1935年世界 20世紀

エルヴィス・プレスリーは、ミシシッピ州タペロの2間の「ショットガン・ハウス」で、死産だった双子の片割れとともに生まれた——その歌声は、黒人のブルース・ゴスペルと白人のゴスペル・カントリーが交わる場所で育った

日付と暦

原典表記
1935年1月8日(グレゴリオ暦)
換算
1935-01-08(グレゴリオ暦)
掲載日
1月8日のページ

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概要

1935年1月8日、ミシシッピ州タペロ(当時は別自治体だったイースト・タペロ)の2間の家「ショットガン・ハウス」で、エルヴィス・プレスリーが生まれた[SRC-01152][SRC-01153]。同じ出産で、一卵性双生児の片割れは生存しなかった[SRC-01152][SRC-01153][SRC-01155]。両親グラディスとヴァーノン・プレスリーは貧しく、生家は父・伯父・父方の祖父が建てたものだった[SRC-01152]。幼いエルヴィスは、タペロのアフリカ系アメリカ人居住区の近くで育ち[SRC-01153]、10代を過ごしたテネシー州メンフィスでは、黒人向けラジオ局の音楽と黒人教会の礼拝、白人ゴスペル・グループの歌の双方に日常的に触れた[SRC-01152][SRC-01153][SRC-01154]。1954年、この音の土壌から生まれた最初の録音は、ブルース歌手が先に歌っていた曲を彼が歌い直したものだった[SRC-01158]——その音楽的出自をどう位置づけるかは、当時から現在まで意見が分かれている[SRC-01153][SRC-01156]。

本文

1935年当時、米国は大恐慌のただなかにあり、失業率は20.1パーセントに達していた[SRC-01152]。エルヴィスの家族もその例に漏れず貧しく、父ヴァーノンは日雇い労働者として家族を支え、一家は借家を転々とした[SRC-01152]。生家の2間のショットガン・ハウスは、ヴァーノンが伯父・父方の祖父とともに建てたものだった[SRC-01152]。エルヴィスは一卵性双生児として生まれ、片割れの兄弟は生存しなかった[SRC-01152][SRC-01155]。ミシシッピ州の歴史解説は原文でこの兄弟の名を「Jesse Garon」と綴り、ブリタニカ百科事典は綴りの異なる「Jessie Garon」と記す(英語表記の綴り違いであり、日本語のカタカナ表記では区別されない)[SRC-01152][SRC-01155]。ミシシッピ州の歴史解説によれば、エルヴィスは後にミドルネームの綴りを「アーロン」から「アロン」へ変え、この兄弟のミドルネーム「ギャロン」の綴りに近づけたとされる[SRC-01152]。

1938年、父ヴァーノンが4ドル小切手の改ざんの罪で、ミシシッピ州立刑務所(パーチマン農場)に他2名とともに8か月間服役し、一家は生家を失って親戚宅に身を寄せた[SRC-01152]。一家はタペロのアフリカ系アメリカ人居住区「シェイク・ラグ」の近く、あるいはその内側に一時期居住し、ペンテコステ派の第一アセンブリー・オブ・ゴッド教会に定期的に通った[SRC-01153]。10歳のころ、エルヴィスはミシシッピ・アラバマ・フェアの素人コンテストに出場し、老いた犬の死を歌う歌を、椅子に登ってマイクに届かせながら歌ったとされる[SRC-01152][SRC-01153]。

1948年秋、一家はタペロを離れテネシー州メンフィスへ移住した[SRC-01152][SRC-01153]。メンフィスでは公営住宅ローダーデール・コーツに入居し、近隣にはビール・ストリートとエリス講堂があった[SRC-01152]。全米トップのゴスペル・グループとされるブラックウッド・ブラザーズがちょうどメンフィスに移住してきたところで、有名ディスクジョッキーのデューイ・フィリップス(WHBQ)はブルースやリズム・アンド・ブルースをかけ、B.B.キングはWDIAでブルースをかけていた[SRC-01152]。エルヴィスは日曜の朝と水曜の夜、黒人教会である東トリグ・バプティスト教会(ハーバート・ブリュースター牧師)にも足を運んだとされる[SRC-01153]。黒人向けラジオ局WDIAとデューイ・フィリップスは、リズム・アンド・ブルース、カントリー、ポップ、そして黒人・白人双方のゴスペルという多様な音楽様式を提供し、これが後の音楽性の形成に寄与したと、ミシシッピ百科事典は位置づける[SRC-01153]。

1954年7月5日夜、エルヴィスはギタリストのスコッティ・ムーア、ベーシストのビル・ブラックとともに、プロデューサーのサム・フィリップスが所有するメンフィスのスタジオでセッションを行った[SRC-01158]。休憩から戻った際、エルヴィスが不意にアコースティックギターをかき鳴らし、ブルース歌手アーサー・「ビッグ・ボーイ」・クルーダップが先に録音していたブルース曲「ザッツ・オールライト」を歌い始めたという[SRC-01158]。これを聞いたフィリップスが録音を提案し、2週間後の1954年7月19日、この曲を含む両面レコードが発売された[SRC-01158]。ロックの殿堂は、この楽曲を「停滞したセッションの気晴らしに歌ったR&Bヒット」と説明する[SRC-01154]。

歴史的背景

1950年代半ば、米国南部では人種隔離の撤廃を求める運動が本格的に勢いを増しつつあった時期にあたる[SRC-01156]。この時代に、エルヴィスは白人でありながら黒人由来の音楽様式を主流の白人聴衆に届ける存在として登場した[SRC-01154][SRC-01156]。ロックの殿堂は、彼の音楽を「ブルース・カントリー・ゴスペル等ルーツ音楽の革命的融合」と説明し、彼が影響を受けたアーティストとして、シスター・ロゼッタ・サープ、B.B.キング、アーサー・「ビッグ・ボーイ」・クルーダップ、ビッグ・ママ・ソーントン、ブラックウッド・ブラザーズ、ワイノニー・ハリス、ディーン・マーティン、ジミー・ロジャースを(原文の記載順のまま)列挙する[SRC-01154]。ミシシッピ百科事典は、この音楽的統合を「後にロカビリーと呼ばれる、労働者階級的かつ人種混淆的な音楽的統合」と記す[SRC-01153]。

タイムライン

日付(グレゴリオ暦) 出来事 出典
1935年1月8日 エルヴィス・プレスリー、ミシシッピ州タペロで誕生。一卵性双生児の片割れは同じ出産で死産だった [SRC-01152][SRC-01153][SRC-01155]
1938年 父ヴァーノンが小切手改ざんの罪で8か月服役し、一家は生家を失う [SRC-01152]
少年期(10歳のころ・具体年は資料に明記なし) ミシシッピ・アラバマ・フェアの素人コンテストに出場(順位は資料により異なる — 下記「異説・論争」参照) [SRC-01152][SRC-01153]
1948年 一家、テネシー州メンフィスへ移住。ビール・ストリート、黒人教会、ゴスペル・グループ、黒人向けラジオ局に日常的に触れる環境に入る [SRC-01152][SRC-01153]
1954年7月5日 サン・レコードのスタジオで、後の最初のシングル曲「ザッツ・オールライト」(アーサー・「ビッグ・ボーイ」・クルーダップの先行録音曲)を録音 [SRC-01158]
1954年7月19日 「ザッツ・オールライト」/「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」の両面レコードが発売される [SRC-01158]
1986年 ロックの殿堂の初回殿堂入りを果たす [SRC-01154][SRC-01155]
異説・論争定説のない論点があります

黒人音楽からの影響摂取をどう評価するか——この主題については、同時代の黒人コミュニティの反応自体からして一様ではなかった。1950年代当時、黒人系新聞・雑誌は、プレスリーの様式への黒人ブルース・R&B・ゴスペルの影響を、「文化的専有」を非難する文脈ではなく、黒人音楽が主流のラジオ・テレビから日常的に締め出されていた時代における彼の「申し分ない趣味」を称賛する文脈で報じていたと、アメリカ研究者ブライアン・ワード氏(ノーサンブリア大学)は指摘する[SRC-01156]。黒人向け雑誌Tanは、プレスリーが黒人への敬意とその歌唱への影響を隠さなかったと報じ、「ソウルのゴッドファーザー」と呼ばれたジェームズ・ブラウンは「自分はファンというだけでなく彼の兄弟だった」と述べたとされる[SRC-01156]。リトル・リチャードも1970年、「エルヴィスが道を開いてくれたことに感謝する」と述べたとされる[SRC-01156]。

その一方で、死去後の黒人紙シカゴ・ディフェンダーは、同時代のロックンロール歌手チャック・ベリーを引き合いに、プレスリーを「王としての才能から利益を得た王子に過ぎない」と評したと報じられ、1989年のパブリック・エナミーの楽曲「Fight the Power」の歌詞は、プレスリーを人種差別的な搾取者とみなすこの通念を要約するものとして紹介される[SRC-01156]。白人アーティストが黒人楽曲を「無難な」形でカバーしポップチャートに送り込む当時の「カバー現象」により、リトル・リチャードを含む多くの黒人ロックンロール歌手が経済的な不利益を被ったことも指摘されている[SRC-01156]。ミシシッピ百科事典は、プレスリーの死後数十年を経ても「歴史家・音楽研究者・ファンの間で彼の功績をめぐる論争が続き、その経歴と意義について合意は成立していない」と記す[SRC-01153]。本サイトはこれらの当時・後世の評価をいずれも判定せず、出典が実際に記す評価として紹介するにとどめる。

売上・受賞記録の数値についても、出典によって範囲が異なる。全米レコード協会(RIAA)は、プレスリーの米国内での認定アルバム売上が2018年3月時点で1億4650万ユニットを超え、同協会史上、全アクト中3位(ソロ・パフォーマーとしてはガース・ブルックスに次ぐ2位)の認定数であると発表している[SRC-01157]。これとは別に、ミシシッピ州の歴史解説は「世界で5億枚を超えるレコードを売り上げた」と記すが、この数値の算出方法・集計範囲はRIAAの認定数値とは異なり、本サイトは両者を区別して示す[SRC-01152]。「史上最も売れたソロ・アーティスト」といった最上級の評価について、本サイトはこれらの数値のみを根拠とした断定を行わない。集計方法や算出時点によって順位が入れ替わりうるためである(本サイトの編集方針)。

少年期の音楽コンテストでの順位についても、資料間で小さな食い違いがある。ミシシッピ州の歴史解説は、伝記作家ピーター・グラルニックの記述を引いて「5位入賞」と記すのに対し、ミシシッピ百科事典は「2位」と記す[SRC-01152][SRC-01153]。いずれも「10歳のとき」「ミシシッピ・アラバマ・フェア」「老犬の死を歌う歌を椅子に立って歌った」という点では一致しており同一の出来事を指すと考えられるが、順位そのものについては出典間で記述が割れている。

論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
黒人音楽からの影響摂取の評価 当時の黒人コミュニティは、黒人音楽への敬意ある称賛としてプレスリーを歓迎した面がある [SRC-01156] アメリカ研究者ブライアン・ワード氏の分析。同時代の黒人系新聞・雑誌の記述、ジェームズ・ブラウン、リトル・リチャードらの発言に基づく
黒人音楽からの影響摂取の評価 プレスリーは黒人音楽家の才能から不当に利益を得た存在であり、黒人ロックンロール歌手のカバー現象による経済的不利益の一因になったとする評価がある [SRC-01156] 死去後のシカゴ・ディフェンダーの論評、1989年のパブリック・エナミーの楽曲に代表される通念
黒人音楽からの影響摂取の評価(総括) 両者は同時に成立し得る見方であり、単純な二項対立ではない。彼の功績をめぐる合意は現在も成立していない [SRC-01153][SRC-01156] ミシシッピ百科事典(歴史学者マイケル・T・バートランド氏)・ブライアン・ワード氏
米国内認定売上とされる数値 RIAA認定で1億4650万ユニット超(2018年3月時点) [SRC-01157] 全米レコード協会(RIAA)自身の公式発表
世界的な売上推計とされる数値 「5億枚を超える」とする資料がある [SRC-01152] ミシシッピ州文書歴史局の歴史解説(算出方法は非明示)
少年期コンテストの順位 5位入賞 [SRC-01152] 伝記作家ピーター・グラルニックの記述(ミシシッピ州文書歴史局経由)
少年期コンテストの順位 2位 [SRC-01153] ミシシッピ百科事典(出典の明記なし)

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

ロックの殿堂は、エルヴィスの音楽を「ブルース・カントリー・ゴスペル等ルーツ音楽の革命的融合」であり「世界のポピュラー音楽の風景を変えた」と位置づけ、ジョン・レノンの発言として「エルヴィスがいなければビートルズもいなかった」を引く[SRC-01154]。ブリタニカも、1956年から1958年にかけて彼がポップ・チャートを完全に席巻し、「白人・黒人双方のロック・アーティストに道を開いた」と記す[SRC-01155]。一方で、その影響摂取の過程をどう評価するかは、上記「異説・論争」のとおり同時代から現在まで意見の一致がない[SRC-01153][SRC-01156]。

興味深いことに、エルヴィスは生涯で14回のグラミー賞ノミネートを受けたが、実際に受賞した3回はいずれもゴスペル系の部門(最優秀宗教的パフォーマンス/最優秀インスピレーショナル・パフォーマンス)だった[SRC-01159]。「ロックンロールの王」という公のイメージの外側で、彼自身が公式に評価された音楽的達成が、幼少期にタペロとメンフィスの教会で触れたゴスペルの延長線上にあったことは、彼の音楽的出自と受け取られ方のずれを示す一例として、本サイトは位置づける(本サイトの整理)。

現代の視点

本記事の射程は、1935年1月8日前後の出来事(誕生、家族の状況、幼少期・少年期の音楽的環境の形成、1954年の最初の録音)と、それに伴う黒人音楽からの影響摂取をめぐる同時代・後世の評価の紹介にとどめる。エルヴィスの晩年・死因、および軍役・映画俳優としての経歴等は、誕生日記事である本記事の主題外として扱わない(本サイトの整理)。黒人音楽への影響摂取という論点は、あくまで歴史学・音楽史研究の範囲での帰属形による紹介にとどめ、現代の人種問題をめぐる政治的な論争へ接続することは行わない(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-01152] Elvis Presley: The Early Years/Mississippi History Now(ミシシッピ州文書歴史局 Mississippi Department of Archives and History 運営)(ランクA)
  2. [SRC-01153] Presley, Elvis/Mississippi Encyclopedia(Center for Study of Southern Culture, University of Mississippi 発行/Mississippi Humanities Council 運営)(ランクA)
  3. [SRC-01154] Elvis Presley | Rock & Roll Hall of Fame/Rock & Roll Hall of Fame and Museum(ランクA)
  4. [SRC-01155] Elvis Presley | Songs, Death, House, Movies, Daughter, Wife, Born, & Facts/Encyclopaedia Britannica(ランクB)
  5. [SRC-01156] Champion or copycat? Elvis Presley's ambiguous relationship with black America/The Conversation(ランクB)
  6. [SRC-01157] ELVIS PRESLEY'S RIAA CERTIFIED ALBUM SALES MORE THAN 146.5 MILLION UNITS/RIAA(全米レコード協会 Recording Industry Association of America)(ランクB)
  7. [SRC-01158] Sun Records Sessions--Elvis Presley (1954-1955)/米国議会図書館(Library of Congress)National Recording Preservation Board / National Recording Registry(ランクA)
  8. [SRC-01159] Remembering Elvis Presley: 5 GRAMMY Facts/The Recording Academy(GRAMMY.com)(ランクB)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-15あり
22026-09-15あり
32026-09-15あり

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