1881年世界 19世紀

アレクサンドル2世、ナロードナヤ・ヴォーリャの爆弾により暗殺される——露暦1881年3月1日、改革案に署名した当日のことだった

日付と暦

原典表記
1881年3月1日(ユリウス暦)
換算
1881-03-13(グレゴリオ暦)
掲載日
3月1日のページ

暦の注記: この出来事は当時のロシア帝国が用いていたユリウス暦(露暦)の1881年3月1日に起きた(グレゴリオ暦〔新暦〕換算: 1881年3月13日)[SRC-01569][SRC-01570][SRC-01571][SRC-01573][SRC-01593]。本サイトでは 03-01 のページに掲載している。換算値は、Encyclopaedia Britannicaの4つの記事(伝記項目・組織項目・概説記事・関係者伝記)に加え、Britannicaとは独立した出版社・執筆者によるEncyclopedia.com収載のPeter Waldron執筆記事(『Encyclopedia of Modern Europe: Europe 1789-1914』)がいずれも直接明記する値による[SRC-01569][SRC-01570][SRC-01571][SRC-01573][SRC-01593]。History.comも新暦単独表記で同じ日付(3月13日)を独立に記す[SRC-01594]。Britannica4記事は同一出版社内の複数記事だが、Encyclopedia.com・History.comはBritannicaとは独立した出版社・運営主体であり、換算ペアは複数の独立系統で確認できた。

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概要

1881年3月1日(当時のロシア帝国が用いていたユリウス暦=露暦。グレゴリオ暦換算では3月13日)、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで、皇帝アレクサンドル2世は、革命組織ナロードナヤ・ヴォーリャ(人民の意志党)のメンバーが投げた爆弾により死亡した[SRC-01569][SRC-01570][SRC-01571]。皇帝はまさにこの日、内務大臣ミハイル・ロリス=メリコフが起草した行政・財政改革の提案(後に「ロリス=メリコフ憲法」と通称される)に署名していた[SRC-01569][SRC-01571]。ナロードナヤ・ヴォーリャは、その2年前の1879年に結成され、皇帝の暗殺を繰り返し計画・実行してきた組織である[SRC-01570]。本記事は、この暗殺という出来事そのものを主題とし、皇帝の治世の全体像や、暗殺後にロシアが辿った政治的展開(後継者アレクサンドル3世による反動政策など)は射程に含まない(タイムライン参照)。

本文

ロシア皇帝アレクサンドル2世は、1855年から1881年まで在位した[SRC-01573]。在位中、1861年に農奴解放令(Emancipation Act)に署名して農奴制を廃止するなど、複数の改革を実施した[SRC-01569]。一方で1866年には学生ドミトリー・カラコーゾフによる暗殺未遂を経験し、この事件を機に保守化が進んだとされる[SRC-01569][SRC-01571]。1879年以降は、皇帝個人を標的とした革命的テロ(Britannicaの原語で"revolutionary terrorism")が再燃し、銃撃・皇帝専用列車の脱線工作・冬宮の爆破未遂など複数の襲撃が試みられた[SRC-01569]。

こうした状況を受け、皇帝は内務大臣ミハイル・ロリス=メリコフに、一種の独裁的権限を与えて事態の収拾にあたらせた[SRC-01569]。ロリス=メリコフは、社会不安の原因を和らげ革命的テロ(Britannicaの原語で"revolutionary terrorism")に対抗することを狙いとした穏健な行政・経済改革を皇帝に提言していた人物で、1880年11月に内務大臣に任命された[SRC-01573]。Britannicaは、ロリス=メリコフが「自らをナロードナヤ・ヴォーリャ(人民の意志党)と称するテロ組織の撲滅」を任務としつつ、1866年以降の弾圧政策によって離反していた穏健派の意見をなだめる役割も担っていたと記す[SRC-01569]。

ロリス=メリコフは、行政・財政改革のための二つの起草委員会を設け、その草案をゼムストヴォ(地方自治体)および都市自治体から選ばれた専門家の意見も聴く総委員会に諮るという改革案を、露暦1881年2月9日(新暦2月21日)に皇帝へ提出した[SRC-01571]。Britannicaは、この提案について「憲法には見えないが、その導入部になったかもしれない」と評する[SRC-01571]。皇帝は、皇后の死去(1880年)後に私的に再婚していたエカテリーナ・ドルゴルーコワを正式な妃として公にする計画と歩調を合わせ、この改革案をロシア国民向けの融和的な譲歩として発表しようとしていたとBritannicaは記す[SRC-01569]。

そして、幾度もの逡巡の末、皇帝がこの改革案の布告に署名したまさにその日——露暦1881年3月1日(新暦3月13日)——、皇帝はナロードナヤ・ヴォーリャが仕掛けた爆弾により致命傷を負った[SRC-01569][SRC-01571]。サンクトペテルブルク百科事典(encspb.ru)は、実行者をイグナティ・グリネヴィツキーと明記し、エカテリーニンスキー運河沿いで爆弾が投げられたと記す[SRC-01574]。この経過について、Spartacus Educationalはより詳細に、ナロードナヤ・ヴォーリャの指導者ソフィア・ペロフスカヤの合図で、ニコライ・ルイサコフとチモフェイ・ミハイロフが皇帝の馬車めがけて爆弾を投げたものの馬車には当たらずコサック護衛兵の間に着弾し、皇帝は無事だったが負傷した護衛兵の様子を確かめようと馬車を降りたところ、別の実行者イグナティ・グリネヴィツキーが投げた2発目の爆弾により即死し、グリネヴィツキー自身もその爆発で死亡した、と記す[SRC-01575][SRC-01576]。この経過の詳細(1発目・2発目の順序を含む)は、本記事が確認した出典のうちSpartacus Educational(単独系統)にのみ記されている。なお皇帝の死のしかた(即死か、負傷後しばらくして死亡したか)については出典間で実際に記述が割れている(異説・論争欄参照)。

歴史的背景

ナロードナヤ・ヴォーリャは、1879年、農民への直接の働きかけによる社会革命を目指した「土地と自由(Zemlya i Volya)」の分裂を経て結成された組織である[SRC-01570][SRC-01574]。アンドレイ・ジェリャボフとソフィア・ペロフスカヤに率いられ、執行委員会が政府高官や皇帝自身の暗殺を計画した[SRC-01570]。サンクトペテルブルク百科事典によれば、執行委員会は既に1879年8月の時点で皇帝への死刑宣告を可決していたという[SRC-01574]。1880年2月には、ナロードナヤ・ヴォーリャの党員ステパン・ハルトゥーリンが冬宮の食堂を爆破した[SRC-01571][SRC-01574]。Spartacus Educationalは、招待客の到着が遅れて夕食の時間がずれたため食堂が無人であり、皇帝は無事だったが67人が死傷したと記す[SRC-01575]。

この一連の実力行使の性格づけについては、出典によって記述が異なる(異説・論争欄参照)。ロリス=メリコフが率いた治安対策は、革命家の摘発と並行して、穏健な自治体(ゼムストヴォ)勢力の懐柔を図るものだった[SRC-01569]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1855年 アレクサンドル2世、ロシア皇帝に即位 [SRC-01573]
1861年(暦種別の明記なし・年単位) 農奴解放令(Emancipation Act)に署名 [SRC-01569]
1866年(暦種別の明記なし・月単位=春) 学生ドミトリー・カラコーゾフによる暗殺未遂 [SRC-01569][SRC-01571]
1879年 ナロードナヤ・ヴォーリャ結成 [SRC-01570]
1880年2月(暦種別の明記なし) 冬宮爆破未遂 [SRC-01571]
1880年11月(暦種別の明記なし) ロリス=メリコフ、内務大臣に就任 [SRC-01573]
露暦1881年2月9日(新暦2月21日) ロリス=メリコフ、改革案を皇帝へ提出 [SRC-01571]
露暦1881年3月1日(新暦3月13日)(本記事の主題) 改革案の布告に署名した当日、ナロードナヤ・ヴォーリャの爆弾により死亡 [SRC-01569][SRC-01570][SRC-01571]
露暦1881年3月1日(SRC-01575=同じ爆発で死亡したと記すが時点は特定しない。SRC-01576=「まもなく」死亡したと明記) 実行者イグナティ・グリネヴィツキーも爆発により死亡 [SRC-01575][SRC-01576]
1881年(暦種別の明記なし・本記事の射程外) アレクサンドル3世が即位し、ロリス=メリコフの改革案を退ける [SRC-01572]
1882年(本記事の射程外) ナロードナヤ・ヴォーリャ、事実上崩壊 [SRC-01570]
異説・論争定説のない論点があります
論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
ナロードナヤ・ヴォーリャの組織としての性格づけ Britannicaは「テロ活動を政治改革・専制打倒のための最善の手段とみなした」組織と記す [SRC-01570] 定評ある百科事典の記述。組織の目的・手段の選択に着目した性格づけ
同上 サンクトペテルブルク百科事典は「1870年代末から80年代にかけて最大の革命的社会組織」と記し、規模・社会的広がりに着目した性格づけを示す [SRC-01574] 地域百科事典プロジェクトの記述(運営主体の学術的裏付けは未確認)。本記事はいずれの評価語も断定せず、出典に帰属させて併記する
ロリス=メリコフ改革案が実現していた場合の展開 Britannicaは「実現していれば、ロシアにおける立憲的発展の芽になった可能性がある」という反実仮想を提示する [SRC-01569] 単独出典の見解であり、"might possibly"という二重の留保を伴う。歴史学上の「もし」の議論として紹介するにとどめ、史実として断定しない
暗殺の実行経過の詳細(爆弾2発の順序) Spartacus Educationalは、1発目(ルイサコフ・ミハイロフ、外れ)→皇帝が馬車を降りる→2発目(グリネヴィツキー、即死)という順序を記す [SRC-01575] 本記事が確認した出典のうち、この詳細な順序を記すのは単独系統のみ。Britannica・サンクトペテルブルク百科事典はこの順序の詳細までは記述していない
皇帝の死のしかた(即死か、負傷後の死亡か) Spartacus Educationalは「即死した(killed instantly)」と明記する一方、Encyclopedia.com収載のPeter Waldron執筆記事は「重傷を負い数時間後に冬宮で死亡した」と記す。サンクトペテルブルク百科事典は「負傷し死亡した」とのみ記し時点を特定しない。Britannicaの伝記項目は「致命傷を負った(mortally wounded)」と記すにとどまる [SRC-01575][SRC-01593][SRC-01574][SRC-01569] 出典間で実際に記述が割れている。本記事は特定の一説を断定せず、各出典の記述をそれぞれに帰属させて併記する

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

この暗殺は、ロシア帝国における立憲的な改革の可能性を巡る歴史学上の論点として言及される。Britannicaは、皇帝が署名したロリス=メリコフの改革案について「実現していれば、ロシアにおける立憲的発展の芽になった可能性がある」という見方を示す一方、これはあくまで単独出典による反実仮想の提示であり、確定した史実ではない[SRC-01569]。実際には、暗殺直後に即位したアレクサンドル3世がこの改革案を退けたことが、Britannicaの別の伝記項目(ポベドノスツェフ)に記されている[SRC-01572]。この暗殺後のロシアの政治的展開そのものは本記事の射程外である。

現代の視点

一つの改革案への署名と暗殺という出来事が同じ日に起きたという事実は、歴史上の「分岐点」を考える題材としてしばしば言及される。ただし、その改革が実現していた場合に歴史がどう変わったかという問いは、あくまで歴史学上の反実仮想(もし〜だったら、という議論)であり、本記事はこれを史実として提示するのではなく、出典に帰属させた見解として紹介するにとどめる[SRC-01569]。

出典一覧

  1. [SRC-01569] Alexander II | Tsar of Russia, Reforms & Emancipation of Serfs/Encyclopaedia Britannica(ランクB)
  2. [SRC-01570] Narodnaya Volya | Terrorism, Assassinations, Anarchism/Encyclopaedia Britannica(ランクB)
  3. [SRC-01571] Russian Empire | History, Facts, Flag, Expansion, & Map — The revolutionary movements/Encyclopaedia Britannica(ランクB)
  4. [SRC-01572] Konstantin Petrovich Pobedonostsev | Russian Statesman, Tsarist Adviser/Encyclopaedia Britannica(ランクB)
  5. [SRC-01573] Mikhail Tariyelovich, Graf Loris-Melikov | Facts, Biography, Reforms, & Alexander II/Encyclopaedia Britannica(ランクB)
  6. [SRC-01574] Narodnaya Volya — Encyclopaedia of Saint Petersburg/Encyclopaedia of Saint Petersburg (encspb.ru)(ランクC)
  7. [SRC-01575] Sophia Perovskaya — Spartacus Educational/Spartacus Educational Publishers Ltd(ランクC)
  8. [SRC-01576] Ignatei Grinevitski — Spartacus Educational/Spartacus Educational Publishers Ltd(ランクC)
  9. [SRC-01593] Alexander II (Encyclopedia of Modern Europe: Europe 1789-1914, by Peter Waldron — collected on Encyclopedia.com)/Encyclopedia.com(原著作: Encyclopedia of Modern Europe: Europe 1789-1914, Peter Waldron 執筆)(ランクB)(複数の資料を収載)
  10. [SRC-01594] Czar Alexander II assassinated in St. Petersburg | HISTORY/HISTORY(A&E Television Networks)(ランクB)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-19—
22026-09-19不明
32026-09-19不明

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