1944年世界 20世紀

ノルマンディー上陸作戦——連合軍が北フランスの5海岸に上陸(D-デイ)

日付と暦

原典表記
1944年6月6日(グレゴリオ暦)
換算
1944-06-06(グレゴリオ暦)
掲載日
6月6日のページ

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概要

1944年6月6日、ドワイト・D・アイゼンハワー(どわいと・でぃー・あいぜんはわー)を最高司令官とする連合国遠征軍が、フランス北部ノルマンディー地方の5つの海岸——ユタ・オマハ・ゴールド・ジュノー・ソード——へ上陸した[SRC-02365][SRC-02368][SRC-02369]。作戦全体の名称はオーヴァーロード、海からの上陸部分の名称はネプチューンと呼ばれた[SRC-02368]。上陸は当初6月5日に予定されていたが、悪天候のため延期され、アイゼンハワーは自身の報告書によれば6月5日午前4時、翌日の実施を「最終的かつ撤回不能の決定」として下した(この決定時刻については目撃者の証言に相違があり、詳細は「異説・論争」参照)[SRC-02366]。空挺部隊は6月6日未明に降下を開始し、海からの部隊はおよそ午前6時30分に上陸を始めた[SRC-02366]。アイゼンハワーは兵士に向けた訓示(Order of the Day)の中で、この作戦を「大いなる聖戦」と呼んだ[SRC-02362]。本記事は米国立公文書館(NARA)・帝国戦争博物館(IWM)・全米第二次世界大戦博物館という独立した3系統の公式記録・博物館資料に基づき、兵力・死傷者等の数値を出典ごとに整理して記す(出典間で値が異なるため合成しない)。

本文

作戦は当初1944年6月5日に予定されていたが、6月3日の気象予報が悪化したため、6月4日朝の会議で少なくとも24時間の延期が必要と判断された[SRC-02366]。部隊の一部はすでに海峡へ出ていたが、海が荒れていたため引き返した[SRC-02366]。6月5日朝になっても海峡の状況に大きな改善はなかったが、翌日の予報にはわずかな好転の兆しがあった[SRC-02366]。アイゼンハワーは自身の報告書に「6月5日午前4時、私は最終的かつ撤回不能の決定を下した。フランスへの侵攻は翌日実施される」と記している[SRC-02366]。この最終決定の会議には、地上部隊を指揮するバーナード・モントゴメリー(ばーなーど・もんとごめりー)、海軍を指揮するラムジー提督、戦術空軍を指揮するリー=マロリー空軍大将が同席し、承認を与えたことが記録されている[SRC-02363]。

海からの上陸は6月6日午前6時30分ごろに始まり、空挺部隊はその4.5時間ほど前、同日未明に降下を開始した[SRC-02366]。上陸には2つの海軍任務部隊が当たり、アメリカ軍が上陸するユタ・オマハの西部任務部隊と、英軍が上陸するゴールド・ジュノー・ソードの東部任務部隊が、合わせて13万2千人以上の地上部隊を海岸へ送り込んだ[SRC-02368]。

ユタ海岸には米第4歩兵師団の2万3千人以上が上陸した[SRC-02368]。強い潮流により第1波の部隊は目標から2千ヤード南の、より守りの薄い区域に流されたが、同日中に同師団は内陸へおよそ4マイル進出し、死傷者・行方不明者はおよそ200人にとどまった[SRC-02368]。オマハ海岸には米第1・第29歩兵師団が上陸したが、ここは5海岸の中で最も防備が固く、他のどの海岸よりも死傷者が多かった[SRC-02368]。事前の空爆・艦砲射撃は沿岸の強固な防御拠点を制圧できず、米軍は上陸障害物の除去に苦労したが、経験豊富なドイツ第352歩兵師団がこの方面の防衛を増強していた[SRC-02367][SRC-02368]。これらの状況にもかかわらず、米軍は同日中にオマハ海岸に小さな橋頭堡を確保した[SRC-02368]。近くのポワント・デュ・オックでは、米軍のレンジャー部隊が崖上のドイツ軍砲台に対する損害の大きい攻撃を完了させた[SRC-02368]。

ゴールド海岸には英第50師団の約2万5千人が上陸した[SRC-02368]。強風により潮の上昇が予想より速く、上陸障害物が水面下に隠れたが、オマハとは異なり事前の空爆・艦砲射撃はドイツ軍の沿岸防御を弱めることに成功していた[SRC-02368]。同日中に英軍は内陸へおよそ6マイル進出し、ジュノー海岸に上陸したカナダ第3師団と合流した[SRC-02368]。ジュノー海岸では、カナダ第3師団の上陸が荒れた海により遅れ、潮の上昇で海岸の幅が狭まり、やがて車両・装備で混雑した[SRC-02368]。ジュノーは防備が固く、特に第1波の歩兵部隊で死傷者が多かった[SRC-02368]。深夜までに、カナダ軍はソード海岸の英軍とはまだ合流できていなかったが、海岸からの出口を確保し、内陸へ数マイル進出し、ゴールド海岸の英軍とは合流していた[SRC-02368]。ソード海岸では、悪天候と頑強なドイツ軍の抵抗が英第3師団の上陸を妨げ、潮の上昇と上陸地形の地理的制約が前線を狭め、内陸進出に必要な装甲部隊の上陸に混雑と遅れをもたらした[SRC-02368]。同師団はドイツ軍の反撃を撃退したものの、この日の主要目標だった要衝カーンの奪取には失敗した[SRC-02368]。カーン奪取はその後数週間にわたる英軍の戦略上の焦点となり、同市が完全に占領されたのは7月半ばだった[SRC-02368]。

ドイツ側では、西方総司令官(OB西方)ゲルト・フォン・ルントシュテットの指揮下に、北フランス・オランダを担当するB軍集団と南フランスを担当するG軍集団が置かれていた[SRC-02367]。B軍集団はエルヴィン・ロンメル(えるゔぃん・ろんめる)が指揮し、ノルマンディー・ブルターニュを守る第7軍と、セーヌ川以北の第15軍を含んでいた[SRC-02367]。6月6日の上陸に対するドイツ側の反応は鈍く混乱していたとIWM(帝国戦争博物館)は記す[SRC-02367]。上陸の決定をアイゼンハワーにとって困難なものにした悪天候は、同時にドイツ側の警戒も緩めており、ロンメルはドイツ国内で妻のもとを訪ねており、多くの上級指揮官も配置を離れていた[SRC-02367]。加えて、連合軍の欺瞞作戦「フォーティテュード」の効果により、OKW(国防軍最高司令部)とヒトラーは、ノルマンディーは陽動であり本上陸はパ・ド・カレー方面で後に行われると確信していた[SRC-02367]。この結果、ドイツ装甲部隊のうちノルマンディー海岸の近くに即応配置されていたのは第21装甲師団のみであり、同師団は英軍によるカーン奪取を阻んだ[SRC-02367]。

歴史的背景

ヒトラーは1943年11月3日の総統指令第51号で、西方の防衛強化と、連合軍が上陸した場合の反撃による「海への押し返し」を命じていた[SRC-02367]。この指令を受け、1944年5月末までに58個師団がフランス・ベルギー・オランダに配置された[SRC-02367]。ロンメルは1943年11月にB軍集団司令官に就任すると、既存の海岸防御線(いわゆる大西洋の壁)の大規模な強化を命じ、トーチカ・銃座・海岸障害物・地雷を増設した[SRC-02367]。ロンメルは、連合軍の制空権を踏まえれば装甲部隊を海岸近くに配置し水際で迎撃すべきだと主張したが、装甲集団西方司令官フォン・シュヴェッペンブルクは装甲部隊をパリ北方に集結させ、連合軍が上陸した後に一挙に反撃すべきだと主張し、両者の構想は対立した[SRC-02367]。最終的にはヒトラーの裁定により、ロンメルが作戦指揮権を持つ装甲師団は3個のみとされ、そのうちノルマンディー海岸に即応できる位置にあったのは第21装甲師団だけだった(他の2個師団はセーヌ川以北に配置)[SRC-02367]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1944年6月5日(当初予定日、グレゴリオ暦) 当初の上陸予定日。気象悪化のため6月4日朝に少なくとも24時間の延期が決定される [SRC-02366]
1944年6月5日午前4時(グレゴリオ暦) アイゼンハワー自身の報告書によれば翌日の実施を最終決定。この会議にはモントゴメリー・ラムジー・リー=マロリーが同席したと記録される(決定時刻の目撃者証言には相違があり、詳細は「異説・論争」参照) [SRC-02366][SRC-02363]
1944年6月6日未明(グレゴリオ暦) 空挺部隊がノルマンディー海岸の背後(ユタ方面等)へ降下を開始 [SRC-02366][SRC-02368]
1944年6月6日午前6時30分ごろ(グレゴリオ暦) 最初の部隊が海からの上陸を開始 [SRC-02366]
1944年6月6日終日(グレゴリオ暦) ゴールド・ジュノー両海岸の部隊が内陸で合流。ソード海岸は独軍反撃を撃退したがカーン奪取に失敗 [SRC-02368]
1944年6月6日から6日間(グレゴリオ暦) 連合軍が兵員32万6,547人・車両5万4,186両・物資10万4,428トンを上陸させる(アイゼンハワー自身の報告書の数値) [SRC-02366]
1944年6月30日ごろ(グレゴリオ暦) 連合軍の上陸兵力が85万人を超える(アイゼンハワー大統領図書館・全米第二次世界大戦博物館がともに「85万人超」と記す) [SRC-02365][SRC-02369]
1944年7月半ば(グレゴリオ暦) ソード海岸の目標だったカーンが完全に占領される [SRC-02368]
異説・論争定説のない論点があります

本記事が確認した範囲では、決断の最終決定時刻・同一機関(NARA)の資料内での決断の言葉の記述の不一致および兵力・死傷者数の出典間の相違を以下に記録する。いずれも本サイトはいずれの値・文言が正確かを判定しない。

論点 説 根拠・出典 学界(専門機関)での位置づけ
決断の最終決定時刻 目撃者の証言は午前4時00分・4時15分・4時30分に分かれ、アイゼンハワー自身の1948年の回想録は4時15分と記す(アイゼンハワーの報告書は0400時) [SRC-02363][SRC-02366] NARA職員(アイゼンハワー大統領図書館副館長)による2014年の検証記事。決定の時刻自体も一つに定まらないと記す
アイゼンハワーの決断の言葉 「OK, let's go.」という単一の文言 [SRC-02364] NARAの展示キャプション。簡略な引用で、出典・証言の典拠は明示されない
アイゼンハワーの決断の言葉 最終決定会議の出席者のうちアイゼンハワーを除く4人の証言(「Well, we'll go!」「We will sail tomorrow」「OK, boys. We will go」「Ok, let 'er rip」)に加え、会議の出席者ではない戦時特派員チェスター・ウィルモットが著書(1952年)で報告した「Ok, we'll go」、アイゼンハワー自身の1963年の回想「so I said, 'Ok, we'll go.'」 [SRC-02363] NARA職員(アイゼンハワー大統領図書館副館長)による2014年の検証記事。確定した文言は存在しないと結論づける
オマハ海岸の死傷者数 約2,400人 [SRC-02369] 全米第二次世界大戦博物館のファクトシート(概数)
オマハ海岸の死傷者数 2,374人(第1師団1,190人・第29師団743人・軍団直轄部隊441人) [SRC-02369] 米陸軍公式戦史『Cross-Channel Attack』(ゴードン・ハリソン)のV軍団戦史に基づく数値。同戦史自身が、各部隊の報告が一致せず正確な数の確定は困難と記す
D-デイの上陸兵力 約13万3,000人(艦船7,000隻・艦艇要員19万5,000人超) [SRC-02365] アイゼンハワー大統領図書館の公式概要
D-デイの上陸兵力 約16万人(空挺2万3,400人。艦船7,000隻超・航空機約1万2,000機) [SRC-02369] 全米第二次世界大戦博物館のファクトシート。同博物館自身が「数字の多くは概算であり、一部の出典では値が大きく異なる」と注記する

関連する出来事

連合軍の欺瞞作戦「フォーティテュード」は、ドイツ側に本上陸地点をパ・ド・カレーと誤認させ、第15軍をセーヌ川以北に留めさせた[SRC-02367]。この作戦自体の詳細は本記事の主題の射程外とする。ソード海岸の目標だったカーンの攻略は、D-デイ当日には果たされず、その後数週間にわたる英軍の戦略上の焦点となった(詳細は「本文」参照)[SRC-02368]。

関連人物

歴史的意義

IWM(帝国戦争博物館)は、この上陸を水陸両用上陸作戦としては戦争の歴史上最大のものと記す[SRC-02368]。全米第二次世界大戦博物館のファクトシートは、この上陸の成功が、ナチス占領下の欧州の解放へ向けた作戦を開始させたとする[SRC-02369]。アイゼンハワー大統領図書館は、西部戦線の連合軍とソ連軍による東部戦線での戦いの末、1945年5月7日にドイツのアルフレート・ヨードル将軍がフランス・ランスで無条件降伏文書に署名したと記す[SRC-02365]。

現代の視点

全米第二次世界大戦博物館は、2024年時点のファクトシートの注記として、死傷者数など一部の数値について「正確な数字はあり得ない」という歴史家スティーヴン・アンブローズの指摘、および米陸軍公式戦史『Cross-Channel Attack』の著者ゴードン・ハリソンによる、各部隊の報告が一致せず死傷者数の確定は難しいという指摘を掲載している[SRC-02369]。NARA(米国立公文書館)が2014年に発行した自誌の記事は、アイゼンハワーが実際に発した決断の言葉について目撃者の証言が一致しないことを検証し、目撃者の記憶・証言自体が単一の確定した文言に至っていないことを示している(本サイトはこれを「異説・論争」欄で扱う)[SRC-02363]。これらは、80年以上前の軍事作戦についてさえ、兵力・死傷者・発言の記録に不確定な部分が残ることを示す事例として、現代の読者にも参照できる(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-02362] General Dwight D. Eisenhower's Order of the Day (1944)/National Archives and Records Administration(米国立公文書館)(ランクS)
  2. [SRC-02363] "OK, We'll Go"/Prologue Magazine(米国立公文書館発行の季刊誌)/著者 Tim Rives(ランクA)
  3. [SRC-02364] D-day, 1944(American Originals IV 展示)/National Archives and Records Administration(米国立公文書館)(ランクA)
  4. [SRC-02365] World War II: D-Day, The Invasion of Normandy/Dwight D. Eisenhower Presidential Library and Museum(米国立公文書館傘下)(ランクA)
  5. [SRC-02366] Report by the Supreme Commander to the Combined Chiefs of Staff on the Operations in Europe of the Allied Expeditionary Force/Dwight D. Eisenhower(著者本人)/原発行: 米国戦争省(U.S. War Department)。デジタル化・公開: HyperWar Foundation(ibiblio.org)(ランクS)
  6. [SRC-02367] The German Response to D-Day/Imperial War Museums(IWM、英国立の戦争博物館)(ランクA)
  7. [SRC-02368] What you Need to Know about the D-Day Beaches/Imperial War Museums(IWM、英国立の戦争博物館)(ランクA)
  8. [SRC-02369] D-Day Fact Sheet/The National WWII Museum(全米第二次世界大戦博物館、米議会が指定する国立の博物館)(ランクA)

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訂正履歴

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12026-10-08—
22026-10-08あり
32026-10-08あり
42026-10-08なし

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