1815年世界 19世紀
ウィーン会議最終議定書への署名——条約集の見出しに挙げられた8カ国のうち、1815年6月9日に実際に署名したのは7カ国だった
日付と暦
- 原典表記
- 1815年6月9日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1815-06-09(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 6月9日のページ
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概要
1815年6月9日、オーストリアの首都ウィーンで、前年秋から続けられてきた国際会議「ウィーン会議」の交渉結果を一つの文書にまとめた「ウィーン会議最終議定書」が署名された[SRC-02386][SRC-02387]。条約集の見出しには、イギリス・オーストリア・フランス・ポルトガル・プロイセン・ロシア・スペイン・スウェーデンの8カ国が挙げられているが、条約本文末尾の署名欄を見ると、実際にこの日署名したのは7カ国で、スペイン代表の欄は空白のまま残された[SRC-02386]。署名はナポレオンの最終的な敗北となるワーテルローの戦い(同年6月18日)のわずか9日前だった[SRC-02386][SRC-01548]。本記事は、この文書が何を定め、何を統合したものだったか、そして「8カ国」という条約集の見出しと実際の署名国数との食い違いを整理する。
本文
ウィーン会議は、1814年5月30日の第一次パリ条約第32条に基づき、ナポレオン戦争後のヨーロッパの秩序を定めるために、列強とその同盟国の代表がウィーンに集まって開かれた会議である[SRC-02386][SRC-02387]。各国代表団は1814年秋にウィーンへ到着し、以後1815年6月まで、個別の条約・宣言・規程・議定書を積み重ねる形で交渉が進められた[SRC-02386][SRC-02388]。
この間、1815年2月26日にナポレオンがエルバ島を脱出し、3月20日にパリへ帰還して帝政を復活させる「百日天下」が始まった(本サイトの別記事の主題)[SRC-01548]。会議は1815年春までに作業の大半を終えていたが、ナポレオンの脱出と帝位復帰によって最終議定書の正式な署名は一時延期され、3月にまとまった最終条約の署名はナポレオンの帰還後の6月まで持ち越されたとEncyclopedia of Modern Europeは記す[SRC-02388]。
1815年6月9日、列国の代表はそれまでに取り交わされた多数の個別の取り決め——旧ワルシャワ公国の処遇、ザクセンの領土処理、ドイツ連邦の結成、ネーデルラント王国の成立、スイスの中立などに関する条約・宣言・規程——を一つの「一般条約(General Treaty)」に統合し、これに署名した[SRC-02386]。条約集の見出しは「グレートブリテン、オーストリア、フランス、ポルトガル、プロイセン、ロシア、スペインおよびスウェーデンの間の一般条約。1815年6月9日ウィーンにて署名」であり、8カ国が挙げられている[SRC-02386]。
しかし、全121条から成る条約文書の末尾の署名欄を見ると、オーストリア(メッテルニヒ・ヴェッセンベルク)、フランス(タレーラン・ダルベール・ノアイユ)、イギリス(クランカーティ・キャスカート・スチュワート)、ポルトガル(パルメラ・サルダーニャ・ダ・ガマ・ロボ・ダ・シルヴェイラ)、プロイセン(ハルデンベルク・フンボルト)、ロシア(ラズモフスキー・スタッケルベルク・ネッセルローデ)、スウェーデン(レーヴェンヒエルム。一部条文への留保付き)の7カ国の代表がそれぞれ署名した一方、「スペイン」の欄には署名がなく、脇注には「スペインはこの条約に署名しなかったが、1817年6月7日付の文書によってこれに加入した」と明記されている[SRC-02386]。
1817年6月10日に結ばれた別の条約の前文によれば、スペインが加入を見送っていた理由は、パルマ・ピアチェンツァ・グァスタッラ公領(当時マリア・ルイーザが統治し、死後の返還は列強の合意に委ねられていた)について定める最終議定書第99条の適用を、列強の全会一致の同意によって確立したいという意向にあったと記されている[SRC-02386]。
歴史的背景
会議を主導したのはオーストリア外相メッテルニヒで、フランス外相タレーランがこれに次ぐ存在感を持ったとEncyclopedia of Modern Europeは記す。プロイセンはハルデンベルク、ロシアはアレクサンドル1世自身、イギリスは外相キャスルレーが交渉を担ったとされる[SRC-02388]。会議開催前、オーストリア・ロシア・プロイセン・イギリスの4カ国は主要事項を自分たちだけで決めようとしたが、タレーランとスペイン代表ラブラドールがこれに強く反対し、1814年11月にフランスが交渉の中心に加えられたとされる(他の国々は引き続き除外されたままだったとも記される)[SRC-02388]。
交渉で最も難航したのは、旧ワルシャワ公国とザクセン王国の扱いをめぐる「ポーランド・ザクセン問題」だったとされる。ロシア皇帝アレクサンドル1世は、ワルシャワ公国の併合によるロシア支配下の新たな「ポーランド王国」の成立を求め、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はその代償としてザクセン王国の併合を望んだが、オーストリアとフランスはこれに同意しようとしなかった。1815年1月までに成立した妥協案では、ロシアがワルシャワ公国のおよそ3分の2を獲得し、プロイセンはザクセンのおよそ3分の1とライン地方での領土拡大を得ることになったとEncyclopedia of Modern Europeは記す[SRC-02388]。
最終議定書は、こうした個別の取り決めに加えて、オランダとベルギーをオラニエ=ナッサウ家のもとでネーデルラント王国として統合し、ドイツ諸邦によるドイツ連邦の結成(その連邦議会はフランクフルトに置かれ、最初の会合は1815年9月1日と定められた)、そして19のカントン(州)の枠組みを基礎としつつヴァレー・ジュネーヴ・ヌーシャテルの3州を新たに加えるスイス連邦の体制を定めた[SRC-02386]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1814年5月30日(グレゴリオ暦) | 第一次パリ条約。第32条でウィーンでの「一般会議」開催を規定 | [SRC-02386][SRC-02387] |
| 1815年2月26日(グレゴリオ暦) | ナポレオン、エルバ島を脱出(本サイトの別記事の主題) | [SRC-01548] |
| 1815年3月20日(グレゴリオ暦) | ナポレオン、パリに帰還し帝政を復活(「百日天下」開始。本サイトの別記事の主題) | [SRC-01548] |
| 1815年6月9日(グレゴリオ暦) | ウィーン会議最終議定書に7カ国(英・墺・仏・ポルトガル・普・露・スウェーデン)が署名。スペインは署名せず(本記事の主題) | [SRC-02386] |
| 1815年6月18日(グレゴリオ暦) | ワーテルローの戦いでナポレオン最終的に敗北 | [SRC-01548] |
| 1817年6月7日(グレゴリオ暦) | スペイン、加入文書により最終議定書に事後加入 | [SRC-02386] |
異説・論争定説のない論点があります
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 最終議定書の署名国は何カ国か | A: 7カ国(スペインを除く)/B: 8カ国(スペインを含む) | A=[SRC-02386](Hertslet編の条約集。条約本文の署名欄でスペインの欄は空白であり、脇注に「スペインはこの条約に署名しなかった」と明記される。スペイン自身の1817年の加入文書も、最終議定書の原本8通のうち「7通は7カ国の署名国それぞれに」渡されたと記す)/B=[SRC-02388](Encyclopedia of Modern Europe、著者Schneid。「オーストリア・イギリス・フランス・ロシア・プロイセン・スペイン・ポルトガル・スウェーデンが主要な署名国だった」と記す) | 条約文書そのものの署名欄とスペイン自身の加入文書(A)が直接の文書事実であり、本記事はAを本文の記述として採用する。Bの記述(Schneid)は出典ごとの開示としてここに示す。スペインは1817年に別の文書で加入した |
| 最終議定書は何条から成るか | A: 121条/B: 110条 | A=[SRC-02386](条約自身、第CXXI条まで)・[SRC-02387](Wikisource、同様に第121条まで)/B=[SRC-02388](Encyclopedia of Modern Europe、著者Schneid。「全110条」と記す) | 本記事は条約自身の条番号(A)を本文の記述として採用する |
関連する出来事
- 1815年2月26日、ナポレオンはエルバ島を脱出した(本サイトの別記事の主題)[SRC-01548]。
- 1815年3月20日、ナポレオンはパリに帰還し帝政を復活させた(「百日天下」の開始。本サイトの別記事の主題)[SRC-01548]。
- 1815年6月18日、ナポレオンはワーテルローの戦いに敗れた。最終議定書の署名はこの9日前だった[SRC-01548]。
関連人物
- メッテルニヒ: オーストリアの外相(国務大臣)。会議を主導した中心人物とされ、最終議定書にはヴェッセンベルクとともにオーストリア代表として署名した[SRC-02386][SRC-02388]。
- タレーラン: フランス外相。会議開催当初は英・墺・普・露の4カ国による決定から除外されかけていたフランスの対等な地位を交渉で確保したとされ、最終議定書にはダルベール・ノアイユとともにフランス代表として署名した[SRC-02386][SRC-02388]。
歴史的意義
会議が生み出した勢力均衡と領土的代償による秩序は、以後ほぼ1世紀にわたりヨーロッパに比較的安定した持続的な平和をもたらしたとEncyclopedia of Modern Europeは評価する[SRC-02388]。同時に、オーストリア・ロシア・プロイセンの君主たちは、会議の終結直後に将来の革命運動を抑えようとする体制の構築に向かったとも同書は記す[SRC-02388]。この会議が独自だったのは、参加国が単に自国の目先の利害だけでなく、国際関係の新たな原則そのものに合意した点にあると同書は位置づける[SRC-02388]。
現代の視点
最終議定書第121条は、条約原本をウィーンの「宮廷・国家の文書館」に保管することを定めた[SRC-02386]。
出典一覧
- [SRC-02386] The Map of Europe by Treaty: Showing the Various Political and Territorial Changes Which Have Taken Place since the General Peace of 1814. Vol. I./Edward Hertslet, C.B.(英外務省文書保管官「Librarian and Keeper of Papers, Foreign Office」)著/Butterworths(ロンドン、法律書出版社)刊、1875年(ランクA)
- [SRC-02387] The General Treaty of the Final Act of the Congress of Vienna, 9 June 1815/Wikisource(英語版)(ランクB)
- [SRC-02388] Congress of Vienna/Encyclopedia.com(Gale/Cengage Learning刊行の複数参考事典項目を集約するサイト)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-02389] Congress of Vienna | Goals, Significance, Definition, & Map/Encyclopaedia Britannica(ランクB)
- [SRC-01548] Hundred Days (Encyclopedia.com aggregator page)/Encyclopedia.com(Gale/Cengage Learning刊行の複数参考事典項目を集約するサイト)(ランクB)(複数の資料を収載)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-10-08 | — |
| 2 | 2026-10-08 | あり |
| 3 | 2026-10-09 | なし |
| 4 | 2026-10-09 | なし |
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