224]。

翌1月18日、さらに進んだ先で、隊はアムンセン隊が残した天幕を発見した。天幕には、アムンセンら5人の名前を記した記録とともに、アムンセンからの一通のメモがあり、ノルウェー国王への手紙を転送してほしいと記されていた[SRC-01224]。アムンセン隊は、1911年12月14日にすでに南極点へ到達していた——スコット隊より、およそ1か月早かった[SRC-01225][SRC-01227]。

復路は苛酷を極めた。エヴァンズは体力を消耗し、1912年2月17日、ビアドモア氷河付近で死亡した[SRC-01224][SRC-01225]。オーツも凍傷に苦しみ、3月中旬(スコット自身の日記では16日か17日か記録が定まらない)、みずから天幕を出て吹雪の中に消えた[SRC-01224][SRC-01225]。残るスコット、ウィルソン、バウワーズの3名も食料と燃料を使い果たし、3月29日の記述を最後に日記は途絶えた[SRC-01224]。遺体は同年11月12日、捜索隊によって発見された[SRC-01225]。

歴史的背景

アムンセンはもともと北極点への到達を計画していたが、1909年にフレデリック・クックとロバート・ピアリーがそれぞれ北極点到達を果たしたと伝えられたことを受け、目標を南極点へひそかに切り替えた[SRC-01227]。アムンセン隊とスコット隊は、まったく異なる地理的出発点から、まったく異なる方法で南極点を目指しており、フラム博物館は、アムンセンをスコットとの「競争」(原語: race)を仕掛けたとして非難することは実際にはできなかったと批評家たちも時とともに認めるに至った、と記す[SRC-01227]。

タイムライン

日付(グレゴリオ暦) 出来事 出典
1909年 他の探検家による北極点到達が伝わり、アムンセンが目標を南極点へ切り替える [SRC-01227]
1910年 テラノヴァ遠征、開始(1910〜13年) [SRC-01226]
1911年12月14日 アムンセン隊、南極点に到達(フラム博物館の記述による。ブリタニカは、スコット隊より約1か月前に到達していたと記す) [SRC-01225][SRC-01227]
1912年1月16日 スコット隊、アムンセン隊の黒旗を発見 [SRC-01224]
1912年1月17日 スコット隊、南極点に到達 [SRC-01224][SRC-01225]
1912年1月18日 スコット隊、アムンセン隊が残した天幕と、ノルウェー国王宛のメモを発見 [SRC-01224]
1912年2月17日 エヴァンズ、ビアドモア氷河付近で死亡 [SRC-01224][SRC-01225]
1912年3月16日または17日 オーツ、自ら天幕を出て消息を絶つ [SRC-01224][SRC-01225]
1912年3月29日 スコットの日記、最後の記述 [SRC-01224][SRC-01225]
1912年11月12日 捜索隊、スコット・ウィルソン・バウワーズの遺体と日記を発見 [SRC-01225]
異説・論争定説のない論点があります

スコット隊の到達日をめぐる出典間の食い違い——本記事はスコット隊の南極点到達日を1912年1月17日としているが、これは独立2系統(スコット自身の日記=SRC-01224、ブリタニカ=SRC-01225)が一致して示す日付である。一方、アムンセン隊が使用した探検船を保存するノルウェー・フラム博物館の公式解説ページ(SRC-01227)は、同じ一文の中でアムンセン隊の到達日を「1911年12月14日」、スコット隊の到達日を「1912年1月18日」と記しており、スコット隊の到達日について1日の食い違いがある[SRC-01227]。本記事は、スコット自身が現地で記した日記という一次資料と、独立した百科事典の記述が一致することを重視し、1月17日を採用した。なお、スコット自身の日記は、極点への到達を1月17日の記録に置く一方、観測を総合して算出した極点(日記は「Pole Camp」と呼ぶ)へたどり着きアムンセン隊の天幕を発見したのは1月18日朝の記録である。フラム博物館がスコット隊の到達日を1月18日と記す背景に、この算出上の極点あるいは天幕への到達日を指している可能性があるが、食い違いが生じた経緯そのものは、本記事では確定しない[SRC-01224]。

オーツが消息を絶った日付——スコット自身の日記は、オーツが天幕を出て消息を絶った日について「金曜3月16日か土曜17日――日付の記録が途切れているが、後者〔17日〕が正しいと思う」(原文: "Friday, March 16 or Saturday 17.—Lost track of dates, but think the last correct.")と記しており、スコット自身が現地で正確な日付を確定できていなかったことを明記している[SRC-01224]。ブリタニカは「3月17日」と記す[SRC-01225]。本記事はこの食い違いを断定せず、「3月中旬(16日か17日)」という幅のある表現で記述する。

遠征と隊の運命をどう評価するか——スコット隊の物語は、アムンセン隊に南極点一番乗りを許した「敗北」として語られることが多い。ブリタニカは、スコットが死後、その勇気と愛国心により国民的英雄とみなされたと記す[SRC-01225]。一方、英国立自然史博物館は、テラノヴァ遠征が南極点到達に加えて科学的・地理的な目的を当初から伴っていたと公式に説明しており、スコット未亡人キャスリーン(原語: Kathleen)が遠征で得た科学コレクションを同博物館に遺贈したと記す[SRC-01226]。この2つの記述は論理的に排他的な対立命題ではなく、双方が同時に成り立ちうる(遠征が科学的目的を持っていたことと、その結果が死後に「敗北の悲劇」として国民的に受け止められたことは、矛盾しない)。本サイトはいずれの評価枠が妥当かを判定せず、両方を出典に基づいて紹介するにとどめる。

論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
スコット隊の南極点到達日 1912年1月17日 [SRC-01224][SRC-01225] スコット自身の日記と百科事典の独立2系統が一致
スコット隊の南極点到達日 1912年1月18日 [SRC-01227] ノルウェー・フラム博物館の公式解説(単独系統)
オーツが消息を絶った日 3月16日 [SRC-01224] スコット自身が「日付の記録が途切れている」と留保しつつ記した候補の一つ
オーツが消息を絶った日 3月17日 [SRC-01224][SRC-01225] スコット自身が「後者が正しいと思う」と記した候補、かつブリタニカの記述
遠征・隊の運命の評価 アムンセン隊に敗れた「悲劇」として、スコットは死後、勇気と愛国心の象徴=国民的英雄とみなされた [SRC-01225] 百科事典の記述する死後の受容のされ方
遠征・隊の運命の評価 遠征は南極点到達に加え、当初から科学的・地理的な目的を伴っていた [SRC-01226] 遠征の科学コレクションを保管する英国立自然史博物館の公式説明

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

スコット隊の遠征と全滅は、20世紀初頭の探検史における象徴的な出来事として記憶されている。ブリタニカは、スコットが死後、その勇気と愛国心により国民的英雄とみなされ、未亡人には夫が生きていれば授与されたはずの爵位に相当する待遇が与えられたと記す[SRC-01225]。一方、英国立自然史博物館は、テラノヴァ遠征が南極点到達に加えて科学的・地理的な目的を伴っていたと公式に説明し、スコット未亡人が遠征の科学コレクションを同博物館に遺贈したことを伝える[SRC-01226]。この遠征を「アムンセン隊に敗れた悲劇」という物語の枠組みのみで理解すべきか、遠征が当初から持っていた科学的目的を踏まえて評価すべきかについて、本サイトは判定を行わない(本サイトの整理・異説・論争欄参照)。

現代の視点

本記事の射程は、1912年1月のスコット隊の南極点到達と、同年の帰路における隊員5名の死という出来事の経過にとどめる。この出来事をめぐる20世紀後半以降の探検史研究における人物評価の変遷(スコットの指導力への批判や、その後の再評価の動きなど)は、本記事で確認できた出典(ブリタニカ・英国立自然史博物館・フラム博物館)の記述の射程を超えるため、本記事では立ち入らない(本サイトの整理)。南極における国際的な法的枠組みや、現代の南極探検・観測活動との比較にも触れない。

出典一覧

  1. [SRC-01224] Scott's Last Expedition, Volume I(R・F・スコット著、L・ハクスリー編、1913年刊/Internet Archive電子化)/原刊行: Smith, Elder & Co.(ロンドン、1913年)。電子化・公開: Internet Archive(寄贈元 Museum Victoria 経由。Biodiversity Heritage Library 系統のパブリックドメイン判定)(ランクA)
  2. [SRC-01225] Robert Falcon Scott | British naval officer and explorer(Encyclopaedia Britannica)/Encyclopaedia Britannica, Inc.(ランクB)
  3. [SRC-01226] The Antarctic collection(Natural History Museum, London — Library and Archives)/Natural History Museum, London(ランクA)
  4. [SRC-01227] Roald Amundsen(1872–1928)— Polfarere(フラム博物館/ノルウェー)/Fram Museum(コミテーン・チル・ベヴァーレルセ・アヴ・ポラールシペット・フラム財団運営、オスロ)(ランクA)

本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。

訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-16あり
22026-09-16あり
32026-09-16あり

訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。