ソ連の技術者たちは、100メガトンの水爆の威力を、あえて半分に抑えた

日付と暦

原典表記
1961年10月30日(グレゴリオ暦)
換算
1961-10-30(グレゴリオ暦)
掲載日
10月30日のページ

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概要

1961年10月30日、ソ連はノヴァヤゼムリャ島上空で水素爆弾「ツァーリ・ボンバ」(正式名称RDS-220)を投下・爆発させた[SRC-00595][SRC-00596]。この爆弾は設計上100メガトンの威力を想定していたが、投下時は放射性降下物(死の灰)を抑えるため威力を約半分に低減された[SRC-00595][SRC-00596]。核史研究者アレックス・ウェラースタインによれば、これは核分裂ステージの原料であるウラン238を鉛に置き換える設計変更によって実現されたとされる[SRC-00596]。CTBTO(包括的核実験禁止条約機関)は、これを「the largest nuclear weapon ever constructed」(かつて造られたなかで最大の核兵器)と位置づける[SRC-00595]。もっとも、その威力そのものについては、ソ連が内部的に最終的に結論づけたとみられる50メガトンという値と、米国が当初発表した57〜58メガトンという値との間に幅があり、資料によって書き方が異なる[SRC-00596]。

本文

投下したのはTu-95V爆撃機で、爆発の熱放射から機体を守るため白い反射塗料が塗られていた[SRC-00595][SRC-00596]。爆弾には大型のパラシュートが取り付けられ、投下後に開いて落下速度を落とすことで、機体が安全な距離まで退避する時間を稼ぐ設計になっていた[SRC-00595][SRC-00596]。CTBTOは、操縦したパイロット、アンドレイ・ドゥルノフツェフとその乗員の生還確率は50%と見積もられていたと記す[SRC-00595]。爆発の衝撃波で機体は一瞬で高度を1キロメートル失ったが、無事に着陸したという[SRC-00595]。

核史研究者アレックス・ウェラースタインによれば、この威力低減はソ連の物理学者アンドレイ・サハロフによる設計変更だった[SRC-00596]。通常の水爆設計では、核分裂と核融合を組み合わせた最終段階で、非核分裂性のウラン238が中性子を受けて核分裂を起こすことで全体の威力の半分以上を生み出すという[SRC-00596]。ウェラースタインは「Replacing the uranium 238 with an inert substance, in this case lead, would make the weapon half as powerful (50 megatons), and it would release far less fallout in the form of fission products.」(ウラン238を不活性な物質、この場合は鉛に置き換えることで、爆弾の威力は半分〔50メガトン〕になり、核分裂生成物という形で放出される放射性降下物もはるかに少なくなる)と記す[SRC-00596]。サハロフは1958年の時点で、いわゆる「クリーン」("clean")な核兵器であっても、1メガトンあたり将来8,000年間に地球全体で約6,600人の早期死亡につながるという試算を示しており、100メガトンをそのまま爆発させれば約66万人分に相当すると自ら見積もっていたとされる[SRC-00596]。ウェラースタインは、核分裂による寄与がわずか3%にとどまっていたこの爆弾も、なお核分裂生成物を2メガトン弱放出しており、それでも全体の威力に対する核分裂の割合で見れば「one of the cleanest nuclear weapons ever tested」(かつて実験されたなかでもっとも『清浄』な核兵器の一つ)になったと評する[SRC-00596]。

爆発の威力について、CTBTOは「The Soviet 'Tsar Bomba' had a yield of 50 Megatons」(ソ連の『ツァーリ・ボンバ』の威力は50メガトンだった)と記す[SRC-00595]。一方、ウェラースタインは、米国が当初「the yield was potentially as high as 57 or 58 megatons」(威力は57ないし58メガトンに達した可能性がある)と発表し、ソ連もこの高い推定値を一時公に受け入れたが、ソ連は内部的には最終的に「'just' 50 megatons」(『たった』50メガトン)と結論づけたとみられると記す[SRC-00596]。ウェラースタインはさらに、米中央情報局(CIA)が内部的には最大63メガトンの可能性があるとも見積もっていたが、これは「likely just a reflection of threat hype」(脅威を誇張する動機の反映に過ぎない可能性が高い)とし、ソ連崩壊後にこうした不正確な推定値を維持する動機が消えた、というキャリー・サブレットの見解を引いている[SRC-00596]。

歴史的背景

ソ連と米国は1958年末に核実験の一時停止(モラトリアム)に合意していたが[SRC-00596]、CTBTOによれば1961年9月1日、この約3年続いたモラトリアムが破られた[SRC-00595]。ウェラースタインによれば、同年7月10日にはフルシチョフがアルザマス16の科学者たちをクレムリンに呼び、その秋に実験を再開する計画を伝えた[SRC-00596]。サハロフはこの場でこれ以上の実験は不要だと述べたが、フルシチョフは「Sakharov, don't try to tell us what to do or how to behave. We understand politics.(後略)」(サハロフ、我々に何をすべきか、どう振る舞うべきかを指図しようとするな。政治のことは我々が分かっている〔後略〕)と気色ばんだという[SRC-00596]。

ウェラースタインによれば、フルシチョフは1961年10月17日、ソ連共産党第22回大会の演説で、この核実験の実施を公にした[SRC-00596]。ウェラースタインが引用する演説記録によれば、フルシチョフは「We shall evidently round out the tests by exploding a hydrogen bomb equivalent to 50 million tons of TNT. ... We have said that we have a bomb as powerful as 100 million tons of TNT. And we have it, too. But we are not going to explode it, because, even if exploded in the remotest of places, we are likely to break our own windows.」(我々はTNT5,000万トン相当の水爆を爆発させることで実験を締めくくることになるだろう。……我々にはTNT1億トン相当の爆弾もあると述べたが、それも事実である。しかし、それを爆発させるつもりはない。どれほど遠隔の場所であっても、自分たちの窓ガラスを割ってしまいかねないからだ)と述べた[SRC-00596]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1961年7月10日(グレゴリオ暦) フルシチョフ、アルザマス16の科学者に実験再開の計画を伝える [SRC-00596]
1961年9月1日(グレゴリオ暦) 核実験モラトリアムが破られる [SRC-00595]
1961年10月17日(グレゴリオ暦) フルシチョフ、ソ連共産党第22回大会演説で実験の実施を公表 [SRC-00596]
1961年10月30日(グレゴリオ暦) 「ツァーリ・ボンバ」、ノヴァヤゼムリャ上空で投下・爆発 [SRC-00595][SRC-00596]

※ 1961年10月17日の演説公表は、SRC-00596(ウェラースタインが引用する演説記録)のみが伝える単一系統の記述である。

暦の注記: 上表の日付はいずれもグレゴリオ暦であり、1961年の本事象に暦種別の複雑さ(改暦境界等)は生じない。

異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)

「ツァーリ・ボンバ」の爆発威力そのものについて、資料の間で数値に幅がある。CTBTOは威力を50メガトンと記す[SRC-00595]。核史研究者ウェラースタインも、ソ連は内部的には最終的に「たった」50メガトンだったと結論づけたとみられると記す一方[SRC-00596]、米国は当初、威力が57〜58メガトンに達した可能性があると発表し、ソ連も一時この高い推定値を公に受け入れていたと記す[SRC-00596]。ウェラースタインは、CIAが内部的には最大63メガトンの可能性があるとも見積もっていたことも記したうえで、50メガトンと63メガトンの差は、爆発威力に応じて被害の規模が変化する性質のために、数値の印象ほど大きな意味を持たないと述べ、ソ連崩壊後にはこうした高めの推定値を維持する政治的な動機自体が失われた、とするキャリー・サブレットの見解を引用している[SRC-00596]。

論点 根拠・出典 学界での位置づけ
ツァーリ・ボンバの爆発威力は何メガトンか 50メガトン(CTBTOが記す値。ウェラースタインはソ連が内部的にこの値で結論づけたとみられるとする) [SRC-00595][SRC-00596] CTBTOは威力の値として記し、ウェラースタインはソ連の内部的な結論(とみられるもの)として記す — 両者は性質の異なる記述であり単純な一致ではない
同上 57〜58メガトン(米国が当初発表した推定値。ソ連も一時公に受け入れた) [SRC-00596] ウェラースタインによれば、政治的な思惑(脅威の誇張)が推定値の高低に影響した可能性があるとされる

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

CTBTOによれば、「ツァーリ・ボンバ」は重量27トン・8メートルという規模と、その巨大な威力ゆえに軍事的な実用性は限られており、弾道ミサイルでの運搬もできなかったため、実戦配備されることなく一度限りの示威に終わった[SRC-00595]。ウェラースタインは、この実験を「a parable about political posturing and technical enablement」(政治的な虚勢と技術的な実現可能性についての寓話)と評し、「Tsar Bomba has an ambiguous legacy」(ツァーリ・ボンバの遺産は両義的である)と述べている[SRC-00596]。ソ連の設計者の一部が主張するように部分的核実験禁止条約への道を開いたと見る余地がある一方で、高威力兵器への固執がむしろ同条約への障害にもなったと、両面から評価している[SRC-00596]。

現代の視点

実戦配備されることのなかった兵器のために、技術者たちは威力を半分に抑えるという設計変更を行った[SRC-00595][SRC-00596]。ウェラースタインは、この実験の背後にある力学は現代にも通じるものであり、核兵器や運搬手段をめぐる競争において、ナショナリズムと恐怖と高度技術がいかに組み合わさりうるかを示す例だと述べている[SRC-00596]。

出典一覧

  1. [SRC-00595] 30 October 1961 - The Tsar Bomba/CTBTO Preparatory Commission(包括的核実験禁止条約機関準備委員会)(ランクA)
  2. [SRC-00596] An unearthly spectacle: The untold story of the world's biggest nuclear bomb/Bulletin of the Atomic Scientists(ランクA)(複数の資料を収載)

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訂正履歴

日付事実主張への変更
12026-09-04あり
22026-09-04あり
32026-09-04あり

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