ラ・イゲラの小さな校舎で、革命家チェ・ゲバラが銃殺された
日付と暦
- 原典表記
- 1967年10月9日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1967-10-09(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 10月9日のページ
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概要
1967年10月9日、ボリビア・ヴァジェグランデ近郊の山村ラ・イゲラで、革命家チェ・ゲバラが銃殺により処刑された[SRC-00459]。前日の10月8日、ゲバラはケブラダ・デル・ユロでの戦闘で脚を負傷し、ボリビア軍に捕らえられていた[SRC-00459]。捕虜となったゲバラは同夜、ラ・イゲラの一室しかない校舎に収容され、翌9日、ボリビア軍の手で銃殺により処刑された[SRC-00459]。処刑はボリビア軍上級司令部の命令によるものだったとされる[SRC-00459]。現場には米CIA職員フェリックス・ロドリゲスが立ち会っていた[SRC-00459]。
本文
ゲバラは1966年秋(9月第2週〜11月上旬の間とされる)にボリビアへ潜入し[SRC-00459]、日本大百科全書(ニッポニカ)によれば同年からゲリラ戦を指導していた[SRC-00458]。67年10月8日午後1時30分、ケブラダ・デル・ユロでゲバラらのゲリラ部隊とボリビア軍が交戦し、ゲバラは脚を複数箇所撃たれて負傷し、午後3時30分ごろ捕らえられた[SRC-00459]。この部隊は、その年6〜9月に米グリーンベレーの訓練を受けたボリビア軍第2レンジャー大隊だった[SRC-00459]。ゲバラは同日夜、毛布に乗せられて4人の兵士に運ばれ、ラ・イゲラの一室しかない校舎に収容された[SRC-00459]。
翌9日午前6時15分、CIA職員フェリックス・ロドリゲスがコロネル・ゼンテノとともにヘリコプターでラ・イゲラに到着した[SRC-00459]。ロドリゲスはゲバラの日記など押収文書を撮影し、のちにゲバラと言葉を交わし、ともに写真に写った[SRC-00459]。同日午前10時ごろ、ボリビア軍上級司令部はゲバラの即時処刑を決定したとされる[SRC-00459]。ロドリゲスは米政府がゲバラの生存を望んでいることをゼンテノに伝えたが、ゼンテノは自軍の命令に従うと答えたという[SRC-00459]。ボリビア軍の下士官がゲバラを射殺したが、時刻は記録により異なる(正午前・午後1時10分など。異説欄参照)[SRC-00459]。死亡診断書は、10月9日午後5時30分にエルネスト・ゲバラ・リンチの遺体が搬入されたと記録し、死因を胸部・四肢の複数の銃弾による傷とする[SRC-00459]。
10月8日、一部の軍発表はゲバラが戦闘で死亡したと伝えたが、上級司令部はこれを確認しなかった[SRC-00459]。オバンド参謀総長は10日、ゲバラは前日(9日)午後1時30分に死亡したと発表した[SRC-00459]。遺体は10月14日、切断・保存された両手の指紋によって本人と確認された[SRC-00459]。ボリビア国軍は16日、公式コミュニケで改めてゲバラが8日夜(午後8時ごろ)の戦闘による傷で死亡したとする説明を発表し、10日の発表と食い違った[SRC-00459]。
歴史的背景
ゲバラはキューバ革命(1959年)でカストロとともに戦い、革命後は国立銀行総裁・工業相を務めたと日本大百科全書(ニッポニカ)は記す[SRC-00458]。1965年にキューバを離れ、66年にボリビアへ入り、ラテン・アメリカ革命という壮大な事業の実践に着手したと改訂新版世界大百科事典は記す[SRC-00458]。ボリビア政府軍は米国の軍事援助を受けてゲリラ鎮圧にあたっており、ゲバラを捕らえた第2レンジャー大隊は米グリーンベレーの訓練を受けていた[SRC-00459]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1966年秋(9月第2週〜11月上旬の間とされる、グレゴリオ暦) | ゲバラ、ボリビアへ潜入 | [SRC-00459] |
| 1967年10月8日(グレゴリオ暦) | ケブラダ・デル・ユロでの戦闘で負傷し、ボリビア軍に捕らえられる | [SRC-00459] |
| 1967年10月8日夜(グレゴリオ暦) | ラ・イゲラの校舎に収容される | [SRC-00459] |
| 1967年10月9日午前(グレゴリオ暦) | CIA職員ロドリゲスがラ・イゲラに到着。上級司令部が処刑を決定したとされる | [SRC-00459] |
| 1967年10月9日(グレゴリオ暦) | ボリビア軍の手で銃殺により処刑される(時刻は記録により異なる。異説欄参照) | [SRC-00459] |
| 1967年10月14日(グレゴリオ暦) | 切断・保存された両手の指紋により本人と確認される | [SRC-00459] |
| 1997年7月13日(グレゴリオ暦) | ヴァジェグランデ近郊で発見された遺骨がキューバへ返還されたとされる | [SRC-00459] |
| 1997年10月17日(グレゴリオ暦) | サンタクララで再埋葬されたとされる | [SRC-00459] |
暦の注記: 上表の日付はいずれもグレゴリオ暦(本記事が扱う出来事はすべて1967年および1997年のグレゴリオ暦の範囲内にあり、改暦境界〔1582年10月・明治5年〕には該当しない)。
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
死亡の日付・時刻そのものについては、ボリビア軍が当初発表した公式説明・記録間で明確な食い違いがある。ゲバラの処刑をめぐる命令系統についても、記述の粒度に注意が必要な点がある。同一Source内(NSA編纂クロノロジー・コトバンク収載事典)で記述が割れている箇所もあった。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 死亡の経緯(戦闘死か処刑か) | 1967年10月8日夜(午後8時ごろ)、戦闘による負傷で死亡(ボリビア国軍が10月16日に発表した公式コミュニケの説明) | [SRC-00459] | この公式説明の起源は、9日午前10時ごろの処刑決定と同じ場で「戦闘による負傷で死亡したという説明を公式の話とすることが合意された」("it is agreed upon that the official story will be that he died from wounds received in battle")とする記録にある[SRC-00459]。在ラ・パス米大使館員は、この公式説明が死亡診断書・検死報告書のいずれにも死亡時刻の記載がないことを指摘し、これは「戦闘中またはその直後に死亡したとする説と、24時間以上生存していたことを示唆する説という、軍発表内の相反する複数の見解の隔たりを埋めようとする試み」("an attempt to bridge the difference between a series of earlier divergent statements from Armed Forces sources, ranging from assertions that he died during or shortly after battle to those suggesting he survived at least twenty-four hours")に見えると評した。オバンド参謀総長自身の10月10日発表・死亡診断書の日付(いずれも10月9日)と食い違う |
| 同上 | 1967年10月8日に捕らえられ、10月9日に処刑された(オバンド参謀総長の10月10日発表、死亡診断書・検死報告書、ロストウ大統領補佐官の大統領向けメモに基づく) | [SRC-00459] | 現在の記録において広く採用されている経緯。本記事もこの説に立つ |
| 処刑の時刻 | 正午前(Harrisの記述に基づく) | [SRC-00459] | NSA編纂クロノロジーは同一ページ内に複数の時刻記述を残す。ロドリゲス自身は現地時間午後1時10分としており(Rodríguez:2)、国防総省情報報告(1967年11月28日付)は早朝に処刑命令を受領したと記す。オバンド参謀総長の発表(10月10日)は死亡時刻を前日午後1時30分とする。本記事は複数系統の記録が併存することを踏まえ、本文・タイムラインで時刻を断定せず「時刻は記録により異なる」と示す |
| 処刑の命令系統 | ボリビア軍上級司令部(オバンド参謀総長を含む)の命令で処刑が実行された。現場のCIA職員ロドリゲスは米政府の意向(生存させたい)をボリビア側に伝えたが、ボリビア側は自軍の命令に従った。1975年のCIAによる聴取記録によれば、ロドリゲス自身がこの処刑命令を高司令部から現場の兵士へ伝達し、傷が戦闘によるものに見えるよう顔を撃たないよう指示したとされる(ロドリゲス自身の回想・ロストウの大統領向けメモ・1975年CIA聴取記録に基づく) | [SRC-00459] | NSAの冒頭要約文は「米グリーンベレーとCIA工作員に訓練・装備・指導されたボリビア軍兵士の手で死に至らしめられた」("put to death by Bolivian soldiers, trained, equipped and guided by U.S. Green Beret and CIA operatives")と記す。この一文はゲバラ追跡作戦全体への米側の関与を要約したものであり、処刑実行の命令主体を直接特定するものではない。クロノロジー本体の個別記述(命令はボリビア側から発せられ、ロドリゲスはこれに従った)と、1975年のCIA聴取記録(ロドリゲスが命令を伝達し射撃箇所を指示した)とをあわせて読む必要がある(本サイトの整理) |
| 事典の記述の粒度 | 「ボリビアで戦死」(旺文社世界史事典三訂版) | [SRC-00458] | 同一コトバンクページに収載される事典のうち5事典(日本大百科全書・改訂新版世界大百科事典・ブリタニカ国際大百科事典小項目事典・山川世界史小辞典改訂新版・世界大百科事典〔旧版〕)は「捕らえられ射殺された」「捕えられたのち銃殺された」等、捕縛と処刑という経過を明示する。精選版日本国語大辞典は捕縛に触れず「射殺された」とのみ記し、百科事典マイペディアは「ゲリラ活動中殺害された」と捕縛・処刑いずれにも触れない。旺文社世界史事典三訂版は「戦死」という、経過をもっとも記さない表現にとどまる |
関連する出来事
- 1967年10月14日、アルゼンチン警察当局が、遺体から切断・保存されたゲバラの両手の指紋を本人の身分証明記録の指紋と照合し、一致を確認した[SRC-00459]。
- 1997年7月、ボリビア・ヴァジェグランデ近郊で発見された遺骨のうち両手を欠く1体について、発掘・最終同定はまだであったが、専門家2名がゲバラのものと「100パーセント確実」("100 percent sure")と述べた[SRC-00459]。同年7月13日にキューバへ返還され、10月17日にサンタクララで再埋葬されたとされる[SRC-00459]。
関連人物
- チェ・ゲバラ(Ernesto "Che" Guevara、ちぇ・げばら): アルゼンチン出身の革命家。キューバ革命に参加したのち、1966年にボリビアへ入りゲリラ戦を指導し、1967年10月9日に処刑された[SRC-00459]。
- フェリックス・ロドリゲス(Félix Rodríguez、ふぇりっくす・ろどりげす): 米CIA職員。1967年10月9日朝ラ・イゲラに到着し、押収文書を撮影しゲバラと言葉を交わした。1975年のCIAによる聴取記録によれば、ボリビア高司令部からの処刑命令を現場の兵士へ伝達し、傷が戦闘によるものに見えるよう顔を撃たないよう指示したのもロドリゲスだったとされる[SRC-00459]。
歴史的意義
カストロは1967年10月18日、ハバナでの追悼演説で、ゲバラが生涯を通じて続けた帝国主義との闘いとその理想は将来の世代の革命家たちのインスピレーションであり続けるだろうと述べ、その生涯を「輝かしい歴史の一頁」("a 'glorious page of history'")と呼んだ[SRC-00459]。理由として、卓越した軍事的功績と、ゲリラ戦の「芸術家」と評される資質の比類なき組み合わせ("because of his extraordinary military accomplishments, and his unequaled combination of virtues which made him an 'artist in guerrilla warfare.'")を挙げた[SRC-00459]。百科事典マイペディアは、ゲバラを「中南米革命運動のシンボルとされる」と記す[SRC-00458]。
現代の視点
1997年、ヴァジェグランデ近郊で発見された遺骨は専門家によってゲバラのものとされ、キューバへ返還・再埋葬されたとされる[SRC-00459]。処刑から30年を経てなお、ゲバラのボリビアへのゲリラ潜入・捕縛・処刑・埋葬をめぐる経緯は世界的な関心と議論の対象であり続けていると、機密解除文書を編纂したNational Security Archiveは記す[SRC-00459]。
出典一覧
- [SRC-00458] ゲバラ/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING運営、複数辞典を収載するアグリゲータ)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-00459] The Death of Che Guevara: Declassified (National Security Archive Electronic Briefing Book No. 5)/National Security Archive(ジョージ・ワシントン大学キューバ文書化プロジェクト、編者Peter Kornbluh)(ランクB)(複数の資料を収載)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-03 | — |
| 2 | 2026-09-03 | あり |
| 3 | 2026-09-03 | あり |
| 4 | 2026-09-03 | 不明 |
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