1859年世界 19世紀
マジェンタの戦い、1859年6月4日——フランス・サルデーニャ連合軍がオーストリア軍を破り、マクマオンは戦場でマジェンタ公に叙された
日付と暦
- 原典表記
- 1859年6月4日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1859-06-04(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 6月4日のページ
暦の注記: この出来事は1859年当時すでにフランス・サルデーニャ王国・オーストリア帝国のいずれにおいてもグレゴリオ暦下にあり、原典の暦と換算先の暦(いずれもグレゴリオ暦)は一致する恒等変換である。本サイトでは06-04のページに掲載している。
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概要
1859年6月4日、北イタリア・ロンバルディアのマジェンタ村周辺で、ナポレオン3世が自ら率いるフランス・サルデーニャ連合軍と、ジュライ伯爵が率いるオーストリア軍が交戦した[SRC-02442][SRC-02443][SRC-02445]。フランス軍第2軍団を率いたマクマオン将軍はマジェンタ村の攻略を指揮し、連合軍を勝利に導いた[SRC-02445]。ナポレオン3世はこの日、戦場でマクマオンをフランス元帥・マジェンタ公に叙した[SRC-02445]。両軍の損害は大きく、後世の集計と戦闘翌日付のフランス陸軍公報に基づく推定とで数字が食い違う[SRC-02443][SRC-02442]。この戦いの名は、のちに英国で合成染料「マジェンタ」の名の由来になったとされる[SRC-02444]。
本文
1858年夏、ナポレオン3世とサルデーニャ王国首相カヴールはプロンビエールで会談し、オーストリアがサルデーニャを攻撃した場合にフランスが援助するという同盟条約が作成され、合意された[SRC-02443]。1859年4月23日、オーストリアはサルデーニャに対し3日以内の回答を求める最終通告を発し、サルデーニャは4月26日にこれを拒否、4月29日にオーストリア軍がロンバルディアとピエモンテの国境を越えて開戦した[SRC-02443]。連合軍はその後チチーノ川方面へ進み、近衛師団が6月2日にチチーノ川を渡河した[SRC-02442][SRC-02443]。
6月4日、連合軍はマジェンタ村とブファロラの2方向からオーストリア軍への攻撃を進めた[SRC-02442][SRC-02443]。フランス軍第2軍団を率いるマクマオン将軍の部隊は行軍が遅れ、予定より少ない兵力で前進していたが、オーストリア軍に分断されかけた自軍の2縦隊を立て直し、マジェンタ村に迫った[SRC-02442]。マジェンタ村はオーストリア軍にとって要衝であり、両軍は家屋を単位に奪い合う激しい戦闘を繰り広げた。砲声がやんだ時刻について、Bussy(1859)が収録した通信は午後11時頃としている[SRC-02442]。同書収録の陸軍公報は、午後8時半頃に仏軍が戦場を制したと記す[SRC-02442]。マクマオンの部隊は多数の捕虜を得たが、自軍も大きな損害を出した[SRC-02442][SRC-02443]。
ナポレオン3世はこの日、戦場でマクマオンをフランス元帥、そしてマジェンタ公に叙した[SRC-02445]。戦闘当夜、ナポレオン3世の本営はサン・マルティーノに置かれた[SRC-02443]。一方、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の本営は同夜ヴィッラ・フォルトゥーナに置かれ、サルデーニャ軍の師団はマルカッロ・トゥルビーゴ・ガッリアーテに分散配置されており、マジェンタ村そのものの激戦には加わっていなかった[SRC-02443]。戦闘翌日の6月5日、ミラノ市はオーストリア軍を退けた[SRC-02442]。
歴史的背景
マジェンタの戦いは、1858年のプロンビエール密約に始まる一連の外交・軍事上の経緯の帰結として行われた。ナポレオン3世とカヴールの同盟条約、オーストリアの最終通告とその拒否、4月29日の開戦という経過は、Wylly(1907)自身の歴史的整理であり、本サイトが独自に合成した因果関係ではない[SRC-02443]。マジェンタの戦いは、連合軍がロンバルディアの中心都市ミラノへ進む途上で行われた会戦であり、戦闘翌日にミラノがオーストリア軍を退けたことは、この戦いの直接の結果として同時代の記録に残されている[SRC-02442]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1858年夏(グレゴリオ暦) | ナポレオン3世とカヴールがプロンビエールで同盟条約を作成・合意する | [SRC-02443] |
| 1859-04-23(グレゴリオ暦) | オーストリアがサルデーニャに最終通告 | [SRC-02443] |
| 1859-04-26(グレゴリオ暦) | サルデーニャが最終通告を拒否 | [SRC-02443] |
| 1859-04-29(グレゴリオ暦) | オーストリア軍がロンバルディア・ピエモンテ国境を越え開戦 | [SRC-02443] |
| 1859-06-02(グレゴリオ暦) | 近衛師団がチチーノ川を渡河 | [SRC-02442][SRC-02443] |
| 1859-06-04(グレゴリオ暦。本記事の主題) | マジェンタの戦い。連合軍が勝利し、マクマオンが戦場でフランス元帥・マジェンタ公に叙される | [SRC-02442][SRC-02443][SRC-02445] |
| 1859-06-05(グレゴリオ暦) | ミラノ市がオーストリア軍を退ける | [SRC-02442] |
| 1859-06-24(グレゴリオ暦) | ソルフェリーノの戦い | [SRC-02442] |
異説・論争定説のない論点があります
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| オーストリア軍の損害規模 | 説1: 軍事史家Wylly(1907)が示す将校・下士官兵別の数値表を本サイトが合算すると、オーストリア軍の損害は戦死1,368人・負傷4,358人・行方不明(捕虜を含む)4,500人、総計1万226人になる。説2: Bussy(1859)が収録した6月5日付のフランス陸軍公報は、オーストリア軍の戦闘不能者数を概算で2万人程度と記す。同書の編者(Bussy)自身の地の文は、オーストリア軍の損害を戦死・負傷者25,000人、捕虜7,000人と記している | 説1: [SRC-02443]。説2: [SRC-02442] | 本記事は複数の数値を出典付きで併記し、本サイト独自の優劣判断は付さない |
| 合成染料「マジェンタ」の命名の経緯 | 説1(事実としての記述): 王立化学会の解説記事(2010年)は、合成染料フクシンが英国で「マジェンタ」と改名されたのは1859年のマジェンタの戦いを記念したものだと記す。説2(同記事内の留保): 同記事は、誰が正確に改名したかについては「おそらく(Presumably)シンプソン社は、ドイツ語圏よりもフランス語圏での販売に、より大きな可能性を見出したのだろう」という推測で説明している | 説1・説2とも: [SRC-02444](同一出典内の記述) | これは対立する2つの学説ではなく、同一出典が、命名がこの戦いを記念したものであるという事実と、改名の主体・意図という詳細とを、異なる確度で記したものである。本記事は、戦いにちなむ命名という事実部分は本文で記述し、改名の主体・意図に関する推測部分は推測として明示したうえで両方を記載する |
関連する出来事
- 1858年夏、ナポレオン3世とサルデーニャ王国首相カヴールがプロンビエールで同盟条約を作成・合意した[SRC-02443]
- 1859年4月29日、オーストリア軍がロンバルディア・ピエモンテ国境を越えて開戦した[SRC-02443]
- 1859年6月2日、近衛師団がチチーノ川を渡河した[SRC-02442][SRC-02443]
- 1859年6月5日、マジェンタ勝利の翌日、ミラノ市がオーストリア軍を退けた[SRC-02442]
- 1859年6月24日、ソルフェリーノの戦いが行われた[SRC-02442]
関連人物
- ナポレオン3世(なぽれおんさんせい): フランス皇帝。フランス軍を自ら率いてマジェンタの戦いに臨み、戦闘当夜、本営をサン・マルティーノに置いた。戦場でマクマオンをフランス元帥・マジェンタ公に叙した[SRC-02443][SRC-02445]
- パトリス・ド・マクマオン(ぱとりす・ど・まくまおん): フランス軍第2軍団司令官。マジェンタ村の攻略を指揮し、1859年6月4日、戦場でフランス元帥・マジェンタ公に叙された。後年、フランス第三共和政第2代大統領(1873-1879年)を務めた[SRC-02443][SRC-02445]
- ジュライ(じゅらい): オーストリア軍の伯爵・将軍。1858年末時点でオーストリア第2軍(北イタリア駐留)を指揮し、1859年のイタリア戦役ではオーストリア軍の総指揮官を務めた。マジェンタの戦いで連合軍に敗れた[SRC-02442][SRC-02443]
- ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(ヴィットーリオ・エマヌエーレにせい): サルデーニャ王。マジェンタの戦いの当夜、本営をヴィッラ・フォルトゥーナに置き、サルデーニャ軍の師団は分散配置されていた[SRC-02443]
- カミッロ・ベンソ・ディ・カヴール(カミッロ・ベンソ・ディ・カヴール): サルデーニャ王国首相。マジェンタの戦いに先立つ1858年、プロンビエールでナポレオン3世と同盟条約を作成・合意した[SRC-02443]
歴史的意義
マジェンタの戦いの勝利は、マクマオンをフランス元帥・マジェンタ公という地位に押し上げた[SRC-02445]。マクマオンは後年、フランス第三共和政第2代大統領(1873-1879年)に選出された[SRC-02445]。連合軍にとっては、この勝利を経てミラノへの道が開かれ、戦闘翌日にはミラノ市がオーストリア軍を退けた[SRC-02442]。この戦いの名はまた、英国で合成染料「マジェンタ」の名の由来になったとされ、一地方の会戦の名が日常的な色名として現在まで残る例となっている[SRC-02444]。
現代の視点
英国で「マジェンタ」と改名された合成染料フクシンは、現在ではかつてのような衣料染色用途よりも、組織学の染色試薬(シッフ試薬等)としての利用が広く知られている[SRC-02444]。マジェンタの戦いという一地方の軍事的勝利が、化学・色彩の分野で日常的に使われる色名の由来として記憶されている点は、戦争の記憶が思いがけない形で後世に残る例として記録するにとどめる。この評価は本サイトが独自に下したものであり、各時代における受け止め方の積み重ねとしての記録である。
出典一覧
- [SRC-02442] Histoire de la guerre d'Italie : documents et rapports officiels : relation complète des faits, proclamations, ordres du jour, rapports, biographies des souverains et généraux/Ch. de Bussy(編)、Gaittet(パリ)/原本所蔵: フランス国立図書館(BnF)、Internet Archive経由で公開(ランクA)
- [SRC-02443] The Campaign of Magenta and Solferino, 1859/H. C. Wylly(著)、S. Sonnenschein(ロンドン)/Macmillan(ニューヨーク)/原本所蔵: コーネル大学図書館、Internet Archive経由で公開(ランクA)
- [SRC-02444] The battle for magenta/Royal Society of Chemistry(英国王立化学会), Education in Chemistry(ランクA)
- [SRC-02445] Patrice de Mac Mahon/Présidence de la République française(フランス共和国大統領府、Élysée.fr)(ランクS)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-10-08 | — |
| 2 | 2026-10-08 | あり |
| 3 | 2026-10-08 | あり |
| 4 | 2026-10-09 | なし |
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