チェコスロバキア連邦議会は、共産主義体制下で選ばれた議員が大半を占めるまま、ハヴェルを大統領に満場一致で選出した——ラジオ・プラハは「不条理劇のような選挙」と伝える

日付と暦

原典表記
1989年12月29日(グレゴリオ暦)
換算
1989-12-29(グレゴリオ暦)
掲載日
12月29日のページ

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概要

1989年12月29日、プラハ城のヴラディスラフ・ホールで開かれた連邦議会は、市民フォーラムの候補ヴァーツラフ・ハヴェルを、拍手による採決(アクラマツェ)で満場一致でチェコスロバキア社会主義共和国大統領に選出した[SRC-01075][SRC-01076]。人民院議員183名・国民院議員140名が挙手し[SRC-01076]、反対票・棄権はなかった[SRC-01075]。前日の12月28日には、共同選任(コオプタツェ)法により新たに任命された議員を含む連邦議会のもとで、「プラハの春」の指導者アレクサンドル・ドゥプチェクが議長になった[SRC-01074][SRC-01075]。ハヴェルの候補者擁立は12月8日に市民フォーラムが決定し、共産党側の抵抗を経て、連邦政府首班マリアン・チャルファが12月15日以降に議員説得へ動いたことで実現した[SRC-01074][SRC-01076]。ラジオ・プラハ・インターナショナルは、選出で投票した議員の93%が1986年の(革命前の)選挙で議席を得た者だったと記し、この選挙を「偉大な劇作家が書いた不条理劇のようだった」と評する[SRC-01075]。

本文

市民フォーラムの指導部でハヴェルの大統領候補擁立が真剣に語られ始めたのは、1989年12月5〜6日ごろだったとVHÚ Praha(プラハ軍事史研究所)は記す[SRC-01076]。同フォーラムは12月8日、ハヴェルを大統領候補とすることを決定した[SRC-01074]。折しも同じ12月10日、社会主義体制下の大統領グスターフ・フサークは、市民フォーラムと「公共は暴力に反対」(VPN)の代表を含む新連邦政府を任命したのち、連邦議会に自らの辞任を表明したとENRSは記す[SRC-01074]。同じ日、ハヴェルの候補者擁立も市民フォーラムにより正式に発表された[SRC-01076](なお、フサークの辞任日についてはVHÚ Prahaが異なる日付を記しており、その食い違いは異説・論争欄で扱う)。当初、対抗馬と目されたのは1968年の「プラハの春」改革運動の指導者ドゥプチェクだったが、市民フォーラムの多数派は、1968年の物議を醸した改革の試みとの象徴的な結びつきや、その後の「正常化」初期に自ら改革の残滓の破壊に加担した経緯を理由に、その擁立を拒んだとVHÚ Prahaは記す[SRC-01076]。ラジオ・プラハ・インターナショナルによれば、ハヴェル自身が選出から17年後の取材で、対立候補と見られていたドゥプチェクに立候補を諦めるよう自分が説得する役目を負ったと振り返っている[SRC-01075]。コロンビア大学「Havel at Columbia」は、12月16日にもハヴェルが国営テレビで「暫定的な実務型大統領」としてであれば指名を受け入れると重ねて表明し、ドゥプチェクとの対立を避けるための会談を持ったと記す[SRC-01078]。

共産党側はハヴェルの選出を阻止しようとし、大統領を連邦議会ではなく国民の直接投票で選出する方式への変更を推進し始めたとVHÚ Prahaは記す[SRC-01076]。共産党所属の連邦議会議員は12月13日、この国民投票法案を提出した[SRC-01076]。コロンビア大学「Havel at Columbia」は、この共産党側の動きが、プラハ以外では当時まだ広く知られていなかったハヴェルから大統領職を遠ざけるための策と広く受け止められ、議場の外には支持を叫ぶ群衆が集まったと記す[SRC-01077]。

連邦政府首班マリアン・チャルファが市民フォーラムに協力を申し出たのは12月15日になってからだった。政府庁舎でのハヴェルとの秘密会談で協力を申し出たチャルファは、抵抗していた連邦議会議員の説得に成功し、19日には政府としてハヴェルを大統領候補に推す政策表明を連邦議会で行ったとENRSは記す[SRC-01074]。VHÚ Prahaも、チャルファが12月15日になってようやく市民フォーラムに協力を申し出、議員を説得することに成功したと記す[SRC-01076]。12月28日、コオプタツェ法により連邦議会に23名の新議員が任命され、同日、ドゥプチェクが連邦議会議長になったとラジオ・プラハ・インターナショナルは記す[SRC-01075]。

翌12月29日午前、プラハ城の歴史的な大広間ヴラディスラフ・ホールで開かれた連邦議会は、ハヴェルを拍手による採決(アクラマツェ)で満場一致により大統領に選出したとVHÚ Prahaは記す[SRC-01076]。ハヴェルの選出のため、人民院議員183名と国民院議員140名が挙手した[SRC-01076]。ラジオ・プラハ・インターナショナルは、反対票も棄権もなかったこと、連邦議会定数350名のうち326名が出席したこと、そして投票した議員の93%が1986年の(革命前の)選挙で連邦議会議員になった者だったことを記す[SRC-01075]。同記事は、この選挙を「偉大な劇作家が書いた不条理劇のようだった」と評し、ハヴェル自身も選出後、「実際、不条理さを感じた」と述べたとされる[SRC-01075]。

選出後、ドゥプチェク議長とチャルファ首班はハヴェルをヴラディスラフ・ホールへ厳かに案内し、ハヴェルは憲法上定められた宣誓を行ったとVHÚ Prahaは記す[SRC-01076]。祝賀の後、ハヴェルはプラハ城第三中庭でチェコスロバキア人民軍と城守備隊の栄誉儀仗を閲兵し、12時50分には城南翼のバルコニーから第三中庭に集まった市民に挨拶した[SRC-01076]。13時からは、大統領として40年ぶりに、聖ヴィート大聖堂で枢機卿フランチシェク・トマーシェクが司式するテ・デウムに参列したとVHÚ Prahaは記す[SRC-01076]。チェコ・フィルハーモニー管弦楽団がアントニン・ドヴォルザークの『テ・デウム』を演奏したとラジオ・プラハ・インターナショナルは記す[SRC-01075]。ENRSは、この選出をもって学生側のストライキが終結したと記す[SRC-01074]。

歴史的背景

ハヴェルは劇作家・反体制知識人として、1977年に発表された「憲章77」の最初のスポークスパーソンの一人だったとチェコ共和国大統領府は記す[SRC-01072]。1989年11月17日の学生デモに対する治安部隊の弾圧をきっかけに、11月19日、プラハの「劇団クラブ(Činoherní klub)」で市民フォーラムが結成され、共産党指導部との対話を目指す反対勢力となった[SRC-01072][SRC-01074]。ハヴェルは結成当初からその代表格だったと、チェコ共和国大統領府・ヴァーツラフ・ハヴェル・ライブラリー・ENRSはいずれも記す[SRC-01072][SRC-01073][SRC-01074]。本記事は、この11月の一連の経過そのものを主題とはせず、その帰結として12月29日にハヴェルが大統領に選出された経緯を扱う(本サイトの整理)。

タイムライン

日付(グレゴリオ暦) 出来事 出典
1989-12-08 市民フォーラムがハヴェルを大統領候補とすることを決定 [SRC-01074]
1989-12-10 フサーク大統領が新連邦政府任命後に辞任を表明したとENRSは記す(辞任日については異説・論争欄参照) [SRC-01074]
1989-12-10 同日、ハヴェルの候補者擁立が市民フォーラムにより正式発表されたとVHÚ Prahaは記す [SRC-01076]
1989-12-13 共産党所属の連邦議会議員が、大統領の国民投票による直接選出を求める法案を提出 [SRC-01076]
1989-12-15 連邦政府首班チャルファがハヴェルとの秘密会談で候補擁立への協力を申し出る [SRC-01074][SRC-01076]
1989-12-16 ハヴェルが国営テレビで「暫定的な実務型大統領」として指名を受け入れると表明。ドゥプチェクと会談 [SRC-01078]
1989-12-19 チャルファが連邦議会でハヴェルを大統領候補に推す政策表明を行う [SRC-01074]
1989-12-28 コオプタツェ法により連邦議会に新議員が任命される。ドゥプチェクが連邦議会議長になる [SRC-01074][SRC-01075]
1989-12-29 連邦議会が、ヴラディスラフ・ホールでハヴェルを満場一致で大統領に選出。同日、聖ヴィート大聖堂でテ・デウムが行われる [SRC-01075][SRC-01076]
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)

本記事が扱う12月29日の選出そのものの票数・議事については、登録した出典間に食い違いは確認されなかった。ただし、この選出に先立つグスターフ・フサーク大統領の辞任日については、出典間に記述の違いがある——ENRSは12月10日に連邦議会へ辞任を表明したと記す[SRC-01074]一方、VHÚ Prahaは12月9日夕に実際に辞任したと記す[SRC-01076]。本サイトはいずれの日付が正しいかを判定しない。また、この選出の性格をめぐっては、専門機関のあいだで叙述上の力点の違いが認められる。

論点 根拠・出典 学界での位置づけ
この選出の性格づけ 「偉大な劇作家が書いた不条理劇のようだった」とする評価。革命前の選挙で議席を得た議員が大多数を占める議場が、その体制の打倒を主導した反体制知識人を満場一致で選んだという逆説を強調する [SRC-01075] ラジオ・プラハ・インターナショナル(チェコ公共放送の国際サービス)による報道記事としての評価
(同上) 「11月革命の象徴的な到達点であり、『正常化』の過去との急進的な決別だった」「市民野党側の準備不足にもかかわらず、驚くほど速かった」とする評価。選出という結果そのものの歴史的意義を強調する [SRC-01076] VHÚ Praha(チェコ国防省所管の軍事史研究機関)に所属する歴史家による署名記事としての評価

両者はいずれも後年(2014年・2024年)に公表された専門機関の記事による評価であり、1989年当時の当事者間の対立ではない。本サイトはいずれの評価が妥当かを判定しない。

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

VHÚ Praha(プラハ軍事史研究所)は、ハヴェルの大統領選出が「11月革命の象徴的な到達点であり、『正常化』の過去との急進的な決別」だったと評する[SRC-01076]。同研究所は、ビロード革命の展開が市民野党側の準備不足にもかかわらず驚くほど速かったとも記す[SRC-01076]。ENRSは、この選出をもって学生側のストライキが終結したと記しており、選出が一連の抗議行動の一つの区切りとなったことがうかがえる[SRC-01074]。チェコ共和国大統領府は、ハヴェルが就任演説で自由選挙の実施を約束し、1990年夏にこれを果たしたと記す[SRC-01072]。

現代の視点

本記事の射程は、1989年12月29日の選出とその直後の経過(1990年1月の最初の演説・同年7月の再選まで)に限られる。ハヴェルのその後の大統領職(1992年のチェコスロバキア解体に伴う辞任、1993年のチェコ共和国初代大統領就任等)や、現代のチェコ共和国・スロバキア共和国の政治体制については、本サイトは立ち入らない(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-01072] Václav Havel(元大統領一覧ページ)/Office of the President of the Czech Republic(プラハ城)(ランクA)
  2. [SRC-01073] Václav Havel – President / 1989–2003(2011年公開の年表ページ)/Knihovna Václava Havla(Václav Havel Library)(ランクA)
  3. [SRC-01074] Velvet Revolution day by day/European Network Remembrance and Solidarity (ENRS)(ランクA)
  4. [SRC-01075] December 29, 1989: Václav Havel elected president for the first time/Radio Prague International(Český rozhlas/チェコ・ラジオ国際放送)(ランクB)
  5. [SRC-01076] Václav Havel - z vůle lidu prezidentem/Vojenský historický ústav Praha(プラハ軍事史研究所。チェコ国防省所管の研究機関)(ランクA)
  6. [SRC-01077] December 12, 1989: Electoral-procedure debates begin in Federal Assembly(Havel at Columbia)/Columbia Center for New Media Teaching & Learning, Columbia University(ランクA)
  7. [SRC-01078] December 16, 1989: Havel talks with Dubček to avoid national split over presidency(Havel at Columbia)/Columbia Center for New Media Teaching & Learning, Columbia University(ランクA)

本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。

訂正履歴

日付事実主張への変更
12026-09-07あり
22026-09-07あり

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