チャウシェスクが演説を始めると、動員されたはずの群衆は反旗を翻し、テレビの生中継は「約3分間」中断したとワシントン・ポスト紙は伝える

日付と暦

原典表記
1989年12月21日(グレゴリオ暦)
換算
1989-12-21(グレゴリオ暦)
掲載日
12月21日のページ

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概要

1989年12月15日、ルーマニア西部の都市ティミショアラで、改革派ハンガリー教会の牧師ラースロー・テーケーシュの強制移動をめぐる住民の抗議が始まり[SRC-01015]、宗派や民族を超えて広がる大規模な反体制運動へと発展した[SRC-01008][SRC-01013][SRC-01015]。治安部隊による鎮圧で多数の死者が出た後、外遊先のイランから12月20日に帰国したチャウシェスクは、その夜テレビで演説してティミショアラの出来事を非難する一方[SRC-01013]、ブカレストの労働者による支持集会を組織するよう政治局に指示した[SRC-01008]。ところが12月21日正午、ブカレストのバルコニーから演説したチャウシェスクを待っていたのは、期待された歓声ではなかった[SRC-01010][SRC-01013]。演説の途中で群衆の一部が反体制的な言葉を唱え始めた[SRC-01009]。ラジオ・テレビの生中継は「約3分間」にわたって途切れたとワシントン・ポスト紙は伝える[SRC-01010]。集会は瞬く間に崩れ、抗議はブカレスト市内各所に広がり、治安部隊は大学広場やローマ広場付近で発砲した[SRC-01008][SRC-01011]。政権はその翌日、12月22日に崩壊したとENRSの年表は記す[SRC-01009][SRC-01013]。

本文

チャウシェスクの12月21日の演説は、例年どおり入念に台本化された年中行事だった。労働者や軍部隊、その他の大衆組織はバスで首都に運ばれ、どこに立ち、いつ拍手し、何を歌うかまで指示されていた[SRC-01009]。西側外交官の見立てでは、この日集まった主に若者の群衆は2万人から3万人だったとされる一方[SRC-01010]、ENRSの年表は「数万人」が参加したと記す[SRC-01013]。チャウシェスクは賃金・年金・社会扶助・児童手当の引き上げを約束したが[SRC-01013]、群衆は台本にない言葉を唱え始めた[SRC-01009]。ブカレスト駐在の英国人外交官ジョナサン・ラムはBBCへの電話取材に、「激しい唱和がある。一人の当局者が彼の背後に現れ、肩越しに様子を見て『我が神よ』と言ったように見え、彼をバルコニーから連れ出そうとする。この時点でテレビ中継は打ち切られる」と証言した[SRC-01010]。生中継の映像はチャウシェスクの困惑と狼狽を映し、群衆が制御不能になるにつれ、彼は姿の見えないやじに向かって言い返し始めたとされる[SRC-01009]。ロンドンのBBCモニターによれば中断の直前に大きな叫び声が聞こえたといい、放送は愛国的な音楽を挟んだのち、チャウシェスクが文の途中から演説を再開する形で再開された[SRC-01010]。

集会の外縁では、10代後半の抗議者数百人がルーマニア国旗を掲げ「自由」「民主主義」を叫びながら現れ、警察の第一列を無傷で通過したのち、第二列の警官隊に警棒で押し返された。群衆は「人殺し」「チャウシェスク打倒」と叫び始め、多くの人々がこれに加わり、商店主は店を閉め始めたと、バルカン航空職員の目撃に基づくブルガリア通信社の報道は伝える[SRC-01010]。催涙弾が投げられ、警察は単発の発砲からやがて一斉射撃へと移った[SRC-01010]。戦車が市内を移動し、ソ連タス通信は正午の報道で「自動火器の連射音が聞こえる。パニックに陥った人々が戸口や中庭に身を隠している」と伝えた[SRC-01010]。ENRSの年表は、チャウシェスクの約束にもかかわらず「人々は広場から逃げ去った」とし、書記長夫妻を護衛するため軍が市内に動員されたと記す[SRC-01013]。

夜になると、暴力の中心は大学広場(Piața Universității)へ移った。ある学生は、この夜のデモの最中に警察の放水砲で片目を負傷し、コルツェア病院で緊急摘出手術を受けたのち「僕の居場所は仲間のいるバリケードだ」と告げて広場へ戻った。その数時間後、精鋭部隊セクリターテャが発砲を開始し、「自由を求めて唱和していた武装していない民間人数百人を殺害し、身分証明書類を剥ぎ取ってトラックで運び去った」と、治療にあたった医療従事者への取材に基づくワシントン・ポスト紙は伝える。街路清掃車が呼ばれ、血が洗い流された[SRC-01011]。米国大使館は、少なくとも13人の若者が銃撃により死亡したと同日発表し、ソ連タス通信は2人のデモ参加者が装甲車両に轢かれたと伝えた[SRC-01010]。Wilson Center CWIHPの序文は、保安局・警察・軍が大学広場およびローマ広場(Piața Romană)付近の住民に向けて実弾を発射したと記す[SRC-01008]。午後2時30分を過ぎると機関銃の発砲は止み、抗議者を追い立てる動きも収まったといい、年配の住民が警官や兵士に若者を撃たないよう説得しようとしたとブルガリア通信社は伝えている[SRC-01010]。

この混乱を境に、チャウシェスク政権は翌12月22日に崩壊したとENRSの年表は記す。国防相ヴァシレ・ミレア将軍がデモ隊への発砲命令の実行を拒否して自殺し、軍と民兵はチャウシェスクへの発砲命令を拒んで革命側についた。正午近くに国営テレビ局が革命側の手に落ち、正午過ぎの12時6分、チャウシェスク夫妻はヘリコプターで中央委員会本部庁舎を脱出したと同年表は記す[SRC-01013]。世界史コモンズはこれを「そのわずか48時間後、チャウシェスクはルーマニアからの逃亡を試みることになり、あらゆる権力を失った」と位置づける[SRC-01009]。

歴史的背景

ティミショアラでの抗議の発端は、改革派ハンガリー教会の牧師ラースロー・テーケーシュへの強制移動命令だった。信徒による見張りが12月15日から16日にかけて膨れ上がり、宗派・民族を超えて合流した経緯を、テーケーシュ自身は「多くの司祭や教区、共同体がそのような状況で最善を尽くそうとしていた。ルーマニアで革命が勃発したのは摂理の働きだ。私たちはそれを見込んでいたわけではない。ただ、自分たちの信念と良心に忠実だっただけだ」と振り返っている[SRC-01015]。12月17日には、正教大聖堂周辺に集まった数千人の群衆に部隊が発砲し、多数の死者が出た[SRC-01008][SRC-01015]。中心広場では商店が略奪・放火され、RFE/RLの記事は、目撃者たちが後にこの略奪者たちは政府の工作員のように見え、弾圧の口実を作るために騒乱を煽動する狙いだったと語ったと伝える[SRC-01015]。当時26歳の目撃者カリン・メダは、商店には盗む価値のあるものは何もなかったこと、抗議者たちは非武装だったことを指摘したという[SRC-01015]。Wilson Center CWIHPの序文は、この段階の鎮圧だけで70人以上の死者が出たと記す[SRC-01008]。

チャウシェスクはこの鎮圧の最中に予定通りイランへの外遊に出発し、12月20日に帰国した。同日夜、テレビ演説でティミショアラの出来事を非難し、外国がルーマニアの内政に関与していると非難する一方[SRC-01013]、ソ連を含む対外的な追及をかわそうと外交チャンネルでは事態を終始「疑わしい」「アレゲド(alleged)」と表現し続けた[SRC-01008]。12月21日のブカレストでの集会は、この帰国直後にチャウシェスク自身が政治局に指示して組織させたものであり、ブカレストの労働者による支持を誇示する狙いだったとされる[SRC-01008]。

タイムライン

日付(グレゴリオ暦) 出来事 出典
1989-12-15 ティミショアラでテーケーシュ牧師の強制移動をめぐる抗議が始まる [SRC-01015]
1989-12-17 ティミショアラで治安部隊が群衆に発砲、多数の死者が出る [SRC-01008][SRC-01013][SRC-01015]
1989-12-20 チャウシェスクがイランから帰国、テレビ演説でティミショアラの出来事を非難。ブカレストでの支持集会の組織を指示 [SRC-01008][SRC-01013]
1989-12-21 ブカレストの集会でチャウシェスクの演説が中断したとワシントン・ポスト紙は伝える。抗議が市内に拡大し、大学広場周辺で治安部隊が発砲 [SRC-01008][SRC-01010][SRC-01011][SRC-01013]
1989-12-22 ミレア国防相の自殺、軍の離反を経て政権崩壊。チャウシェスク夫妻がヘリコプターで脱出したとENRSの年表は記す [SRC-01013]
1989-12-25 チャウシェスク夫妻がトゥルゴヴィシュテの臨時軍事法廷で有罪判決を受け即日処刑されたとENRSの年表は記す(本記事はこの経緯を評価しない) [SRC-01009][SRC-01013]
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)

本記事が扱う出来事には、性質の異なる2種類の論争がある。ひとつは死傷者数そのものの数値の幅、もうひとつは革命全体の性格づけをめぐる歴史学上の論争であり、本サイトはいずれについても特定の立場を採らない。

論点 根拠・出典 学界での位置づけ
12月21日、ブカレストでの死者数 米国大使館発表「少なくとも13人の若者が銃撃で死亡」(同日発表。場所・時間帯の限定は原文にない) [SRC-01010] 事件当日の外交筋発表の速報値
(同上) 治療にあたった医療従事者の証言に基づく報道「自由を求めて唱和していた武装していない民間人数百人を殺害」(数日後の報道) [SRC-01011] 大学広場に限定した数値として提示できるのはこの系統のみ。具体的な人数までは特定されておらず「数百人」という幅のある表現にとどまる
ルーマニア全土の死者・負傷者総数(1989年12月の revolution 全体) Wilson Center CWIHPの序文が『公式統計』として紹介する数値: 死者162人(ティミショアラ73・ブカレスト48・その他41)、負傷者1,107人(うちブカレスト604) [SRC-01008] CWIHP自身が独自検証した数値ではなく「公式統計」としての紹介
(同上) 革命終結直後(12月27日時点)にフランスの人道援助担当大臣クシュネルがルーマニア保健当局の情報として伝えた数値: 過去2週間の国内全域の戦闘による既知の死者総数746人・負傷者1,800人 [SRC-01012] 政府発表の推計が短期間で複数回変動したことを示す一例
(同上) ルーマニアのテレビが当時放送した数値: 死者最大8万人・負傷者13万人 [SRC-01012] 同記事は「著しく誇張されていた可能性がある」との現地での疑念を伝えている
ティミショアラでの12月15〜17日の死者数 ユーゴスラビア国営通信初出とされる推計「最大4,500人」。同記事はこれに続けて、市内病院の医師らはその後「数百人」の方が現実的だと述べていると伝えている [SRC-01012] 広く流布したが、同一記事内で医療従事者はより少ない数字がより現実的だとしている
1989年12月の政変の性格 主権の断絶を伴う「革命」であり、大衆動員・広範な暴力・革命的諸機関の自然発生的な創設・チャウシェスクの退却がその刻印であるとする見方(デニス・デレタント) [SRC-01014] ルーマニア科学アカデミー発行の学術誌に掲載された、専門歴史学者による研究(2019年)
(同上) 共産主義者たちが権力を掌握し続けたという意味で「継続性の断絶」がなかったため、「革命」と呼ぶことに疑問を呈しうるとする見方(同論文が紹介する対立的な問い) [SRC-01014] 同一論文の中で著者が両論を提示したうえで「クーデターではなかった」と論じている、2019年時点の問い

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

12月21日のブカレストでの騒乱は、ティミショアラで始まった反体制運動が首都に波及し、政権の権威を公然と崩した画期だった。動員集会という体制側の常套手段そのものが崩壊の舞台になった点、そしてその一部始終が生中継されたという偶然が、翌日の政権崩壊に直結したことは複数の系統の資料が一致して伝えている[SRC-01008][SRC-01009][SRC-01010][SRC-01013]。もっとも、この政変全体が「革命」と呼ぶにふさわしい大衆蜂起だったのか、それとも共産主義者たちによる権力の掌握が続いたという意味で継続性の破れない変化だったのかについては、2019年発表の研究が両論を提示しており、本サイトはいずれの見方が正しいかを判定しない[SRC-01014]。

現代の視点

本記事の射程は1989年12月21日の出来事とその直接の前後関係に限られる。この政変の性格をめぐる論点(上記「異説・論争」参照)を含め、その後のルーマニアの政治体制や司法手続をめぐる現代的な論点には、本サイトは立ち入らない(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-01008] New Evidence on the 1989 Crisis in Romania (CWIHP e-Dossier No. 5)/Cold War International History Project (CWIHP), Woodrow Wilson International Center for Scholars(ランクA)
  2. [SRC-01009] Video of Ceausescu's Last Speech, December 1989/World History Commons(Roy Rosenzweig Center for History and New Media, George Mason University/World History Association)(ランクA)
  3. [SRC-01010] TANKS HALT PROTEST IN ROMANIAN CAPITAL/The Washington Post(ランクB)
  4. [SRC-01011] IN BUCHAREST, TEARS AND PRAYERS FOR THE FALLEN/The Washington Post(ランクB)
  5. [SRC-01012] DEATH TOLL DOUBTS RAISED IN ROMANIA/The Washington Post(ランクB)
  6. [SRC-01013] The Romanian Revolution/European Network Remembrance and Solidarity (ENRS)(ランクA)
  7. [SRC-01014] December 1989 in Romania: People's Revolt, Revolution, or Coup d'État?/Transylvanian Review, Vol. XXVIII, No. 3 (2019), pp. 28-45. Published by Academia Română – Centrul de Studii Transilvane(ルーマニア科学アカデミー・トランシルヴァニア研究センター)。CEEOL(Central and Eastern European Online Library)経由で書誌・要旨を確認。(ランクA)
  8. [SRC-01015] Romania: Events In Timisoara Ignite 1989's Bloody Revolution/Radio Free Europe/Radio Liberty (RFE/RL)(ランクB)

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訂正履歴

日付事実主張への変更
12026-09-07
22026-09-07あり
32026-09-07あり

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