1865年世界 19世紀
1865年4月9日、リー将軍はアポマトックスでグラント将軍に降伏した——南北戦争の「終わりの始まり」であって、終結そのものではなかった
日付と暦
- 原典表記
- 1865年4月9日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1865-04-09(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 4月9日のページ
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概要
1865年4月9日朝、退路を断たれたリー将軍は、ゴードン軍団からの敗報に「グラント将軍に会いに行くほかにない。千回死んだほうがましだが」と応じたと伝えられる[SRC-01888]。その日の午後、リーはアポマトックスのマクリーン邸でグラント将軍と会い、北バージニア軍を降伏させた[SRC-01884]。条件は将校の馬・帯剣・私物携行を認める寛大なものだった[SRC-01884][SRC-01886]。ただしこれは北バージニア軍1個軍の降伏にとどまり、南北戦争そのものの終結ではない。戦争が合衆国の勝利として公式に宣言されたのは、この降伏から1年4か月余りあとの1866年8月20日である[SRC-01891]。
本文
9日早朝、北バージニア軍はゴードン軍団を先頭に西方への突破を試みたが、北軍騎兵に続いて到着した連邦軍歩兵(USCT約5,000人を含む)に包囲され、退路を断たれた[SRC-01885]。ゴードンから、これ以上の前進は望めないとの報告を受け、リーはグラントに会談を申し入れた[SRC-01888][SRC-01884]。リーは午後1時ごろマクリーン邸に到着し、グラントはおよそ30分後に着いた[SRC-01884]。条件の骨子は、南軍兵士が武器・装備・軍旗を引き渡す一方、将校は馬・帯剣・私物を携行でき、将兵とも仮釈放として帰郷させ、仮釈放条件と居住地の法を守るかぎり合衆国当局から訴追しない、というものだった[SRC-01884][SRC-01886]。リーの求めでグラントは、条件書自体は改めずに別命令を出す形で騎兵・砲兵の下士官兵にも馬・ラバの携行を認め、飢えた南軍将兵に3日分の糧食2万5000食の提供も申し出た[SRC-01884]。両将軍は文書に署名・交換し、会談は握手で終わった[SRC-01884]。正式な単一の降伏文書は存在せず、この手続きはグラントの条件書とリーの受諾書という2通の短い書簡の交換によって行われた[SRC-01874]。
歴史的背景
北バージニア軍は、1864年6月からのピーターズバーグ・リッチモンド包囲戦で消耗し、1865年4月2日夜に両都市を放棄して西へ退却した[SRC-01888]。4月6日のセイラーズ・クリークの戦いで将官8人・兵約8000人を失うなど損害が続き、食糧も尽きかけていた[SRC-01888][SRC-01891]。4月7日、グラントは降伏を求める書簡を送ったが、リーが最も信頼する軍団長の一人である中将のロングストリートは「まだだ」と応じ、リーはこの時点では応じなかった[SRC-01888][SRC-01891]。国立公園局によれば、リンカーンは南部の融和を意図しグラントらに「気楽に立ち去らせよ」と指示しており、寛大な条件はこの方針を反映したという[SRC-01886]。もっとも、リーが降伏させたのは北バージニア軍のみで、ジョンストン率いる部隊はなおシャーマン軍に追撃されており、ミシシッピ川以西でも抵抗が続いた[SRC-01891]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1865年4月1日(グレゴリオ暦) | ファイブ・フォークスの戦いで南軍が敗れる | [SRC-01891] |
| 1865年4月2日〜3日(グレゴリオ暦) | 南軍、リッチモンド・ピーターズバーグを放棄し西へ退却する | [SRC-01888] |
| 1865年4月6日(グレゴリオ暦) | セイラーズ・クリークの戦いで南軍が将官8人・兵約8000人を失う | [SRC-01888][SRC-01891] |
| 1865年4月7日(グレゴリオ暦) | グラントがリーに降伏を求める書簡を送る。軍団長(中将)のロングストリートは「まだだ」と応じる | [SRC-01888] |
| 1865年4月8日夜(グレゴリオ暦) | アポマトックス・ステーション付近での戦闘で、南軍の補給部隊が北軍騎兵の攻撃を受ける | [SRC-01885][SRC-01891] |
| 1865年4月9日朝(グレゴリオ暦) | アポマトックス・コートハウスの戦い。北バージニア軍が包囲される | [SRC-01885] |
| 1865年4月9日午後(グレゴリオ暦) | マクリーン邸でリー・グラント両将軍が会談し、北バージニア軍が降伏する | [SRC-01884] |
| 1865年4月10日(グレゴリオ暦) | リー・グラント両将軍が2度目の会談を行い、仮釈放証明書の発行を取り決める | [SRC-01886] |
| 1865年4月11日(グレゴリオ暦) | USCT部隊がピーターズバーグへの帰還行軍を始める | [SRC-01889] |
| 1865年4月15日まで(グレゴリオ暦) | アポマトックスで発行された仮釈放証明書が、この日までに2万8231件に達する | [SRC-01886] |
| 1866年8月20日(グレゴリオ暦) | 戦争が合衆国の勝利として公式に宣言される | [SRC-01891] |
異説・論争定説のない論点があります
確認された異説を2件記す(調査範囲: 国立公園局〔アポマトックス・コートハウス国立史跡の複数ページ〕・American Battlefield Trust・Britannicaの計8点)。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| リーがマクリーン邸を辞去した時刻 | 午後3時までに、会談が終わり、リーはマクリーン邸を辞去した | [SRC-01884] | 国立公園局(史跡運営者)による解説。会談の場そのものを管理する機関の記述 |
| 同上 | リーは午後4時にマクリーン邸を辞去した | [SRC-01891] | 定評ある百科事典の記述。両者は1時間の差があり、本稿はどちらか一方を確定しない |
| 降伏を決めた時点でのリー軍の兵力 | 残存兵力は約3万3000人だった(降伏を決めた時点の北バージニア軍全体) | [SRC-01885] | 国立公園局による解説 |
| 同上 | リーが指揮した兵力は約2万7000人だった | [SRC-01891] | Britannicaによる解説。両者は算定対象(軍全体の残存兵力か、朝の戦闘参加兵力か)が異なる可能性があり、本稿はいずれの数値も断定せず出典に忠実に紹介するにとどめる |
関連する出来事
- この降伏の2か月余り前、1865年1月31日に連邦下院は奴隷制を禁じる合衆国憲法修正13条の発議決議を可決し、翌2月1日にリンカーン大統領がこれを承認していた[SRC-00888]。修正13条が合衆国憲法の一部として効力を生じたのは、この降伏から8か月後の同年12月6日である[SRC-00888]。
- 北バージニア軍の降伏後も、ジョゼフ・E・ジョンストン率いる南軍部隊はなおシャーマン軍に追撃され続けていた[SRC-01891]。
関連人物
- ロバート・E・リー(ろばーと・いー・りー): 北バージニア軍を指揮する南軍の司令官。グラントに降伏会談を申し入れ、条件を受諾した[SRC-01884][SRC-01888]。
- ユリシーズ・S・グラント(ゆりしーず・えす・ぐらんと): 北軍を指揮する司令官。降伏条件を起草し、リーの受諾書を受け取った[SRC-01884]。
- ウィルマー・マクリーン: アポマトックス・コートハウス村の住人。自邸の客間を会談の場として提供した[SRC-01884]。
歴史的意義
国立公園局は、この日の戦闘と降伏について、連邦の勝利とともに、連邦の再統合と、300万人を超える元被奴隷者にとっての解放の実現とがもたらされたと位置づける[SRC-01889]。一方で同局は、グラントが示した寛大な条件について、南部の白人住民を宥和する目的で設計されたものだったとも説明する[SRC-01887]。本稿はこの2つの説明を対立させず、この降伏が持つ複数の意味——軍事的な帰結、奴隷制廃止という結果、南部白人社会への配慮という政治的計算——を、それぞれ出典に基づく記述として併記する(本稿の整理)。アポマトックスでの条件は、その後数か月間に行われた他の南軍部隊のほとんどの降伏の先例となった[SRC-01886][SRC-01890]。
現代の視点
国立公園局は、マクリーン邸の解説において、降伏の同じ時期に同家に隷属していた9人の被奴隷者が独立して暮らせるようになったことを記している[SRC-01887]。これは、将校の帯剣・私物携行を認めるといった降伏の儀礼的な側面(本記事「本文」参照)と、奴隷制という体制そのものへの評価を、切り離して考える必要があることを示す一例である(本稿の整理)。国立公園局は、現在のマクリーン邸解説ページにおいて、この会談を「国を再びひとつにした歴史的な会談」とも位置づけている[SRC-01887]。本稿はこの表現と、前節で紹介したUSCT参加者ページの位置づけ(本記事「歴史的意義」参照)を、単一の物語に統合せず、国立公園局自身の記述としてそれぞれ紹介する(本稿の整理)。
出典一覧
- [SRC-01884] The Surrender Meeting - Appomattox Court House National Historical Park (U.S. National Park Service)/アメリカ国立公園局(National Park Service)アポマトックス・コートハウス国立史跡(ランクA)
- [SRC-01885] The Battle of Appomattox Court House - Appomattox Court House National Historical Park (U.S. National Park Service)/アメリカ国立公園局(National Park Service)アポマトックス・コートハウス国立史跡(ランクA)
- [SRC-01886] Paroling the Army of Northern Virginia - Appomattox Court House National Historical Park (U.S. National Park Service)/アメリカ国立公園局(National Park Service)アポマトックス・コートハウス国立史跡(ランクA)
- [SRC-01887] The McLean House - Appomattox Court House National Historical Park (U.S. National Park Service)/アメリカ国立公園局(National Park Service)アポマトックス・コートハウス国立史跡(ランクA)
- [SRC-01888] The Appomattox Campaign - Appomattox Court House National Historical Park (U.S. National Park Service)/アメリカ国立公園局(National Park Service)アポマトックス・コートハウス国立史跡(ランクA)
- [SRC-01889] United States Colored Troops at Appomattox - Appomattox Court House National Historical Park (U.S. National Park Service)/アメリカ国立公園局(National Park Service)アポマトックス・コートハウス国立史跡(ランクA)
- [SRC-01890] Appomattox Court House (American Battlefield Trust)/American Battlefield Trust(ランクB)
- [SRC-01891] Battle of Appomattox Court House | Facts, History, & Surrender | Britannica/Encyclopaedia Britannica, Inc.(ランクB)
- [SRC-00888] 13th Amendment to the U.S. Constitution: Abolition of Slavery (1865)/アメリカ国立公文書記録管理局(National Archives and Records Administration, NARA)(ランクS)
- [SRC-01874] Surrender Documents - Appomattox Court House National Historical Park (U.S. National Park Service)/アメリカ国立公園局(National Park Service)アポマトックス・コートハウス国立史跡(ランクA)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
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| 1 | 2026-09-29 | あり |
| 2 | 2026-09-29 | あり |
| 3 | 2026-09-29 | あり |
| 4 | 2026-09-29 | あり |
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