ハワード・カーターが11月4日に見つけたのは、黄金ではなく一段の石段だった
日付と暦
- 原典表記
- 1922年11月4日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1922-11-04(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 11月4日のページ
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概要
1922年11月4日午前10時ごろ、考古学者ハワード・カーターの発掘隊は、エジプト・王家の谷でラメセス6世墓の入口の下にあった古代の労働者小屋の跡を調べていたところ、岩盤を刻んだ階段の最初の一段を北東隅に見つけた[SRC-00635]。この時点で明らかになったのはその一段だけで、封印された扉も副葬品もまだ姿を見せておらず、カーター自身、この階段が誰の墓に通じるのかを判断する材料を持っていなかった[SRC-00635]。発掘資金を提供していたカーナヴォン伯爵に電報を打ったのは翌5日の夜のことで、この遺構がツタンカーメンの墓だという手がかりが得られたのは、それから20日後の11月24日のことだった[SRC-00635]。
本文
発掘隊は11月1日からこの季節の作業を始め、ラメセス6世墓の入口北東角から南へ向けて、かつての発掘で残された古代の労働者小屋の跡を掘り進めていた[SRC-00635]。11月4日午前、最初の小屋のほぼ真下で、岩盤を切り下げた急な掘削の痕跡が現れ、それがラメセス6世墓の入口よりおよそ4メートル低い位置にある、沈み込み式の階段状の墓の入口である可能性が見えてきた[SRC-00635]。ただしその日のうちに分かったのはそこまでで、上にたまった瓦礫を取り除かない限り、これ以上のことは何も言えなかった[SRC-00635]。
翌5日、前日と当日のほとんどをかけて瓦礫を取り除き、日没までに階段を12段目まで掘り下げたところ、しっくいを塗って封をした扉の上部が姿を現した[SRC-00635]。カーターはそこに王家墓地の印章(Royal Necropolis seal。アヌビス神が九人の敵を従える意匠)の跡を見つけ、その上にかつての労働者小屋がとくに乱された様子もなく建てられていたことも合わせて、この墓は少なくとも第20王朝の時代以降は手つかずのまま保たれてきたと判断した[SRC-00635]。扉の下に開けた小さな穴から懐中電灯で照らすと、奥の通路は天井近くまで石と瓦礫で満たされており、念入りに閉じられていたことがうかがえた[SRC-00635]。それでも、この墓が貴人のものか、あるいは王族の副葬品を寄せ集めた隠し場所(原文cache)なのか、手がかりは何もなかった[SRC-00635]。カーターはこの夜、当時イギリスに滞在していたカーナヴォン伯爵に「At last have made wonderful discovery in Valley a magnificent tomb with seals intact recovered same for your arrival congratulations」(ついに王家の谷で驚くべき発見をした、封印の整った壮大な墓を、あなたの到着まで守ってある、おめでとう)と打電した[SRC-00635]。
歴史的背景
カーターは1907年からカーナヴォン伯爵の資金提供を受けて発掘を続けていた[SRC-00637]。伯爵は1914年、体調を崩したセオドア・M・デイヴィスが発掘から退いたのに伴い王家の谷での発掘権を得て、以後カーターの財政面を支えた[SRC-00637]。それまでの長年の探索は実を結んでおらず、11月4日の発見は、資金提供者との関係を含め、それまで手がかりの乏しかった探索の末にもたらされたものだった[SRC-00637]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1922年11月4日(グレゴリオ暦) | 階段の最初の一段(北東隅)を発見 | [SRC-00635] |
| 1922年11月5日(グレゴリオ暦) | 階段を12段目まで掘り下げ、封印扉の上部(王家墓地の印章=Royal Necropolis seal)を確認。カーナヴォン伯爵に打電 | [SRC-00635] |
| 1922年11月24日(グレゴリオ暦) | 階段全16段が掘り出され、扉下部の封印にツタンカーメンのカルトゥーシュを確認 | [SRC-00635] |
| 1922年11月25日(グレゴリオ暦) | 封印扉を開封。奥に下降通路を確認(盗掘を思わせる散乱物あり) | [SRC-00635] |
| 1922年11月26日(グレゴリオ暦) | 通路奥に2つ目の封印扉を発見し、小さな穴からのぞき込む | [SRC-00635] |
| 1923年2月16日(グレゴリオ暦) | 玄室の封印扉を、政府高官らの立ち会いのもとで開封 | [SRC-00635] |
暦の注記: 上表の日付はいずれもグレゴリオ暦であり、1922〜23年の本事象に改暦境界等の複雑さは生じない。
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
同一資料内・関連資料間で記述が食い違う点を3つ確認した。異説として併記する(調査範囲: SRC-00635〔カーター自身の発掘日誌〕・SRC-00636〔カーターとメイスの共著、発見翌年刊〕・SRC-00637〔National Geographic署名記事〕)。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 11月26日、カーナヴォン伯爵の問い「Can you see anything」へのカーターの返答文言 | 発掘日誌の逐語記録では「Yes, it is wonderful」(そうです、素晴らしい) | [SRC-00635] | カーター本人による発見当日中の記録 |
| 同上 | 発見翌年(1923年)に刊行されたカーターとメイスの共著では「Yes, wonderful things」(そうです、素晴らしいものが) | [SRC-00636] | 同じくカーター本人の記録だが、日誌の約1年後に編集を経て公刊されたもの。広く知られている文言はこちらである[SRC-00637] |
| カーナヴォン伯爵への電報の送信日 | 発掘日誌は、瓦礫を埋め戻したうえで11月5日の夜に自ら帰宅し打電したと記録している | [SRC-00635] | カーター本人による発見翌日中の記録 |
| 同上 | 発見翌年(1923年)に刊行されたカーターとメイスの共著は、同じ電文の送信を「on the morning of November 6th」(11月6日の朝)と記す | [SRC-00636] | 同じくカーター本人の記録だが、日誌の約1年後に編集を経て公刊されたもの。「wonderful」の版差と同様、日誌と刊行書の間で日付が1日食い違っている |
| 最初の一段を見つけたのは誰か | カーター自身の発掘日誌は、終始一人称("I discovered")でこの発見を記録しており、他の発見者への言及はない | [SRC-00635] | 発見当事者本人による同時代の記録 |
| 同上 | 後年、少年の水運び人足フセイン・アブドル・ラスールが偶然この一段を見つけたという逸話が広く語られるようになったとされる | [SRC-00637] | National Geographicは「広く書かれている」ものとしつつ、少年本人が1992年のインタビューでは異なる記憶を語ったとも伝える。同記事内の写真キャプションは発見日を「9 November」とし、カーター自身の日誌(11月4日)とも日付が食い違う |
関連する出来事
- カーナヴォン伯爵は1923年4月5日、カイロで丹毒(皮膚の感染症)から、敗血症とみられる症状を経て肺炎に至り死去したとされる[SRC-00637]。この死去をきっかけに、作家アーサー・コナン・ドイルが、発掘によって霊的な存在が解き放たれたことがこの死を招いたのだと公言するなど、「ファラオの呪い」を語る報道が広まった[SRC-00637]。
関連人物
- ハワード・カーター(Howard Carter): イギリスの考古学者[SRC-00637]。1907年からカーナヴォン伯爵の資金提供を受けて発掘を続け、1922年11月4日に階段の最初の一段を発見した[SRC-00635]。
- カーナヴォン伯爵(Lord Carnarvon、ジョージ・ハーバート): カーターの発掘資金の提供者[SRC-00635][SRC-00637]。発見の報を受けてエジプトに渡り、11月26日にカーターとともに封印扉の穴からのぞき込んだ[SRC-00635]。
- レディ・イヴリン・ハーバート(Lady Evelyn Herbert): カーナヴォン伯爵の娘。11月26日の開封の場に立ち会った[SRC-00635]。
- アーサー・キャレンダー(Arthur Callender): カーターの発掘に協力した技術者[SRC-00637]。11月10日に合流し、11月24日には階段の掘り出しを担当、26日の開封にも立ち会った[SRC-00635]。
- ツタンカーメン(Tutankhamun): 古代エジプトのファラオ。19歳で没したとされる[SRC-00637]。11月24日、封印扉のカルトゥーシュから、この墓が同王に関わるものであることを示す手がかりが得られた[SRC-00635]。
歴史的意義
National Geographicは、この発見を「the find that would change history」(歴史を変えた発見)と評している[SRC-00637]。同記事でエジプト人考古学者ノラ・シャウキは、カーターを「a game changer in Egyptian history」(エジプト史における局面を変えた人物)と評したうえで、その発掘手法は極めて詳細かつ緻密であり、日誌の記録は並外れたもの(extraordinary)だったとし、「They're still helpful to modern day archaeologists」(今日の考古学者にとってもなお助けになる)と述べている[SRC-00637]。
現代の視点
一般には11月4日が「ツタンカーメン王墓発見の日」として語られることが多いが、上に見た発掘日誌が示すとおり、この日に姿を現したのはあくまで階段の一段であり、封印扉の存在が確認できたのは翌5日、王の名を示すカルトゥーシュが確認できたのは11月24日、宝物の並ぶ前室をのぞき込んだのは11月26日、玄室そのものが開かれたのは翌1923年2月16日のことだった(本サイトの整理)。
カーナヴォン伯爵は発見から半年足らずで死去し、「ファラオの呪い」という物語が報道で広まったが[SRC-00637]、王墓自体から呪いを記した銘文が見つかったわけではない[SRC-00637]。発見の中心にいたカーター本人の生涯については、本記事では立ち入らない。
出典一覧
- [SRC-00635] Tutankhamun: Anatomy of an Excavation — Howard Carter's excavation journal, 1st Season (28 October 1922 – 30 May 1923)/The Griffith Institute, University of Oxford(ランクA)
- [SRC-00636] The Tomb of Tut-ankh-Amen, Vol. I: Search, Discovery and the Clearance of the Antechamber/Internet Archive(原本: Cassell and Company, Ltd., London, 1923)(ランクA)
- [SRC-00637] Unmasking Howard Carter—the man who found Tutankhamun/National Geographic(ランクB)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-04 | あり |
| 2 | 2026-09-04 | あり |
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