1805年世界 19世紀

ナポレオンがミラノでイタリア王として戴冠したのは1805年5月26日——戴冠式は本来3日前の5月23日に予定されていた

日付と暦

原典表記
1805年5月26日(グレゴリオ暦)
換算
1805-05-26(グレゴリオ暦)
掲載日
5月26日のページ

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概要

1805年5月26日、ナポレオン・ボナパルトはミラノ大聖堂(ドゥオーモ・ディ・ミラノ)で、新たに成立したイタリア王国の国王として戴冠した[SRC-02274][SRC-02276]。約6か月前のパリでの皇帝戴冠式(1804年12月2日)と同様、ミラノでも自己戴冠の所作が行われた[SRC-01547][SRC-02276][SRC-02277]。伝承では594年頃にランゴバルド王妃テオデリンダがモンツァ市に寄進したとされる鉄王冠を、ナポレオンは手に取り[SRC-02274]、自ら自身の頭に載せた[SRC-02276][SRC-02277]。戴冠式は当初5月23日に予定されていたが、これを記す出典のいずれにも延期の理由は記されておらず、同月26日へ3日間移動した[SRC-02274][SRC-02276]。イタリア王国そのものは、1805年3月17日にパリで可決された憲法規程によって、イタリア共和国から転換する形で成立していた(王国の領域はロンバルディア・エミリア=ロマーニャにとどまり、半島全体には及ばなかった)[SRC-02274][SRC-02275]。

本文

1805年5月26日正午、ナポレオンは祝砲が轟く中、ミラノの王宮を出発してミラノ大聖堂へ向かった。公式記録によれば、この日の天候は晴天だったという[SRC-02274]。皇后ジョゼフィーヌはすでに午前11時45分に、王宮と大聖堂を結ぶ特設の回廊を通って大聖堂入りし、自身の桟敷席に着いていた[SRC-02274]。式典にはミラノ大司教カプラーラ枢機卿が大司教館から聖歌隊席へ赴いて列席し[SRC-02274](ティエリー・ランツの記事は、この戴冠式を司式したのはカプラーラだったと明記する[SRC-02277])、大聖堂内外には選挙団・コンスルタ・ディ・スタート(イタリア国務参議会)・立法参議会・立法府・破毀院といった新王国の諸機関の代表団、各都市の市政代表、パヴィア・ボローニャ両大学の代表団などが整列していた[SRC-02274]。

鉄王冠は、戴冠式の4日前の5月22日、式部官が馬車3台・騎兵50名を伴ってモンツァから搬送したもので、ミラノ大聖堂に到着した際にはカプラーラ枢機卿自らが聖職者団を率いて出迎えていた[SRC-02274]。式典の中で、ナポレオンはこの鉄王冠を手に取り[SRC-02274]、自ら自身の頭に載せた[SRC-02276][SRC-02277]。ロンバルディア州の公的文化財データベースに登録された、この戴冠を記念するメダルの目録カードは、この所作を「パリでの自己戴冠の動作の繰り返し」と明記している[SRC-02276]。Fondation Napoléonの年表は、1805年にミラノで刊行された戴冠式の公式記録を主要典拠として、この時ナポレオンが発した文言を「Iddio me l'ha data; guai a chi la toccherà!(神がこれを我に与えた、これに触れる者に災いあれ)」と記す[SRC-02274]。イタリア王冠を頭に載せると、式場では熱狂的な拍手が起こったという[SRC-02274]。

式典では、鉄王冠のほかに3つの冠が登場した。ナポレオンは入場の時点で、すでに皇帝冠とイタリア王冠の双方を身に着けていた。シャルルマーニュの帝冠は儀仗として行列で運ばれ祭壇に置かれたが、着用はされなかった(パリでの皇帝戴冠式と同じ扱いである)[SRC-02274]。鉄王冠だけが、式の間に短時間ナポレオンの頭に載せられ、翌日5月27日、搬送時と同じ式次第でモンツァへ戻された[SRC-02274]。式典終了から約30分後、一行はミラノのサンタンブロージョ聖堂へ移動し、さらなる祈祷とテ・デウムを行った。この行列の護衛は、皇后の連れ子であるウジェーヌ・ド・ボアルネが指揮した(ティエリー・ランツの記事はウジェーヌを「ジョゼフィーヌの息子」と明記する)[SRC-02274][SRC-02277]。

戴冠式は、本来5月23日に行われる予定だった。この日付は1805年3月22日の帝国布告で定められ、式典のわずか5日前(5月21日)に公表された式次第でもまだ23日とされていた[SRC-02274]。戴冠記念メダルもこの時点で鋳造済みだったが、延期の決定はその後に下された[SRC-02276]。延期の理由を記す出典は確認されなかった——Fondation Napoléonの年表記事は「理由は記されていない(no reason is given for it)」と明記し、ロンバルディア州の目録カードも「理由が判明していない事情により(per motivi non noti)」と記すのみである[SRC-02274][SRC-02276]。鉄王冠の搬送自体は、当初の式次第どおり5月22日に実施されており、延期されたのは戴冠式当日のみだった[SRC-02274]。

歴史的背景

ナポレオンが元首としてイタリアを率いた期間は、1802年1月に始まる[SRC-02275]。この月、イタリア共和国の国務参議会(コンスルタ・ディ・スタート)30名が、新共和国の大統領としてナポレオンに職を引き受けるよう説得した。ナポレオンはイタリアに常住できないため、副大統領にフランチェスコ・メルツィ・デリル、パリ駐在代表にフェルディナンド・マレスカルキを選任した[SRC-02275]。

1804年5月18日、ナポレオンがフランス人の皇帝に宣言されると、フランス人にもイタリア人にも、イタリアが共和国のままでいられないことが明らかになった[SRC-02275]。マレスカルキは1804年5月1日付の書簡でメルツィに、フランス護民院(Tribunat)での世襲帝政導入論議を伝え、この展開が全欧州、とくにイタリアにとって重大な意味を持つと記した[SRC-02275]。同年5月7日にナポレオンと長時間面談したマレスカルキは、5月9日、コンスルタ・ディ・スタートへの公開書簡で、ナポレオン自身が「大統領という称号は、自分の新たな地位(皇帝)とは両立しないと思う」と語ったことを記した[SRC-02275]。同じ頃、ブローニュ野営地のイタリア軍部隊司令官ピノ将軍は、第一執政(当時のナポレオンの地位)宛の建言書で「フランス人の皇帝がイタリアの王となりますように」と記していた[SRC-02275]。

王位は当初、ナポレオンの兄ジョゼフに提示された[SRC-02274]。ジョゼフは1804年12月末に20万フランの受領と引き換えにこれを受諾していたが、フランス王位への権利を放棄したくないとして、1805年1月25日に一転して拒否した[SRC-02274]。これを受け、ナポレオン自身がオーストリアへの刺激になりうることを承知の上で[SRC-02274][SRC-02275]、1805年2月5日にイタリア王位を受諾した(単なるロンバルディア王ではなく、イタリア王として)[SRC-02274]。同年3月17日、パリのテュイルリー宮殿でナポレオンの前に立ったイタリア代表団(メルツィが代表)が1802年の憲法改正を嘆願し、同日、パリで開催中のコンスルタ・ディ・スタートがこれを正式化する憲法規程を可決した。イタリア共和国はこの憲法規程によってイタリア王国となり、ナポレオンがその国王となった[SRC-02274][SRC-02275]。

この憲法規程の第III条・第IV条は、規程の文面上、ナポレオンによる両国王位の兼有を一時的な体制として位置づける内容を含んでいた。第III条は、ナポリ王国・イオニア諸島・マルタから外国軍が撤退した時点で、ナポレオンがイタリア王冠を正統な男性の後継者(実子または養子)に譲ると定め、第IV条は、その時点以降イタリア王冠をフランス帝冠と同一人物に統合しないと定めていた[SRC-02274][SRC-02278]。ミラノでの戴冠式は、こうした政治的決定を式典として具体化したものだった[SRC-02275]。

戴冠式に先立つ5月8日、ナポレオンはマレンゴ門(現ポルタ・ティチネーゼ)からミラノに入城し、最初にミラノ大聖堂に立ち寄って聖職者の出迎えを受けた[SRC-02274]。式典に向けた準備として、5月9日にはイタリア国務参議会(5部門制)創設の布告が出され、戴冠式の前日にあたる5月25日には、カプラーラ枢機卿がナポレオンに内謁し、教皇庁との交渉仲介者とする旨の教皇書簡を手渡した[SRC-02274]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1804年12月31日(グレゴリオ暦) ナポレオンの兄ジョゼフが、20万フランの受領と引き換えに王位を受けることに合意(翌年1月25日に拒否へ転じる) [SRC-02274]
1805年2月5日(グレゴリオ暦) ナポレオン自身がイタリア王位を受諾 [SRC-02274]
1805年3月17日(グレゴリオ暦) パリでコンスルタ・ディ・スタートが憲法規程を可決し、イタリア共和国がイタリア王国へ転換。ナポレオンが国王となる [SRC-02274][SRC-02275]
1805年3月22日(グレゴリオ暦) ミラノでの戴冠日を5月23日と定める帝国布告に署名 [SRC-02274]
1805年5月8日(グレゴリオ暦) ナポレオン、マレンゴ門からミラノへ入城 [SRC-02274]
1805年5月21日(グレゴリオ暦) 戴冠式の式次第が公表され、日付は依然5月23日のまま [SRC-02274]
1805年5月22日(グレゴリオ暦) 鉄王冠がモンツァからミラノ大聖堂へ搬送される(当初の式次第どおりの実施) [SRC-02274]
1805年5月26日(グレゴリオ暦) ミラノ大聖堂でナポレオンのイタリア王戴冠式。本来の予定(5月23日)から3日延期されての実施 [SRC-02274][SRC-02276]
1805年5月27日(グレゴリオ暦) 鉄王冠がモンツァへ戻される [SRC-02274]
1805年6月7日(グレゴリオ暦) ウジェーヌ・ド・ボアルネがイタリア副王に任命される [SRC-02274]
異説・論争定説のない論点があります
論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
戴冠式が5月23日から26日へ延期された理由 延期の事実そのものは独立した2系統(フランスのナポレオン研究財団/イタリア・ロンバルディア州の公的文化財データベース)が一致して記録するが、延期の理由を記す出典は確認されなかった。Fondation Napoléonの年表記事は「理由は記されていない」と明記し、ロンバルディア州の目録カードも「理由が判明していない事情により」と記すのみ [SRC-02274][SRC-02276] 特定の理由を挙げる学術資料は確認されなかった(調査範囲: napoleon.org年表・記事3本〔年表・Hicks記事・Lentz記事〕、ロンバルディア州公的文化財データベース1件、1805年公式記録第1部〔archive.org保存〕1件、BnF所蔵の戴冠式次第〔Gallica・未登録資料〕1件)。本記事は理由不明のまま延期があったという事実のみを記す
鉄王冠を受け取った際にナポレオンが発した文言の逐語 Fondation Napoléonの年表は、1805年にミラノで刊行された戴冠式の公式記録を主要典拠として「Iddio me l'ha data; guai a chi la toccherà!」という文言を記す。Fondation Napoléonの記事(Peter Hicks執筆・Irène Delage仏訳)は本文でフランス語「Dieu me la donne, gare à qui la touche !」を用い、脚注(2)でこれを774年にカール大帝自身がランゴバルド人の王冠を受けた際に発した言葉に遡る定型句「Iddio me la diede, guai a chi la toccherà」と位置づけている。ティエリー・ランツの記事の脚注(14)はイタリア語原文を「Dio me l'ha data, guai a chi la toccherà」(Dio/Iddioはいずれも「神」を意味する同義の異表記)と記す [SRC-02274][SRC-02275][SRC-02277] 3つの記述はいずれも同一の研究財団系統(Fondation Napoléon)が公開する記事だが、引用の逐語は異なる。本記事はFondation Napoléonの年表が主要典拠とする公式記録の文言を、同年表の記す形で本文の引用として用い、カール大帝由来という位置づけ・脚注の異表記については出典の記述であることを明示する

関連する出来事

この戴冠の約6か月前、1804年12月2日、ナポレオンはパリで皇帝として戴冠していた[SRC-01547]。

1815年2月26日のエルバ島脱出[SRC-01547][SRC-01548]、同年3月20日のパリ入城(百日天下)[SRC-01548][SRC-01550]、1821年5月5日のセントヘレナ島での死去[SRC-01547][SRC-01548]は、いずれもこの後の出来事である。

関連人物

歴史的意義

ミラノでの戴冠式は、ナポレオンがフランス皇帝位とイタリア王位を同一人物として兼有する体制を、式典を通じて公に成立させた出来事である。ただし、1805年3月17日の憲法規程は、規程の文面上、ナポリ王国・イオニア諸島・マルタから外国軍が撤退した時点で、ナポレオンがイタリア王冠を後継者に譲り渡し、以後はイタリア王冠をフランス帝冠と同一人物が保持しないと定めていた[SRC-02274][SRC-02278]。

ウジェーヌ・ド・ボアルネの副王任命(1805年6月7日)は、イタリアにおける実務的な統治を、常駐できないナポレオンに代わって担う制度(副王制)の開始を意味した[SRC-02274]。

現代の視点

鉄王冠を手に取り頭に載せる所作は、ナポレオンが1804年のパリでの皇帝戴冠式で示した身振りの再現であり、ミラノの戴冠式でも同じ構図が繰り返された[SRC-02276][SRC-02277]。他方で、戴冠式の正確な延期理由のように、公式記録自体が記していない事柄も残っており、史料の空白をそのまま「不明」と記すことも、出来事を正確に伝える作業の一部である。

出典一覧

  1. [SRC-02274] Napoleon's consecration and coronation in Milan, 26 May, 1805(napoleon.org「年表」)/Fondation Napoléon(napoleon.org)(ランクB)
  2. [SRC-02275] Comment Napoléon est-il devenu roi d'Italie ?(napoleon.org「記事」。著者: DELAGE Irène(訳), HICKS Peter)/Fondation Napoléon(napoleon.org)(ランクB)
  3. [SRC-02276] Medaglia(Incoronazione di Napoleone a re d'Italia)— SIRBeC scheda OARL M0250-00686(Regione Lombardia/Comune di Mantova・Museo di Palazzo Ducale)/Regione Lombardia(SIRBeC - Sistema Informativo Regionale dei Beni Culturali)/Comune di Mantova・Museo di Palazzo Ducale(ランクA)
  4. [SRC-02277] Le couronnement de Napoléon roi d'Italie à Milan, 26 mai 1805(napoleon.org「記事」。著者: LENTZ Thierry。初出: Revue du Souvenir Napoléonien, n°457, 2005年2-3月)/Fondation Napoléon(napoleon.org)。初出: Revue du Souvenir Napoléonien(ランクB)
  5. [SRC-02278] Documenti officiali relativi al nuovo Regno d'Italia e all'incoronazione di Napoleone Bonaparte primo imperatore de' Francesi e re d'Italia(1805年ミラノ刊、原記録・第1部。Google Books経由でarchive.orgが保存するデジタル化資料)/(ミラノ刊、1805年。原publisherは記録に明示なし。デジタル化・保存はGoogle Books/archive.org)(ランクA)
  6. [SRC-01547] Napoleon I (Encyclopedia.com aggregator page)/Encyclopedia.com(Gale/Cengage Learning刊行の複数参考事典項目を集約するサイト)(ランクB)(複数の資料を収載)
  7. [SRC-01548] Hundred Days (Encyclopedia.com aggregator page)/Encyclopedia.com(Gale/Cengage Learning刊行の複数参考事典項目を集約するサイト)(ランクB)(複数の資料を収載)
  8. [SRC-01550] 百日天下(ヒャクニチテンカ)とは? 意味や使い方 - コトバンク/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING運営)(ランクB)(複数の資料を収載)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-10-07—
22026-10-07あり
32026-10-07あり
42026-10-07なし
52026-10-09なし

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