1804年12月2日、ノートルダム大聖堂でナポレオンが皇帝に戴冠——教皇が祝別した帝冠を、自らの手で頭に載せた
日付と暦
- 原典表記
- 1804年12月2日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1804-12-02(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 12月2日のページ
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概要
1804年12月2日、パリのノートルダム大聖堂で、ナポレオン・ボナパルトの皇帝戴冠式が行われた[SRC-00856][SRC-00857]。同年5月18日、元老院はフランスの統治を世襲皇帝ナポレオン・ボナパルトに委ねる新憲法を採択し、国民投票で承認していた[SRC-00857]。式典には教皇ピウス7世が臨席し、フランスの司教団が政教条約(コンコルダ)に服従することと引き換えに、塗油・戴冠の両儀式を執り行うことを承諾していた[SRC-00857]。式の中心となる戴冠の場面では、教皇は祭壇上に置かれた帝冠を祝別したのみで、これを自らの頭に載せたのはナポレオン自身であり、続けて跪く皇后ジョゼフィーヌにも自ら冠を授けたと記録は伝える[SRC-00856][SRC-00857]。この場面は、後年ジャック=ルイ・ダヴィッドが描いた大作『ナポレオン皇帝の戴冠式と皇后ジョゼフィーヌの戴冠』(ルーヴル美術館蔵)としても知られている[SRC-00858]。
本文
戴冠式の準備は式部長官セギュールと侍従長レミュザに委ねられ、会場はノートルダム大聖堂と定められた。ペルシエとフォンテーヌが大聖堂の内陣をゴシック様式からローマ神殿風に仕立てる装飾を手掛け、イザベーが衣装(リハーサル用の縮尺人形を含む)を担当し、俳優タルマがナポレオンに威厳ある物腰・所作を指導したという。シャルルマーニュの笏と帝冠はこの機会のために修復または模造され、剣の柄頭にはダイヤモンドがはめ込まれた[SRC-00858]。
式典当日の1804年12月2日は前夜から小雪が降り続いており、テュイルリー宮周辺と行列の道筋では労働者が雪をかき払っていた。午前六時、招待客が大聖堂入口に詰めかけたが装飾の最終仕上げのため一旦入場を拒まれ、七時頃にようやく着席した。九時、外交団が到着したが、墺国宰相コベンツル伯のみ、両国間の外交上の不和を示すため欠席した。同じ頃、教皇ピウス7世の一行が108騎の竜騎兵に守られて出発し、ロバに乗った使節スペローニを先頭に、ジョゼフィーヌの馬車を改装した2番目の馬車にピウス7世が乗ってノートルダムへ向かった。十時過ぎには皇帝一行25台の馬車が152頭立てで6個連隊の護衛を伴い出発し、パリ市内を巡ってノートルダム広場に至った[SRC-00856]。
十時半、教皇一行が大聖堂に到着し、大司教デュ・ベロワ枢機卿の出迎えを受けた後、ピウス7世は儀礼用の法衣とティアラを身に着けて入堂し、内陣の玉座に着いて皇帝夫妻の到着を待った。十一時過ぎ、皇帝夫妻は大司教館で「小礼装」から「大礼装」へ着替えた。ナポレオンの大礼装は白絹の半ズボンと靴下、金刺繍の白い靴、金モールで縁取られた白絹の上衣、金の蜂を散らした紫のビロード外套(アーミン裏地)、月桂樹を象った金の開冠、金の笏と正義の手、ダイヤモンドを施した剣から成り、ジョゼフィーヌの大礼装は銀ブロケードのドレスと、金の蜂・月桂樹・オリーブ・樫の葉を刺繍した紫のビロード外套から成っていたと記録は伝える[SRC-00856]。正午頃、夫妻はデュ・ベロワ枢機卿の出迎えを受けて入堂し、皇后の冠・シャルルマーニュの帝冠と笏と剣・首飾り・指輪・宝珠をそれぞれ運ぶ元帥や高官による大行列を伴い、ナポレオン自身は笏と正義の手を手にしていたと記録は伝える[SRC-00856]。
ナポレオンは着用していた栄誉章(正義の手・笏・帝冠・レジオンドヌール勲章の首飾り・剣)を大官たちに一旦手渡した後、教皇に信仰宣言を行い、跪く皇帝夫妻は教皇から三重の祝福を受けた。続いて夫妻は祭壇前で額と両手に塗油を受け、ミサが進められた[SRC-00856][SRC-00858]。祭具(剣・外套・指輪・冠・宝珠)が祝別された後、ランス式次第に定められた祈祷が教皇によって唱えられる中、ナポレオンはタレーランとコーランクールに栄誉章を渡し、祭壇に置かれていた帝冠を自ら手に取って自分の頭に載せた。続けてジョゼフィーヌの冠を取り、自分の頭に載せる仕草をしてから、目の前に跪く皇后に自ら授けたと記録は伝える[SRC-00856]。この場面についてRMN-Grand Palais運営の美術解説は、「通例に反して(contre tout usage)、教皇自身が塗油・戴冠の両方を執り行いたいという意向にもかかわらず、ナポレオンが自ら戴冠し皇后にも自ら戴冠することを望んだ」結果であり、「ピウス7世は帝冠を祝別するに留まった」と性格づけている[SRC-00857]。
戴冠を終えた夫妻が大玉座に移った後、教皇は「神があなたをこの玉座に固めたまわんことを」と唱えてナポレオンの頬に接吻し、会衆に向けて「皇帝万歳(Vivat Imperator in aeternum)」と唱えた。ミサが続けられ、教皇は聖具室へ退いた後、ナポレオンは福音書に手を置いて憲法宣誓を行った。フォンテーヌブロー城の学芸員解説が引用する範囲では、1805年に帝国印刷局が刊行した公式記録『戴冠式典記録(Procès-verbal)』は、教皇が「あなたは法を遵守させ、すべての臣民に正義を施し……教会の高位聖職者たちが受けるべき尊敬と栄誉を享受するよう配慮することを、神と天使たちの御前で誓約するか」と問い、ナポレオンが福音書に両手で触れながら「誓います(Profiteor)」と答えたと記す[SRC-00861]。紋章官が「もっとも栄光ある、もっとも尊厳なる皇帝ナポレオン、フランス人の皇帝は戴冠・即位した」と宣言し、午後三時半、大聖堂の内外で祝砲と歓声が上がった。夫妻は午後四時前にノートルダムを発ち、六時半にテュイルリー宮へ帰還し、その晩は二人だけで夕食をとったと記録は伝える[SRC-00856]。
歴史的背景
1802年8月の国民投票でナポレオンの終身統領制が確立し、共和政の実質的なナポレオンへの一体化が進んでいた[SRC-00857]。1803年初め、ルイ18世にフランス王位への権利放棄を求める交渉が試みられたが果たせず、その後、共和政の支持者にとって王政より受け入れやすい神話として、カロリング帝国(シャルルマーニュ)が持ち出された(「帝国」の語はナポレオンあるいは革命期フランスが征服した全領域への支配という、より抽象的な意味にも通じたためだと解説は記す)[SRC-00857]。1804年4月、国務院が正式に帝政の創設を提案し、5月18日、元老院は「共和国の統治」を世襲皇帝ナポレオン・ボナパルトに委ねる新憲法を採択、国民投票で承認された[SRC-00857]。この新王朝に神の加護(戴冠と塗油)を与えるため、式典はパリのノートルダム大聖堂で行われることとなり、教皇ピウス7世は、フランスの司教団が政教条約(コンコルダ)に同意し教皇に服従することと引き換えに、両儀式を執り行うことを承諾した[SRC-00857]。大聖堂正面には特設の凱旋門が設けられ、4本の柱のうち2本はメロヴィング朝・カロリング朝を、残る2本は「フランスの良き諸都市」を象徴し、カペー朝は意図的に除かれたと解説は記す[SRC-00857]。
なお、戴冠式当日を記す同時代の資料には、グレゴリオ暦の日付(2 décembre 1804)と共和暦の日付(13年霜月〔フリメール〕11日)を併記するものが複数ある。詳細は本記事末尾の「暦の注記」を参照。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1804年5月18日(グレゴリオ暦) | 元老院が新憲法を採択し、フランスの統治を世襲皇帝ナポレオン・ボナパルトに委ねる。国民投票で承認 | [SRC-00857] |
| 1804年12月2日 午前6〜11時頃(グレゴリオ暦) | 教皇一行が出発し、皇帝一行はテュイルリー宮を出発して、ともにノートルダム大聖堂へ入堂。皇帝夫妻は「大礼装」に着替える | [SRC-00856] |
| 1804年12月2日 正午〜午後3時半頃(グレゴリオ暦) | ミサが進行し、信仰宣言・塗油・祭具の祝別を経て、ナポレオンが自ら帝冠を頭に載せ、続けてジョゼフィーヌに冠を授ける。憲法宣誓ののち即位が宣言される | [SRC-00856][SRC-00857][SRC-00861] |
| 1804年12月2日 午後4〜6時半頃(グレゴリオ暦) | 皇帝夫妻はテュイルリー宮へ、教皇はフロール館(テュイルリー宮)へ、それぞれノートルダムを発って帰還 | [SRC-00856] |
| 1805年(刊行年、グレゴリオ暦) | 帝国印刷局が式典の公式記録『Procès-verbal』を刊行 | [SRC-00861] |
| 1805年12月18日(グレゴリオ暦) | ジャック=ルイ・ダヴィッドが首席画家に任命され、戴冠式の場面の制作を委嘱される | [SRC-00857] |
| 1806〜1807年(グレゴリオ暦) | ダヴィッドが油彩画『ナポレオン皇帝の戴冠式と皇后ジョゼフィーヌの戴冠』を完成させる | [SRC-00858] |
暦の注記: 上表の日付はいずれもグレゴリオ暦であり、本記事の主題(戴冠式当日)はグレゴリオ暦のみで換算は生じない。ただし、戴冠式当日を記す同時代の資料はこの日を「共和暦13年霜月〔フリメール〕11日」とも表記した。本記事はこの対応関係を独自に換算していない(R-CAL-3)。Fondation Napoléon(napoleon.org)のクロノロジー記事の標題は「11 frimaire an XIII (2 décembre 1804)」と両暦を併記し[SRC-00856]、パリ・カルナヴァレ美術館収蔵の同時代版画の作品標題も「XI Frimaire An XIII (2 Décembre 1804)」と併記する[SRC-00859]。また、式典と同じ1804年に刊行された書籍(フランス国立図書館Gallica収蔵)の標題も「le XI frimaire an XIII dimanche 2 décembre 1804」と両暦を併記する[SRC-00860]。本サイトはこの出来事を display_date 12-02(グレゴリオ暦)のページに掲載している。
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 戴冠の場面(ナポレオンが自ら帝冠を被り、皇后にも自ら冠を授けた行為)をどう性格づけるか | A: 通例の破棄・ナポレオン自身の強い意向による演出。教皇自身が塗油・戴冠を執り行いたいという意向にもかかわらず、そうなった | RMN-Grand Palais運営の美術解説(histoire-image.org)は「Contre tout usage(通例に反して)」「malgré le désir du pape(教皇の意向にもかかわらず)」と明示的に評価する[SRC-00857] | 単一系統(RMN-Grand Palais)の評価的記述。本記事はこの性格づけを帰属形(probable)で示す |
| 同上 | B: 式次第(ランス式次第由来の典礼文が唱えられる中で進行した一連の所作の一つ)として、評価的な言及なしに時系列で記述する立場 | Fondation Napoléonの式次第年表は、この場面を「ランス式次第に定められた祈祷が教皇によって唱えられる間」の一手順として、時系列上の他の所作と同列に淡々と記述する[SRC-00856] | 両者は、教皇が帝冠を祝別したのみで自ら頭に載せなかったという事実の推移自体では一致しており、相違はこれをどう性格づけるかという強調点の違いである |
| 「教皇の手から帝冠を奪い取って被った」という描写の史実性 | 到達した式次第記録・美術解説はいずれも、帝冠が祭壇上に置かれ教皇はこれを祝別したのみだったと記しており、教皇の手中にあった冠を奪う場面としては記録されていない | Fondation Napoléonの式次第記録・RMN-Grand Palaisの美術解説のいずれも同旨[SRC-00856][SRC-00857] | 到達した出典の範囲では、「教皇の手から奪った」という場面自体は確認されない |
| ダヴィッドの絵画『ナポレオン皇帝の戴冠式と皇后ジョゼフィーヌの戴冠』が史実をどこまで忠実に描いているか | 絵画には史実との相違点がある(レジオンドヌール勲章の首飾りが実際は1つのみだったのに複数描かれている、当日不在だった皇帝の生母や病気で欠席したカプラーラ枢機卿〔実際に教皇の傍らにいたのはディ・ピエトロ枢機卿〕が描かれている、祭壇周辺の配置も儀典の実際と異なる 等) | ルーヴル美術館の公式解説(histoire-image.org、RMN-Grand Palais運営)が具体的に指摘する[SRC-00858] | 単一系統(RMN-Grand Palais)による指摘。同解説はこの絵画に「反教権的な側面がある」という政治的解釈も示すが、これも同一系統内の評価であり、本記事はいずれも帰属形(probable)で示す |
関連する出来事
- 1802年8月、国民投票によりナポレオンの終身統領制が確立し、共和政の実質的な個人化が進んだ[SRC-00857]。
- 1804年5月18日、元老院が新憲法を採択し、フランスの統治を世襲皇帝ナポレオン・ボナパルトに委ねた(国民投票で承認)[SRC-00857]。
- 1805年、帝国印刷局が式典の公式記録『Procès-verbal』を刊行した[SRC-00861]。
関連人物
- ナポレオン・ボナパルト(PER-08600): 戴冠式で祭壇上の帝冠を自ら手に取り自分の頭に載せた当人[SRC-00856]。
- ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(PER-08601): ナポレオンから自ら冠を授けられ皇后となった[SRC-00856][SRC-00858]。
- 教皇ピウス7世(PER-08602): 式典に臨席し、信仰宣言の受領・塗油・帝冠の祝別・祝福を担った[SRC-00856][SRC-00857]。
- ジャック=ルイ・ダヴィッド(PER-08603): 戴冠式の場面を描く任務を委嘱された首席画家[SRC-00857][SRC-00858]。
歴史的意義
この戴冠式は、フランス革命によって処刑された旧王朝に代わる新たな世襲王朝(ボナパルト朝)の正統性を、宗教的権威(教皇の臨席)と古代フランク王国の記憶(シャルルマーニュの規範品を模した笏・帝冠、大聖堂正面のメロヴィング朝・カロリング朝を象徴する凱旋門)の双方によって基礎づけようとする試みだったと位置づけられる(本サイトの整理)[SRC-00857][SRC-00858]。他方で、教皇が塗油こそ授けたものの、帝冠を自ら頭に載せる役をナポレオン自身が担った点は、宗教的権威よりも世俗権力(皇帝自身の意思)を上位に置く構図として、RMN-Grand Palais運営の解説では「反教権的な側面」を持つ場面と評価されている[SRC-00858]。この評価は単一の発行主体による解釈であり、本記事はこれを帰属形で紹介するに留める。
現代の視点
ダヴィッドの絵画は今日、ルーヴル美術館の代表作の一つとして広く知られ、戴冠式の場面そのものの「イメージ」を後世に強く印象づけてきた。しかし同美術館の公式解説自身が、この絵が儀典の実際とは異なる点(不在だった人物の描写、装飾品の数の相違、配置の変更 等)を含むことを明記しており、絵画(イメージ)と、式典記録が伝える式次第(事実)とを区別して見る必要があることを示している[SRC-00858]。
出典一覧
- [SRC-00856] Déroulement de la journée du Sacre de Napoléon, 11 frimaire an XIII (2 décembre 1804)/Fondation Napoléon(napoleon.org)(ランクB)
- [SRC-00857] Le Sacre de Napoléon(histoire-image.org「歴史を画像で読む」)/Histoire par l'image(Réunion des musées nationaux - Grand Palais〔RMN-Grand Palais〕運営)(ランクA)
- [SRC-00858] Le Sacre de l'empereur Napoléon Ier : une œuvre clé(histoire-image.org「歴史を画像で読む」)/Histoire par l'image(Réunion des musées nationaux - Grand Palais〔RMN-Grand Palais〕運営)(ランクA)
- [SRC-00859] XI Frimaire An XIII (2 Décembre 1804) / Fête du Sacre et Couronnement de leurs Majestés Impériales / Vue de la Place du Parvis Notre Dame de Paris(パリ・ミュゼ/カルナヴァレ美術館収蔵版画目録)/Paris Musées(パリ市立美術館連合)/カルナヴァレ美術館(Musée Carnavalet, Histoire de Paris)(ランクA)
- [SRC-00860] Le sacre de S. M. l'Empereur Napoléon dans l'église métropolitaine de Paris, le XI frimaire an XIII dimanche 2 décembre 1804(Gallica/仏国立図書館)/Bibliothèque nationale de France(フランス国立図書館)/Gallica(ランクS)
- [SRC-00861] Prestation du Serment le jour du Couronnement de sa Maj.té Napoléon Ier, Empereur des Français et Roi d'Italie(estampe/シャトー・ド・フォンテーヌブロー収蔵資料)/Château de Fontainebleau(フォンテーヌブロー城美術館。RMN-Grand Palais系の国立美術館)(ランクA)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-05 | — |
| 2 | 2026-09-05 | あり |
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