1949年世界 20世紀

ジョージ・オーウェル『一九八四年』刊行——病床で書き上げた近未来小説、英国で出版される

日付と暦

原典表記
1949年6月8日(グレゴリオ暦)
換算
1949-06-08(グレゴリオ暦)
掲載日
6月8日のページ

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概要

1949年6月8日、ジョージ・オーウェルの長編小説『一九八四年(Nineteen Eighty-Four)』がイギリスで刊行された[SRC-02380][SRC-02384]。出版社名は、ウィキペディア(英語版・日本語版)によれば、セッカー・アンド・ウォーバーグ(Secker & Warburg)とされる[SRC-02381][SRC-02382]。米国版は、ガーディアンによれば5日後の同年6月13日に刊行されたとされる[SRC-02380]。出版社は、ウィキペディア英語版によればハーコート・ブレイス社(Harcourt, Brace & Co.)であったとされる[SRC-02381]。オーウェルは結核に苦しみながら、スコットランド・ジュラ島の農家でほぼ独力で原稿を書き上げ、1948年末に出版者ウォーバーグへ送った[SRC-02380][SRC-02382]。ウィキペディア英語版によれば、本作は米国で刊行直後から大きな反響を呼んだとされる[SRC-02381]。当初の題名候補は『ヨーロッパ最後の人間(The Last Man in Europe)』だった[SRC-02381][SRC-02382]。本記事は刊行の事実と、刊行に至る執筆・出版の経緯、同時代の受容に限定して記す(本作の政治的解釈や現代社会への当てはめには立ち入らない)。

本文

オーウェルは1944年ごろには本作の主題を固めていたとされるが[SRC-02382]、実際の執筆の大半は1947年から1948年にかけて、スコットランド・ジュラ島の農家「バーンヒル(Barnhill)」で行われた[SRC-02380][SRC-02382]。1946年5月にジュラ島へ移った際、オーウェルは友人アーサー・ケストラーに、それはほとんど北極航海のために船に物資を積み込むようなものだと語った[SRC-02380]。前作『動物農場』(1945年刊行[SRC-02382])の成功により講演や依頼原稿の執筆、様々な活動への参加を求める声が殺到し、オーウェルはケストラーに「みんなが私に押しかけてくる……そこから自由になって、また考える時間を持ちたいと痛切に思う」と訴えた[SRC-02380]。オーウェル自身は、ある友人には「ますます搾りかすになったオレンジのようだ」と漏らしていたという[SRC-02380]。

1947年末から持病の結核が悪化し、約9か月間療養に専念することになって執筆が中断された[SRC-02382]。この時期のある書簡で、オーウェルは「NINETEEN EIGHTY-FOURか、THE LAST MAN IN EUROPEと呼ぶつもりだが、この1〜2週間でまた別の題名を思いつくかもしれない」と、題名への迷いを記した[SRC-02380]。オーウェルは代理人には、原稿の長さについて「非常に長く、12万5千語にもなる」と伝え、「この本には満足していないが、絶対的に不満というわけではない……アイデアは良いと思うが、結核の影響下で書いたのでなければ、もっと出来が良かったはずだ」と率直に記している[SRC-02380]。

1948年11月中旬、歩くこともできないほど衰弱していたオーウェルは、専門のタイピストが見つからないまま、自ら「老いぼれたタイプライター」で原稿の清書に取り組んだ[SRC-02380]。1948年11月30日までに清書はほぼ完成し[SRC-02380]、オーウェルは代理人に「それほど大騒ぎすることではない。長く座っていると疲れるのできれいに打てず、1日に多くのページを打てないだけだ」と説明した。さらに、プロのタイピストに打たせれば「素晴らしい」打ち間違いが生まれるだろうし、「この本には新語を多く含むという難点がある」とも述べたという[SRC-02380]。清書原稿は、ウィキペディア日本語版によれば1948年12月4日に送付され[SRC-02382]、The Guardianによれば12月半ばにロンドンへ到着した[SRC-02380](送付日と到着時期は別の出来事であり、本サイトはそれぞれ出典ごとに示す)。ウォーバーグは原稿を読み「自分がこれまで読んだ中で最も恐ろしい本の一つ」と評し、社内メモには「1万5千〜2万部売れなければ我々は銃殺されるべきだ」と記されていたという[SRC-02380]。清書を終えたオーウェルはジュラ島を離れ、イングランド・コッツウォルズの結核療養所に入所した[SRC-02380]。

1949年6月8日、『一九八四年』はイギリスで刊行された[SRC-02380][SRC-02384]。出版社は、ウィキペディア(英語版・日本語版)によればセッカー・アンド・ウォーバーグとされる[SRC-02381][SRC-02382]。米国版は、ガーディアンによれば5日後の6月13日に刊行されたとされる[SRC-02380]。出版社は、ウィキペディア英語版によればハーコート・ブレイス社であったとされる[SRC-02381]。刊行の3週間後にあたる1949年7月4日号のLife誌(米国の大手商業メディア)は、本作の図解あらすじ記事に「COPYRIGHT HARCOURT, BRACE AND COMPANY」という著作権表示を掲げており、同時代資料がこの出版社名を独立に確認する[SRC-02383]。ウィキペディア英語版によれば、イギリス版の初版は25,575部で、1950年3月と8月にさらに5,000部が増刷されたとされる。米国版は初版2万部に続き、7月1日と9月7日にそれぞれ1万部が増刷されたとされる(いずれも単独出典による数値)[SRC-02381]。刊行は大きな反響を呼び、ウィンストン・チャーチルは主治医に本作を2度読んだと語ったという[SRC-02380]。

歴史的背景

本作は当初『ヨーロッパ最後の人間(The Last Man in Europe)』の題名で構想されていた[SRC-02381][SRC-02382]。ウィキペディア日本語版によれば、1948年10月22日付の書簡の時点でも、題名は確定していなかった[SRC-02382]。ウィキペディア(英語版・日本語版)はいずれも、出版者ウォーバーグが『ヨーロッパ最後の人間』をより商業的な題名に変えるよう示唆したと記す[SRC-02381][SRC-02382]。改題の理由として、1884年設立のフェビアン協会の100周年を意識したという説や、1984年を舞台にしたジャック・ロンドンの小説『鉄の踵』(1908年)やG・K・チェスタトンの小説『新ナポレオン奇譚』(1904年)からの影響という説があると、ウィキペディア日本語版は記す[SRC-02382]。

歴史家ベン・ピムロットは、オーウェル自身について、民主社会主義者・労働党支持者でありながら1940年代半ばの政局そのものには強い関心を示さず、構想・執筆の多くの期間をロンドンの政治的な噂話から離れたジュラ島で過ごしたと記す[SRC-02379]。ピムロットは、オーウェルにとって最も重要な政治的経験はスペイン内戦(マルクス主義統一労働者党〔POUM〕の革命的な民兵部隊としての従軍)だったと位置づける(本サイトはこれをピムロットの解釈として帰属形で扱う)[SRC-02379]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1946年5月(グレゴリオ暦) オーウェルがスコットランド・ジュラ島の農家「バーンヒル」へ移る [SRC-02380]
1947年末〜1948年(グレゴリオ暦) 結核が悪化し約9か月間療養に専念、執筆が中断される [SRC-02382]
1948年10月22日(グレゴリオ暦、ウィキペディア日本語版による) オーウェルが出版者ウォーバーグ宛の書簡で題名への迷いを記す [SRC-02382]
1948年11月30日(グレゴリオ暦) オーウェル自身の清書がほぼ完成する [SRC-02380]
1948年12月4日(グレゴリオ暦、ウィキペディアによる) オーウェルが清書原稿をセッカー・アンド・ウォーバーグへ送付したとされる [SRC-02382][SRC-02381]
1948年12月半ば(グレゴリオ暦) 清書原稿がロンドンへ到着する [SRC-02380]
1949年6月8日(グレゴリオ暦) イギリスで刊行される(出版社はウィキペディアによればセッカー・アンド・ウォーバーグ) [SRC-02380][SRC-02384][SRC-02381][SRC-02382]
1949年6月13日(グレゴリオ暦、ガーディアンによるとされる日付) 米国でハーコート・ブレイス社より刊行される [SRC-02380][SRC-02381]
1950年1月(グレゴリオ暦) オーウェルが死去する(刊行の7か月後) [SRC-02379][SRC-02380]
異説・論争定説のない論点があります

本記事が確認した範囲では、刊行という出来事そのものに関する学界的な論争は見られなかったが、刊行当時の書評の評価の分かれを以下に記録する。本サイトはいずれの評価が正確かを判定しない。

論点 説 根拠・出典 学界(専門機関)での位置づけ
刊行当時の書評の評価 ニュー・ステイツマン誌のV・S・プリチェットは「これほど恐ろしく憂鬱な小説を読んだことはないと思う」と称賛し、The Listener誌のP・H・ニュービーも称賛した [SRC-02381] ウィキペディア英語版が引用する同時代の書評。本サイトは単独出典(ランクC)による記述として示す
刊行当時の書評の評価 サンデー・タイムズ紙のエドワード・シャンクスは「陰気な予言のあらゆる記録を破る」と否定的に評した [SRC-02381] 同上。評価が称賛・否定の双方に分かれたことを示す

関連する出来事

前作『動物農場』(1945年刊行[SRC-02382])の成功により、オーウェルへの講演・依頼原稿の執筆・様々な活動への参加の要請が急増した[SRC-02380]。オーウェルはこれを執筆の妨げと感じていたが、ジュラ島に移ったことでこうした要請から距離を置くことになったという[SRC-02380]。『一九八四年』の刊行は、この前作からおよそ4年後にあたる。

関連人物

歴史的意義

The Orwell Foundationは、本作が「ビッグ・ブラザー」「思考警察」「101号室」「ダブルシンク」「ニュースピーク」といった語を英語に導入したと記す[SRC-02378]。これらの語や、形容詞「オーウェル的(Orwellian)」は、今日でも全体主義的・管理主義的な社会や発想を指す語として使われているとされる(本記事はこの語の現代における用法の当否には立ち入らない)[SRC-02382]。

現代の視点

The Orwell Foundationは2017年、Director Hannah Price・producer Libby Brodie・UCLと共同で、本作のライブ朗読イベントをロンドンのSenate House(オーウェルが着想を得たとされる建物)で主催したと記す[SRC-02378]。本記事は、本作の政治的解釈や現代社会への当てはめについては立ち入らず、刊行という出来事と同時代の受容の記録に限定する。

出典一覧

  1. [SRC-02378] Nineteen Eighty-Four/The Orwell Foundation(ランクA)
  2. [SRC-02379] Ben Pimlott: Introduction to Nineteen Eighty-Four/The Orwell Foundation(著者: Ben Pimlott)(ランクA)
  3. [SRC-02380] The masterpiece that killed George Orwell/The Observer/The Guardian(著者: Robert McCrum)(ランクB)
  4. [SRC-02381] Nineteen Eighty-Four/Wikipedia(英語版)(ランクC)
  5. [SRC-02382] 1984年 (小説)/Wikipedia(日本語版)(ランクC)
  6. [SRC-02383] Life, 1949年7月4日号(Vol.27, No.1)——"The Strange World of 1984" / "Orwell Predicts Tyranny Unlimited If We Don't Resist"/Time Inc.(Life誌)(ランクB)
  7. [SRC-02384] The Publication of Nineteen Eighty-Four/History Today(著者: Mathew Lyons)(ランクB)

本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。

訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-10-08—
22026-10-08あり
32026-10-09あり
42026-10-09なし

訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。