1918年11月11日午前11時、西部戦線の砲声が止んだ
日付と暦
- 原典表記
- 1918年11月11日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1918-11-11(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 11月11日のページ
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概要
1918年11月11日午前5時ごろ、フランス・コンピエーニュの森に停めた鉄道客車の中で、連合国軍最高司令官フェルディナン・フォッシュに率いられた連合国側と、ドイツ代表団が休戦協定に署名した[SRC-00627][SRC-00628]。米国立第一次世界大戦博物館・記念館の記録によれば、フォッシュは連合軍指揮官に対し、戦闘を同日午前11時をもって全戦線で停止するよう命じ、その命令を「戦闘は11月11日〔フランス時間〕11時をもって全戦線で停止される」["Hostilities will be stopped on the entire front beginning at 11 o'clock, November 11th (French hour)."]という一文で伝えたという[SRC-00628]。西部戦線の砲声は、同日午前11時に止んだ[SRC-00627][SRC-00628][SRC-00631]。もっとも、これはドイツとの休戦にとどまる。ドイツの主要な同盟国では、ブルガリア・オスマン帝国・オーストリア=ハンガリーがそれぞれ先立って個別に休戦しており、戦争を法的に終わらせる講和条約(ヴェルサイユ条約)の締結は、なお7か月半先の1919年6月28日を待たねばならなかった[SRC-00627][SRC-00629][SRC-00631]。
本文
ドイツの講和代表団は1918年11月7日夜、自動車の車列で前線を越え、戦火に荒廃した北フランスの地域を護送された[SRC-00631]。日の出前に列車へ乗り換え、向かった先はパリ北東、コンピエーニュの森にある秘密の会合場所だった[SRC-00631]。交渉自体は休戦の一週間ほど前から始まっており、代表団到着後の3日間、ドイツ側は譲歩を引き出そうとしたが、英仏の上級指揮官は方針を譲らなかった[SRC-00631]。翌11月10日、ドイツ新政府の代表と連合国側の代表が、フォッシュの客車の中で条件を協議した[SRC-00627]。連合国軍最高司令官フォッシュに率いられた連合国側は、ウィルソン米大統領の十四か条をほぼ無視した条件を提示し、交渉の余地をほとんど残さなかった[SRC-00628]。
その日〔11月10日〕、ドイツ側は皇帝退位の報と、新政府からの休戦署名指示を受け取った[SRC-00628]。そして11月11日午前5時ごろ、休戦協定への合意が成立した[SRC-00627][SRC-00628]。米国立第一次世界大戦博物館・記念館の記録によれば、フォッシュは連合軍指揮官に対し、「戦闘は11月11日〔フランス時間〕11時をもって全戦線で停止される。連合軍部隊は、追って命令があるまで、その日時に到達した線を越えて進んではならない」["Hostilities will be stopped on the entire front beginning at 11 o'clock, November 11th (French hour). The Allied troops will not go beyond the line reached at that hour on that date until further orders."]と命じたという[SRC-00628]。西部戦線の砲声は、同日午前11時に止んだ[SRC-00627][SRC-00628][SRC-00631]。
歴史的背景
1918年秋、ドイツ軍は崩壊寸前にあり、ドイツ政府は戦争が敗北に終わったと悟り、10月4日にウィルソン米大統領へ連合国側との停戦仲介を要請していた[SRC-00627]。だが事態は要請以上の速さで動いた。数週間のうちにドイツ国内で武装革命が起き政府は崩壊し、皇帝ヴィルヘルム2世は退位した(退位の日付は出典間で11月9日・10日の両説がある。異説・論争欄参照)[SRC-00627][SRC-00629][SRC-00631]。11月9日には社会主義共和国が宣言された[SRC-00627]。
もっとも、この時点でドイツの主要な同盟国はすでに脱落していた[SRC-00629][SRC-00631]。オーストラリア戦争記念館の記録によれば、ブルガリアが1918年9月29日、オスマン帝国が同年10月30日、オーストリア=ハンガリーが同年11月3日に、それぞれ連合国側と個別の休戦協定を結んでいた[SRC-00631]。11月11日の休戦は、あくまでドイツとの間のものである[SRC-00628][SRC-00629][SRC-00631]。本サイトがこの出来事を「第一次世界大戦の休戦」と呼ぶとき、指しているのは、この一連の休戦のうち最後にあたり、西部戦線の戦闘を止めたこの一件である(本サイトの整理)。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1918年9月29日(グレゴリオ暦) | ブルガリア、連合国と休戦協定に署名 | [SRC-00631] |
| 1918年10月30日(グレゴリオ暦) | オスマン帝国、連合国と休戦協定に署名 | [SRC-00631] |
| 1918年11月3日(グレゴリオ暦) | オーストリア=ハンガリー、連合国と休戦協定に署名 | [SRC-00631] |
| 1918年11月7日(グレゴリオ暦) | ドイツ講和代表団、前線を越えてコンピエーニュへ向かう | [SRC-00631] |
| 1918年11月9日(グレゴリオ暦) | ドイツで社会主義共和国が宣言される | [SRC-00627] |
| 1918年11月10日(グレゴリオ暦) | 連合国・ドイツ双方の代表、コンピエーニュの鉄道客車で休戦条件を協議 | [SRC-00627] |
| 1918年11月11日午前5時ごろ(グレゴリオ暦) | ドイツ代表団が休戦協定に署名(豪戦争記念館は5時10分と記録) | [SRC-00627][SRC-00628][SRC-00631] |
| 1918年11月11日午前11時(グレゴリオ暦) | 休戦発効。西部戦線の砲声が止む | [SRC-00627][SRC-00628][SRC-00631] |
| 1919年6月28日(グレゴリオ暦) | ヴェルサイユ条約(対独講和条約)調印 | [SRC-00627][SRC-00629] |
個別休戦の日付についての注記: 上表のブルガリア(9月29日)・オスマン帝国(10月30日)・オーストリア=ハンガリー(11月3日)の休戦日付は、オーストラリア戦争記念館の記録による(他の出典はこれらの日付を個別に記録していない)。
暦の注記: 上表の日付はいずれもグレゴリオ暦であり、本事象に改暦境界等の複雑さは生じない。
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 休戦協定の署名時刻 | 午前5時ごろ | [SRC-00627][SRC-00628] | 英国立戦争博物館・米国立第一次世界大戦博物館という独立2系統が一致して記す |
| 同上 | 午前5時10分 | [SRC-00631] | オーストラリア戦争記念館の記述。分単位の違いであり、実質的な対立というより記録粒度の差とみられる(本サイトの整理) |
| 皇帝ヴィルヘルム2世の退位の日付 | 11月9日 | [SRC-00629] | フランス外務省外交史料局の記述。米国立第一次世界大戦博物館・記念館も「11月10日、ドイツ側は皇帝退位の報を受け取った」と記しており、退位そのものはそれ以前とする9日説と整合的である[SRC-00628] |
| 同上 | 11月10日 | [SRC-00631] | オーストラリア戦争記念館の記述。退位の公表・皇帝本人のオランダ亡命など、複数の出来事が重なった時期にあたり、出典によりどの局面を「退位」と記すかが割れているとみられる(本サイトの整理) |
| 「休戦」と「戦争の終結」の混同 | 11月11日は、しばしば戦争そのものが終わった日として語られる | (本サイトの整理)。実例として、米国立公文書記録管理院は「第一次世界大戦は終わった」["World War I came to an end"]と記す一方、米国立第一次世界大戦博物館は休戦を「戦争を終わらせる第一歩」["the first step to ending World War I"]と位置づけており、本記事が参照する出典の間でも記述が割れている[SRC-00628][SRC-00630] | 軍事的な戦闘停止(休戦)と、戦争を法的に終わらせる講和条約の締結は別の行為である。対独講和条約(ヴェルサイユ条約)の締結は1919年6月28日であり、休戦から7か月半後にあたる[SRC-00627][SRC-00629] |
関連する出来事
- パリ講和会議は1919年1月18日、ケ・ドルセーでのフランス外交の表舞台への登場とともに始まり、ヴェルサイユ条約(対独、1919年6月28日)のほか、サン=ジェルマン条約(対オーストリア、1919年9月10日)・ヌイイ条約(対ブルガリア、1919年11月27日)・トリアノン条約(対ハンガリー)・セーヴル条約(対オスマン帝国、1920年8月10日、1923年ローザンヌで改定)という一連の講和条約に結実した[SRC-00629]。
- 休戦は当初36日間の期限付きの停戦だったが、戦闘が再開されることはなかった[SRC-00627]。
関連人物
- フェルディナン・フォッシュ: フランスの軍人。1918年、連合国軍最高司令官として西部戦線の連合軍を統括し、休戦協定の締結交渉で連合国側代表団を率いた[SRC-00627][SRC-00628][SRC-00629]。
歴史的意義
西部戦線の戦闘は、この休戦によって現実に止んだ[SRC-00627][SRC-00628][SRC-00631]。もっとも、休戦発効までのわずかな時間になお交戦が生じた地点もあり、オーストラリア戦争記念館は、発効2分前の午前10時58分、退却するドイツ軍が放った最後の一発がカナダ派遣軍の兵士に命中し死亡させたと伝える[SRC-00631]。戦争を法的に終わらせる講和条約(ヴェルサイユ条約)はこの7か月半後に結ばれ、ドイツは陸軍の大幅な削減、海軍・空軍の連合国への接収、アルザス=ロレーヌ地方をはじめとする領土の喪失といった条件を課された[SRC-00627]。ヴェルサイユ条約の調印からわずか20年後の1939年、ドイツはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まった[SRC-00627]。
現代の視点
米国では、この休戦を記念する「アーミスティス・デー」が1919年、ウィルソン大統領の教書とともに祝われ始め、連邦議会はこれを「世界平和の大義に捧げられ」["dedicated to the cause of world peace"]る祝日として定めたという[SRC-00630]。1947年、第二次大戦の海軍退役軍人レイモンド・ウィークスが、第一次大戦の従軍者に限らずすべての退役軍人を祝う祭典をアラバマ州バーミンガムで主催したことをきっかけに改称の機運が高まった[SRC-00630]。1954年5月26日、アイゼンハワー大統領はこれをすべての退役軍人を記念する祝日とする法律に署名し、数日後の6月1日、連邦議会が祝日の正式名称を「アーミスティス・デー」から「ベテランズ・デー」へ改めたという[SRC-00630]。米国立公文書記録管理院は、この祝日が今も多くの国で「アーミスティス・デー」という国民の祝日として続いていると記す[SRC-00630]。休戦を記念する呼び名が国・時代によって割れていること自体、この日が指すものが「戦争の終結」ではなく「戦闘の停止」であったことの反映と読める(本サイトの整理)。
出典一覧
- [SRC-00627] How We Made the Peace - World War 1 Armistice/Imperial War Museums(ランクA)
- [SRC-00628] Nov. 11, 1918/National WWI Museum and Memorial(ランクA)
- [SRC-00629] The Armistice of 11 November 1918 and the Quai d'Orsay/Ministère de l'Europe et des Affaires étrangères(フランス欧州・外務省)(ランクA)
- [SRC-00630] From Armistice to Veterans Day/U.S. National Archives and Records Administration(米国立公文書記録管理院)(ランクA)
- [SRC-00631] The Armistice of 11 November 1918/Australian War Memorial(オーストラリア戦争記念館)(ランクA)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-04 | あり |
| 2 | 2026-09-04 | あり |
| 3 | 2026-09-04 | あり |
| 4 | 2026-09-04 | あり |
| 5 | 2026-09-04 | あり |
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