世界 19世紀
1801年〜1900年 / 掲載 73 件
年表
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1803年
ローサが引き渡し文書に署名すると、下部ルイジアナはフランスから米国のものになった
領土倍増と語られるこの買収を、国立公園局の解説記事はミシシッピ川以西の先住民族にとって100年に及ぶ土地喪失の始まりだったとも位置づける。
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1804年
トレビシック式蒸気機関車、ペニダレンで世界初の鉄道走行
重すぎた機関車がレールを壊した——それでも1804年2月21日、鉄の道を走る夢は現実になった。
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1804年
1804年12月2日、ノートルダム大聖堂でナポレオンが皇帝に戴冠——教皇が祝別した帝冠を、自らの手で頭に載せた
帝冠を祝別したのは教皇だが、それを頭に載せたのはナポレオン自身の手だったと記録は伝える。
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1805年
ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、1805年4月2日、デンマーク・オーデンセの靴職人と洗濯女の家に生まれた——伝わる生家を、当人は生涯認めなかったと学術機関は記す
靴職人の子として生まれたアンデルセンは、伝わる生家を自ら認めなかったと学術機関は記し、後に国際的な童話作家となった。
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1805年
ナポレオンがミラノでイタリア王として戴冠したのは1805年5月26日——戴冠式は本来3日前の5月23日に予定されていた
戴冠式は本来5月23日に予定されていたが、理由を記す出典が見当たらないまま26日に延期された。
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1805年
ネルソン提督は、トラファルガーの海戦でフランス・スペイン連合艦隊を破った勝利のさなかに戦死した
圧勝の代償としてネルソンは戦死し、拿捕した敵艦の多くも直後の嵐で失われた。
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1809年
ルイ・ブライユは3歳の事故で失明し、15歳で点字の原型を考えた——「軍用暗号の転用」という定説は本人の言葉と食い違う
点字は「軍用暗号の転用」と語られがちだが、考案者自身の序文の言葉とは食い違う。
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1809年
エドガー・アラン・ポーは、旅役者の両親のもとボストンに生まれ、2歳で母を失って孤児となった——リッチモンドの商家に引き取られた少年は、養父との金銭を巡る軋轢を経て、1845年の詩『大鴉』でひと晩にして名を知られる存在となる
養父との対立を抱えた孤児は、やがて原稿料わずか15ドルの一篇の詩で、一夜にして名を知られる詩人になった。
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1809年
フェリックス・メンデルスゾーンは、1809年2月3日、ハンブルクでユダヤ系の家庭に生まれた——20歳のとき、初演から100年後にバッハの『マタイ受難曲』をベルリンで指揮し、「バッハ復興」の口火を切ったとされる
20歳の指揮者が蘇らせた一夜の演奏が、後世「バッハ復興」の起点とされている。
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1809年
チャールズ・ダーウィンは、1809年2月12日、シュルーズベリーの医師の家に生まれた——同じ日、大西洋の向こうではのちの第16代大統領も生まれていた
進化論のダーウィンは、リンカーンと同じ日に生まれた医師の家の子だった。
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1810年
フレデリック・ショパンは、洗礼記録によれば1810年2月22日、本人と家族の伝承によれば同年3月1日、ジェラゾヴァ・ヴォラに生まれたとされる——「本当の誕生日」は今なお一つに定まっていない
「本当の誕生日」は、洗礼記録の2月22日か、本人と家族が語り継いだ3月1日か、今も一つに定まっていない。
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1812年
チャールズ・ディケンズは、1812年2月7日、イングランド・ポーツマスで生まれた——12歳で靴墨工場へ働きに出たが、絶対的貧困のふちで生きた経験は生涯彼から離れなかったとチャールズ・ディケンズ博物館は記す
12歳で靴墨工場へ働きに出たディケンズだが、絶対的貧困のふちで生きた経験は生涯彼から離れなかったとチャールズ・ディケンズ博物館は記す。
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1813年
1813年1月28日、ジェーン・オースティンは『高慢と偏見』を匿名のまま世に送り出し、届いたばかりの本を姉への手紙でわが子と呼んだ——その版権を、出版者はわずか110ポンドで買い取っていた
『高慢と偏見』は匿名で刊行され、版権を買い取った出版者エガートンが利益を得た一方、著者オースティンの収入は増えなかった。
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1815年
ナポレオンがエルバ島を脱出したのは1815年2月26日——上陸した3月1日、パリに入城した3月20日とは、別の日である
脱出は2月26日、上陸は3月1日、パリ入城は3月20日——3つの日付はいずれも異なる日である。
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1815年
ナポレオンがパリに入城し帝政を復活させたのは1815年3月20日——「百日天下」という呼び名は、ルイ18世の逃亡から数えられていた
『百日天下』という呼び名は、ナポレオンの帰還からではなく、ルイ18世が首都を去っていた期間から数えられていたとされる。
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1815年
オットー・フォン・ビスマルク誕生——1815年4月1日、アルトマルクの地主貴族の家に
後に「鉄の宰相」と呼ばれたビスマルクは、地主貴族の父と教養市民階級出身の母のもとに生まれた。
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1815年
ウィーン会議最終議定書への署名——条約集の見出しに挙げられた8カ国のうち、1815年6月9日に実際に署名したのは7カ国だった
最終議定書の「8カ国」は条約集の見出しに挙げられた当事国で、実際に1815年6月9日に署名したのは7カ国だった
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1815年
ワーテルローの戦い、1815年6月18日——ウェリントン・ブリュッヒャー連合軍がナポレオン軍を破ったが、ウェリントンの公式報告書に死傷者総数の記載はまだなかった
ウェリントンが戦闘翌日に書いた公式報告書には、兵の死傷者総数はまだ記されていなかった。
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1817年
ニューヨーク証券取引所の前身「New York Stock & Exchange Board」は、1817年3月8日に規約を採択して組織された——1792年5月17日のボタンウッド協定への24名のブローカーの署名とは、別の日付の出来事である
ニューヨーク証券取引所には、1792年のボタンウッド協定と1817年の規約採択という、性格の異なる2つの起点がある。
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1821年
ナポレオンがセントヘレナ島で死去したのは1821年5月5日——『毒殺の証拠』とされた毛髪のヒ素は、少年期の髪からも同じく高い濃度で見つかった
死因論争の決め手は、毛髪のヒ素が『少年期の髪にも同様に高い濃度で見つかった』という発見だった。
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1827年
1827年3月26日、ベートーヴェンがウィーンで死去した——死因を巡る通説は毛髪の遺伝子研究で見直されつつある
死因を確定できないまま200年近くが過ぎても、科学は語り継がれた通説を書き換え続けている。
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1828年
ジュール・ヴェルヌは、1828年2月8日、フランス・ナントに生まれた——ブリタニカ百科事典によれば1863年、『気球に乗って五週間』を皮切りに「驚異の旅」シリーズを刊行し、同事典は近代SF小説の基盤の多くを築いた作家と評する
法律家の道を捨てた青年の物語が、20世紀にはSFというジャンルの「守護聖人」と呼ばれるまでになった。
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1828年
ノア・ウェブスター、『アメリカ英語辞典』を出版
colorやtheaterなど米英で綴りが分かれる語の一部には、この辞典の提案が背景にあるとされる。
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1831年
ダーウィンを乗せたビーグル号は、2度の暴風による失敗ののちプリマスを出航した——後世はこの航海を進化論への旅の始まりと位置づける
『ダーウィンは博物学者として乗った』という常識は、実は歴史学者の間で決着していない。
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1833年
1833年5月13日、メンデルスゾーンは交響曲第4番『イタリア』をロンドンで自ら指揮し初演した——フィルハーモニック協会の委嘱作だが、本人の不満のため生前には出版されなかった
作曲者自身が指揮した初演作は、本人の意に反して未改訂のまま後世の定番になったとされる。
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1836年
サミュエル・コルト、リボルバー拳銃の特許取得
特許は伝説の始まりではなかった。実用化までの道のりで、一度は廃業も経験した。
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1837年
ウィリアム4世が1837年6月20日未明に死去し、姪のヴィクトリアが18歳で英国女王に即位した——同日のうちにケンジントン宮殿で枢密院が新女王を宣言した
即位はケンジントン宮殿で即日。戴冠式はその1年後、ウェストミンスター寺院だった。
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1841年
エドガー・アラン・ポー、『モルグ街の殺人』をGraham's Magazineに発表——後に複数の資料が「最初の近代探偵小説」と位置づける短編の登場
「最初の探偵小説」と呼ばれる物語の刊行日は、実は原本自身にも「日」までは記されていない。
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1844年
1844年5月24日、サミュエル・モールスがワシントンの合衆国議事堂からボルチモアへ電信で「What hath God wrought」を送った——議事堂内だけでの実演は1838年・1842年に先行する
議事堂内の実演は1838年・1842年に先行する——モールス自身は紙テープに、ワシントンからボルチモアへ電信で送られた最初の文だと書き残した。
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1848年
ジェームズ・マーシャルは製材所の水路で光る金属片を見つけた——サッターズミルでの金鉱発見は、程なく噂となって広まりカリフォルニアへの大移動を引き起こした
小さな水路で見つかった金の薄片は、大陸を揺るがす人の移動を引き起こした。
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1848年
フランクフルト国民議会は、1848年5月18日、パウロ教会で開会した——ドイツ連邦議会が「最初の全ドイツ議会」と位置づけるこの議会は、翌年に憲法を可決しながら、国家樹立には至らなかった
連邦議会が「最初の全ドイツ議会」と位置づける議会は、憲法を可決したが、選ばれた皇帝に拒否され、国家樹立には至らなかった。
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1849年
エリザベス・ブラックウェルは、約29校の医学校に出願し、国内の主要な医学校から拒まれたのち、『冗談』の賛成投票でジュネーヴァ医科大学への入学を許された——1849年1月23日、米国の医学校から医学博士号を得た最初の女性となる
約29校に出願し、国内の主要な医学校から拒まれた末、学生の『冗談』の賛成票で入った医学校で、彼女は米国初の女性医学博士になった。
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1851年
1851年5月1日、ロンドン・ハイドパークでクリスタル・パレスを会場に第1回万国博覧会が開幕した——各国から約1万4000の出展者が参加し、会期中に600万人を超える人々が訪れた
フランスで続いていた国内限定の博覧会を、世界初の「万国」規模へ拡張したのがこの催しだった。
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1852年
ピーター・ロジェは1852年4月29日、『シソーラス』初版の序文にこの日付を記して署名した——刊行時期は出典によって『6月』とするものと、月日に触れず『年のみ』記すものに分かれる
「ロジェのシソーラス」の1852年4月29日は、刊行日を直接示すものではなく、ロジェが序文を書き署名した日である。
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1853年
フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年3月30日、オランダ・ズンデルトの牧師の家に生まれた——ちょうど1年前の同じ日に死産した兄も、同じ名を持っていた
ズンデルトの牧師の家に生まれたゴッホは、生前は作品をほとんど売れなかったが、死後に高い評価を得た。
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1859年
1859年5月31日、ウェストミンスター宮殿の大時計が時を刻み始めた——大鐘「ビッグ・ベン」は7月に初めて時を打ち、ひび割れによる沈黙を経て、時計塔は2012年に「エリザベス・タワー」と改称された
大鐘「ビッグ・ベン」は初打鐘から間もなく再びひびが入り、以後4年間沈黙していた。
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1859年
マジェンタの戦い、1859年6月4日——フランス・サルデーニャ連合軍がオーストリア軍を破り、マクマオンは戦場でマジェンタ公に叙された
指揮官が戦場で公爵に叙された戦いの名は、のちに赤紫の染料にも付けられたとされる。
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1859年
『種の起源』刊行、ダーウィンさえ驚いた『売れ行き』の知らせ——1859年11月24日
『即日完売』の逸話も、よく見ると『何が』『誰に』売れたのかで話が変わってくる。
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1860年
アントン・チェーホフは、露暦1860年1月17日(新暦換算1月29日)、タガンログに生まれた——「自伝を書くのは拷問だ」と語った作家が、本サイトが確認した範囲でほぼ唯一、生い立ちを数行で記した
近代短編小説の名手と評された作家は、自分の生い立ちを書くことを「拷問」だと語っていた。
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1860年
リンカーンは、南部の複数州で投票用紙に名前がないまま、大統領選挙に勝った
南部の複数州で投票用紙に名前すら載らなかったリンカーンは、それでも選挙人票の過半数を得て大統領に選ばれた。
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1861年
イタリア王国の成立宣言
イタリア王国が生まれた日も、ヴェネトとローマはまだ「イタリア」の外にあった。
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1862年
モニター号とバージニア号、史上初とされる装甲艦同士の海戦
装甲艦同士の砲撃は4時間続いたが互いの装甲に弾かれ、勝敗の評価は今も出典によって分かれている。
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1863年
リンカーンが奴隷解放宣言に署名した——宣言が「自由」と宣言した地域に、合衆国政府の実効支配は及んでいなかった
「自由」と宣言された地域に連邦の力は及ばず、連邦の力が及ぶ地域では奴隷制は手つかずのままだった。
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1863年
ゲティスバーグ演説、リンカーン自筆の5つの草稿——標準版となったブリス草稿
約2時間の演説の後に添えられた2分の言葉を、リンカーンは自分の手で5回、少しずつ違えて書き残した。
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1865年
合衆国憲法修正13条、1865年1月31日に連邦下院で可決——効力発生は、同年12月6日の批准まで生じていなかった
下院の可決は「提案」にすぎなかった——修正13条が効力を持ったのは、同年12月の州の批准によってである。
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1865年
1865年2月1日、リンカーンは修正13条の合同決議を承認した——CRSの解説によれば、大統領の署名は発議・批准の手続として合衆国憲法上必要とされていなかった
CRSの解説によれば、大統領の署名は、修正条項の発議にも批准にも憲法上必要ない——それでもリンカーンは署名した
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1865年
1865年4月9日、リー将軍はアポマトックスでグラント将軍に降伏した——南北戦争の「終わりの始まり」であって、終結そのものではなかった
リーが降伏させたのは北バージニア軍だけであり、南北戦争そのものの終わりはまだ先だった。
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1865年
ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』ミュンヘンで初演——歌手の急な声がれにより、当初予定の1865年5月15日から6月10日まで延期された
当初5月15日に予定された初演は、歌手の急な声がれにより約1か月延期され、6月10日に実現した。
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1865年
合衆国憲法修正13条、1865年12月6日に必要な27州に達した——国務長官はその12日後に成立を証明した
「批准達成」と「国務長官による証明」は別の日——奴隷制の終わりも、一つの日付には収まらない。
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1866年
気球が主役だった時代に、六人は「空を飛ぶ機械」を語り合った——英国王立航空協会の始まり
動力飛行が実現する37年も前、六人はすでに「機械で空を飛ぶ」未来を語り合っていた。
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1866年
合衆国憲法修正第14条、1866年6月13日に連邦議会の両院の議決が完了——批准は1868年7月9日、国務長官の最終証明は同年7月28日
下院が上院の修正に同意した6月13日に完了したのは両院の議決にすぎない——修正第14条が効力を持ったのは2年以上後、1868年7月の批准によってである。
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1867年
国務長官スワードが結んだ720万ドルの取引は、半年後の夜、アラスカの暦から11日間を消した
「愚行」と揶揄された買い物の引き渡しの夜、アラスカの暦からは11日間が消えたとされる。
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1869年
1869年5月10日、ユタ準州プロモントリー・サミットでセントラル・パシフィック鉄道とユニオン・パシフィック鉄道の線路がつながり、合衆国を横断する最初の大陸横断鉄道が完成したとされる——儀式用の金の杭には、2日早い「1869年5月8日完成」の文字が刻まれていた
儀式用の金の杭には、本来の完成予定だった2日早い「1869年5月8日完成」の文字が刻まれていた。
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1869年
スエズ運河はウジェニー皇后を迎えた式典で開通したが、動員されたとされる40万人の農民のうち数万人が死亡したとみられ、ナセルが後に述べたとされる『12万人』を裏付ける記録はないとされる
式典は皇后を迎え華やかだったが、動員された農民のうち数万人が死亡したとみられ、ナセルの『12万人』を裏付ける記録はないとされる。
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1870年
ローマの城壁が破られたとき、教皇は世俗の統治者でなくなった
ローマを囲む城壁がひとたび破られると、教皇による世俗の統治はその日のうちに終わった。
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1872年
1872年12月、無人のまま大西洋を漂流するメアリー・セレスト号が発見された——船はほぼ無傷、乗員10人だけが消え、原因は今も分かっていない
船はほぼ無傷、積み荷も無事なのに、乗員10人だけが消えた——150年以上、誰も答えを出し切れていない。
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1876年
アレクサンダー・グラハム・ベル、電話の特許取得
特許の出願と同じ日、同じ発明を出願していたライバルがいた。優先権をめぐる評価は出典によって分かれる。
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1876年
ベル、電話で史上初とされる音声伝達に成功
ベル自身のノートは『初めて』と書いていない。その言葉を足したのは後世と本人の回想だった。
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1881年
アレクサンドル2世、ナロードナヤ・ヴォーリャの爆弾により暗殺される——露暦1881年3月1日、改革案に署名した当日のことだった
署名した改革案は、実現することのないまま、歴史から姿を消した。
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1883年
鉄道各社の申し合わせだけで、北米の正午は一日に二度訪れた
国の法律を待たず、鉄道会社の申し合わせだけで、北米の正午はひとつに揃えられた。
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1886年
クリーブランド大統領は、霧と雨の中で自由の女神像をフランスからの贈り物として受け取った
自由の女神を迎えた式典に、同伴者なしの女性参政権協会は入場券を得られず、船から見物したとされる。
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1889年
エッフェル塔完成——1889年3月31日、竣工と旗の掲揚
エッフェル塔の竣工・式典(3月31日)と、一般公開(5月15日)・万博開幕(5月6日)は別の日付である。
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1889年
チャールズ・チャップリンは、1889年4月16日にロンドンで生まれたと生涯語り続けたが、その出生を証明する記録は一度も見つかっていない
映画俳優・映画監督となり「ザ・トランプ」で知られたチャップリンだが、自らの出生を証明する公的記録は今も見つかっていない。
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1889年
ネリー・ブライは、フィリアス・フォッグの記録を破ろうと、世界一周の船に乗り込んだ
ブライは、同じ日に反対方向へ出発したライバル記者の存在を出発の時点では知らなかったが、やがて72日6時間11分で世界一周の新記録を打ち立てた。
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1889年
ブラジル「共和国宣言」を動かしたのは、陸軍のごく一部だった
「共和国宣言」は国民的合意の産物ではなく、陸軍のごく一部が動いた出来事だった。誰がそれを主導したかは、今も見解が割れている。
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1894年
パリ・ソルボンヌでの国際アスレチック会議の閉会に伴い、国際委員会(後の国際オリンピック委員会, IOC)が発足した——初代会長はディミトリオス・ヴィケラス、初代事務総長はピエール・ド・クーベルタン
IOCの初代会長はクーベルタンではなくヴィケラス——クーベルタンは当時、事務総長だった。
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1894年
ドレフュス大尉、パリ軍法会議で有罪判決——弁護側に示されなかった『秘密文書』
評議中、弁護側に一切示されない『秘密文書』が有罪の根拠に加えられていた。破毀院が名誉を回復するまで12年を要した。
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1895年
レントゲンは、真っ暗な部屋で、光るはずのない蛍光紙が光るのを見た
光ってはならない蛍光紙が光ったことから、目に見えない新しい光線が見つかった。
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1895年
リュミエール兄弟、グラン・カフェでシネマトグラフの有料公開上映を実施——「世界初」の物語に英国映画協会は異を唱える
「最初」を名乗る機関は複数あり、それぞれが使う限定語も、機関の立場も、一様ではない。
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1896年
ゲオルギオス1世が開会を宣言し、近代オリンピック第1回アテネ大会が幕を開けた——現在の暦で1896年4月6日、当時ギリシャで使われていた暦では3月25日
『4月6日』は現在の暦の日付——当時ギリシャで使われていた暦では3月25日で、第1回大会は今も『二つの日付』を持つ。
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1898年
エミール・ゾラ、大統領宛公開書簡『私は弾劾する…!』を発表
大統領宛の公開書簡は10人を名指しで告発し、ゾラ自身も名誉毀損で有罪となり亡命した。
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1900年
客席は温かい拍手、批評は冷ややかだった夜——プッチーニ『トスカ』、緊迫のローマ初演
初演の夜は酷評されたのに、この歌劇は今も世界の舞台で歌われ続けている。
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1900年
鉄道員たちの決議から生まれた連合——1900年2月27日、労働組合と社会主義諸団体がロンドンで「労働代表委員会」を結成したとされる
労働組合と社会主義諸団体が手を結んで生まれた「労働代表委員会」は、まだ「労働党」ではなかった。