1828年世界 19世紀

ジュール・ヴェルヌは、1828年2月8日、フランス・ナントに生まれた——ブリタニカ百科事典によれば1863年、『気球に乗って五週間』を皮切りに「驚異の旅」シリーズを刊行し、同事典は近代SF小説の基盤の多くを築いた作家と評する

日付と暦

原典表記
1828年2月8日(グレゴリオ暦)
換算
1828-02-08(グレゴリオ暦)
掲載日
2月8日のページ

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概要

1828年2月8日、ジュール・ヴェルヌはフランスの港湾都市ナントに生まれた[SRC-01401][SRC-01402][SRC-01403]。父は弁護士(アヴェ)で、息子に家業を継がせようとした[SRC-01401][SRC-01402]。ブリタニカ百科事典によれば、法律を学ばせるためパリへ送ったが[SRC-01401]、ヴェルヌは文学、とりわけ演劇に魅了された[SRC-01401][SRC-01402]。1857年に結婚したとされる[SRC-01401][SRC-01402]。編集者ピエール=ジュール・エッツェルと出会い(出会った年は出典間で異なる。下記「異説・論争」参照)[SRC-01401][SRC-01402]、ブリタニカ百科事典によれば1863年に『気球に乗って五週間』を刊行、「驚異の旅」シリーズの第一作となった[SRC-01401]。この協業は40年余り続いた[SRC-01401]。ヴェルヌは1905年3月24日にアミアンで死去した[SRC-01401][SRC-01402]。ブリタニカ百科事典は、ヴェルヌを近代SF小説の基盤の多くを築いた作家と評する[SRC-01401]。

本文

ジュール・ヴェルヌは、1828年2月8日、フランスの港湾都市ナントで生まれた[SRC-01401][SRC-01402][SRC-01403]。生家はナント中心部、当時はロワール川の分流に囲まれた中州であったフェイドー島のケ・ジャン=バール通り2番地にあり、ヴェルヌは人生最初の14年間をここで過ごした[SRC-01402]。ヴェルヌはのちの回想録『幼少期と青年期の思い出』(1891年)で、「私はナントに生まれ、幼少期をすべてそこで過ごした、という事情がある」と述べている[SRC-01402]。ナントで最初の20年間を過ごしたのち、ヴェルヌはパリへ向かった[SRC-01402]。

ヴェルヌの父は弁護士(アヴェ)であり、息子が家業を継ぐことを望んだ[SRC-01401][SRC-01402]。ブリタニカ百科事典によれば、父はヴェルヌを法律を学ばせるためパリへ送った[SRC-01401]。しかし若きヴェルヌは文学、とりわけ演劇に魅了され、いくつかの戯曲を書き、テアトル・リリック座の書記(1852〜54年)を務めた[SRC-01401]。父の弁護士事務所は、結局息子がその跡を継ぐことをむなしく待つことになった[SRC-01402]。ヴェルヌはまた、雑誌『ムゼ・デ・ファミーユ』に短編小説や科学的な随筆を発表した[SRC-01401]。

1857年、ヴェルヌは結婚したとされる[SRC-01401][SRC-01402]。その後数年間、パリ証券取引所の仲買人として働いた[SRC-01401]。ムゼ・ジュール・ヴェルヌ・ド・ナントによれば、1861年、小説家アルフレッド・ド・ブレアの仲介で編集者ピエール=ジュール・エッツェルと接触した[SRC-01402]。一方、ブリタニカ百科事典は、ヴェルヌが1862年9月にエッツェルと出会ったと記す(出会った年については下記「異説・論争」参照)[SRC-01401]。エッツェルは、ヴェルヌの「驚異の旅」シリーズの第一作『気球に乗って五週間』の刊行に同意し[SRC-01401][SRC-01402]、ブリタニカ百科事典によれば1863年に刊行された[SRC-01401]。初版部数は2,000部であったが、ヴェルヌの生前に76,000部を売り上げた[SRC-01402]。

エッツェルとの協業は40年余り続いた[SRC-01401]。「驚異の旅」シリーズは合計62の長編小説と18の中短編を数えた[SRC-01402]。1871年からはアミアンに居を構えた。同地は、1857年に結婚したとされる妻オノリーヌ・ド・ヴィアーヌの出身地であった[SRC-01402]。ヴェルヌは、1905年3月24日、アミアンで死去した[SRC-01401][SRC-01402]。

歴史的背景

ブリタニカ百科事典によれば、証券仲買人として働いていた時期のヴェルヌは、執筆を続けながら国立図書館(ビブリオテーク・ナシオナル)で調べ物をし、科学的事実と冒険小説を組み合わせた新しい種類の小説を夢見ていたという[SRC-01401]。『気球に乗って五週間』は、エッツェルが主宰する雑誌に連載されたのち、国際的なベストセラーとなった[SRC-01401]。1864年、ヴェルヌはエッツェルと、年2巻、翌1865年からは年3巻を提供する契約を結んだ[SRC-01402]。同出版社でヴェルヌは、エッツェルとジャン・マセが創刊した、まじめさと親しみやすさを兼ね備え、親に喜ばれ子どもの益になる教育を掲げる雑誌『マガザン・デデュカシオン・エ・ド・レクレアシオン』の共同編集者も務めた[SRC-01402]。ヴェルヌとエッツェルの協業関係は40年以上続いた[SRC-01401]。

タイムライン

日付(グレゴリオ暦) 出来事 出典
1828年2月8日 ナントで誕生 [SRC-01401][SRC-01402][SRC-01403]
1857年(結婚年の異説は下記「異説・論争」参照) 結婚。パリ証券取引所の仲買人として働き始める [SRC-01401][SRC-01402]
1861年(ムゼ・ジュール・ヴェルヌ・ド・ナント)/1862年9月(ブリタニカ百科事典) 編集者ピエール=ジュール・エッツェルと出会う(出典間で年が異なる。下記「異説・論争」参照) [SRC-01401][SRC-01402]
1863年(ブリタニカ百科事典による) 『気球に乗って五週間』刊行。「驚異の旅」シリーズ第一作 [SRC-01401]
1871年 アミアンに居を構える [SRC-01402]
1886年 エッツェル死去。息子が「驚異の旅」の刊行を継続 [SRC-01402]
1905年3月24日 アミアンで死去 [SRC-01401][SRC-01402]
異説・論争定説のない論点があります

確認された異説(1)エッツェルと出会った年: ヴェルヌが編集者ピエール=ジュール・エッツェルと出会った年について、出典間で記述が食い違う。ムゼ・ジュール・ヴェルヌ・ド・ナント(ヴェルヌ生誕地の博物館の公式サイト)は、1861年、小説家アルフレッド・ド・ブレアの仲介で出会ったとし、その2年後(=1863年)に最初の小説が刊行されたと記す[SRC-01402]。一方、ブリタニカ百科事典は、1862年9月に出会ったとしたうえで、1863年刊行の『気球に乗って五週間』の刊行にエッツェルが同意したと記す[SRC-01401]。『気球に乗って五週間』の刊行年(1863年)を数字で明記するのはブリタニカ百科事典のみであり、ムゼ・ジュール・ヴェルヌ・ド・ナントは「その2年後」という相対表現で述べるにとどまる(基点となる1861年自体が、出会った年をめぐる対立する記述の一方である点に注意)。本サイトが確認した範囲では、いずれの年が正確かを明示的に検討・裁定する出典は見当たらなかった。なお、Encyclopædia Universalisの無料公開範囲にもエッツェルとの接触に関する複数の記述があるが(16人目の編集者として登場したこと等)、出会った年をいずれも数字で述べていない。

確認された異説(2)結婚した年: 食い違いは出会いの年にとどまらない。結婚の年についても、ブリタニカ百科事典・ムゼ・ジュール・ヴェルヌ・ド・ナントはいずれも1857年とするのに対し[SRC-01401][SRC-01402]、Encyclopædia Universalisの無料公開範囲は「1856年、身を固め、若い未亡人と結婚し、父からの前渡金で証券仲買人の職を買い取った」("En 1856, il se range, épouse une jeune veuve, achète, grâce à une avance de son père, une charge d'agent de change […]")と記しており、結婚年を1856年とする[SRC-01403]。1857年説を2系統が、1856年説を1系統が述べており、本サイトはいずれが正確かを判定しない。

誕生日・生誕地については、確認した3系統(ブリタニカ百科事典・ムゼ・ジュール・ヴェルヌ・ド・ナント・Encyclopædia Universalis)がいずれも一致しており、対立する記述は見当たらなかった。死没日・死没地については、確認した2系統(ブリタニカ百科事典・ムゼ・ジュール・ヴェルヌ・ド・ナント)が一致しており、対立する記述は見当たらなかった(Encyclopædia Universalisの無料公開範囲は死没日・死没地を述べない)。

論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
エッツェルと出会った年 1861年、小説家アルフレッド・ド・ブレアの仲介で出会った ムゼ・ジュール・ヴェルヌ・ド・ナント[SRC-01402] ヴェルヌ生誕地の博物館法人(ナント・メトロポール運営)公式サイト
エッツェルと出会った年 1862年9月に出会った ブリタニカ百科事典[SRC-01401] 大手百科事典の署名記事。一次資料への個別脚注はなし
結婚した年 1857年 ブリタニカ百科事典[SRC-01401]・ムゼ・ジュール・ヴェルヌ・ド・ナント[SRC-01402] 大手百科事典の署名記事+博物館法人公式サイトの2系統
結婚した年 1856年 Encyclopædia Universalis[SRC-01403] 大手仏語百科事典の署名記事。一次資料への個別脚注はなし

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

ブリタニカ百科事典は、ヴェルヌを近代SF小説の基盤の多くを築いた多作なフランスの作家と評する[SRC-01401]。同事典は、ヴェルヌが近代SFの最初の書き手であったわけではなく、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』(1818年)の方がその主張においてより有力であるとしたうえで、ヴェルヌは20世紀にジャンルとしてのSFが発展する過程で、その「守護聖人」(原語: "patron saint")として神格化されたと記す[SRC-01401]。ブリタニカはまた、ヴェルヌの死後、遺稿を整理した息子ミシェルが大幅に改稿したうえで作品を刊行したことを記し、これらの遺稿作品をめぐる評価は研究者の間で割れているとする[SRC-01401]。ムゼ・ジュール・ヴェルヌ・ド・ナントは、「驚異の旅」シリーズが総計62の長編小説と18の中短編に及んだと記す[SRC-01402]。

現代の視点

ブリタニカ百科事典によれば、ヴェルヌの作品は20世紀のうちに140を超える言語に翻訳され、世界でもっとも翻訳された作家の一人になったという[SRC-01401]。同事典はまた、1954年にアメリカ海軍が就役させた世界初の原子力潜水艦に、ヴェルヌの小説に登場する潜水艦ノーチラス号にちなんだ名が付けられたと記す[SRC-01401]。同事典はさらに、130年以上にわたり、冒険家たちがヴェルヌの小説の登場人物フィリアス・フォッグの足跡をたどるように世界一周の速さを競い続けてきたとも記す[SRC-01401]。本記事は、ヴェルヌの誕生とキャリアの起点(ブリタニカ百科事典によれば1863年の『気球に乗って五週間』刊行)を主題の中心に置き、その後の作品群の個別の内容や、同時代のヨーロッパにおける植民地主義的な世界観の反映を巡る近年の学術的な議論には立ち入らない。本記事の執筆過程では、この論点に関する非Wikipedia・ランクB以上の出典への到達はできなかった(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-01401] Jules Verne | French Author, Sci-Fi Pioneer, Visionary/Encyclopaedia Britannica, Inc.(ランクB)
  2. [SRC-01402] Repères biographiques - Musée Jules Verne de Nantes/Musée Jules Verne de Nantes(ナント・メトロポール運営の市立博物館)(ランクA)
  3. [SRC-01403] Biographie de JULES VERNE (1828-1905)/Encyclopædia Universalis France SA(ランクB)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-17あり
22026-09-17あり
32026-09-17あり

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