1900年世界 19世紀
客席は温かい拍手、批評は冷ややかだった夜——プッチーニ『トスカ』、緊迫のローマ初演
日付と暦
- 原典表記
- 1900年1月14日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1900-01-14(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 1月14日のページ
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概要
1900年1月14日の夜、ローマのコスタンツィ劇場で指揮台についた指揮者レオポルド・ムニョーネは[SRC-01201]、非常時には国王行進曲を演奏するよう警察から指示されていたという[SRC-01200]。当時のイタリアは政情不安の渦中にあり、劇場での騒擾の噂で人々は神経を尖らせていた[SRC-01200]。この夜、ジャコモ・プッチーニの新作歌劇『トスカ』が世界初演を迎えた[SRC-01200][SRC-01201][SRC-01202]。タイトルロールを歌ったのは、ルーマニア出身のソプラノ歌手ハリクレア・ダルクレーだったという[SRC-01203]。客席は温かい拍手で応えたが、翌朝の批評は総じて冷ややかだった[SRC-01200]。
本文
この夜、客席が見守ったのは、恋人である芸術家マリオ・カヴァラドッシをめぐって窮地に陥る歌手フローリア・トスカと、彼女に横恋慕する警視総監バロン・スカルピアの物語だった[SRC-01200]。カヴァラドッシが逃亡中の政治犯チェーザレ・アンジェロッティを匿ったことでスカルピアに拘束され、スカルピアはカヴァラドッシの解放と引き換えにトスカへ取引を持ちかけるが、トスカは最後にスカルピアを刺殺する、という筋書きである[SRC-01200]。
幕が上がってほどなく、客席後方で小さな混乱が起きた。EBSCOの解説はこれを座席をめぐる諍いだったと伝える[SRC-01200]。英語版ウィキペディアは、遅れて入場しようとした観客をめぐって「幕を下ろせ」という声が上がったと伝える[SRC-01204]。混乱はほどなくおさまり、上演は再開された[SRC-01200]。客席にはマルゲリータ王妃、プッチーニと同時代の作曲家マスカーニ、リヒャルト・ワーグナーの息子ジークフリートらが顔を並べていた[SRC-01201]。
アリアは温かく迎えられ、プッチーニは何度も舞台に呼び出されたが、当初期待されていたほどの熱狂には至らなかった[SRC-01200]。翌朝の批評は、この控えめな客席の反応をそのまま映すように冷ややかで、主な論調は「筋書きが音楽を圧倒している」というものだった[SRC-01200]。各地の批評家はこの作品を「堕落した」「血にまみれた」「暗く、悲劇的で、恐ろしい」、そして「表面的」とすら評したという[SRC-01201]。
ただし、すべての批評が否定一色だったわけではない。同じ初演の直後、雑誌ヌオーヴァ・アントロジアの批評家イッポリト・ヴァレッタは、プッチーニの管弦楽法を「自らのパレットにあらゆる色彩、あらゆる濃淡を見出す」と称賛する評を書いたと、英語版ウィキペディアは伝える[SRC-01204]。
歴史的背景
プッチーニ博物館の公式解説によれば、『トスカ』誕生のきっかけは11年前、1889年2月14日にさかのぼる。プッチーニは台本作家フェルディナンド・フォンタナとともにミラノで、サラ・ベルナール主演によるヴィクトリアン・サルドゥーの戯曲『ラ・トスカ』を観劇し、深く感嘆したという[SRC-01202](観劇の時期・場所については登録出典間で記述が異なる。後掲「異説・論争」参照)。プッチーニはその直後、出版者ジューリオ・リコルディに宛て、サルドゥーから台本化の権利を取得してほしいと懇願する手紙を書いた[SRC-01202]。
計画は一度中断し、1894年9月にはリコルディが作曲家アルベルト・フランケッティに正式に作曲を委嘱したが、フランケッティは翌1895年5月、「叙情的な部分」の作曲に困難を抱えて撤退した[SRC-01202]。同年8月9日、プッチーニは「トスカをやる。イッリカによる3幕の並外れた台本だ」と書き記した[SRC-01202]。台本はルイジ・イッリカにジュゼッペ・ジャコーザが加わって仕上げられたが、ジャコーザは1896年、作品の内側に入り込むほど「音楽劇としての翻案不可能性を確信する」とリコルディに伝えていたという[SRC-01201]。
舞台がローマであることから、リコルディはローマでの初演を手配した。これによりプッチーニが本来予定していたアルトゥーロ・トスカニーニはミラノ・スカラ座の仕事で指揮できなくなり、代わってムニョーネが指揮者に任命されたと、英語版ウィキペディアは伝える[SRC-01204]。サルドゥーは、この戯曲の着想を16世紀フランスの宗教戦争期のある出来事に得たと語ったという[SRC-01200]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1889-02-14(グレゴリオ暦) | プッチーニ博物館の解説によれば、プッチーニが台本作家フォンタナとともにミラノでサラ・ベルナール主演のサルドゥー『ラ・トスカ』を観劇(観劇の時期・場所には異説あり。「異説・論争」欄参照) | [SRC-01202] |
| 1895-08-09(グレゴリオ暦) | プッチーニが「トスカをやる」と書き記す | [SRC-01202] |
| 1900-01-14(グレゴリオ暦) | ローマのコスタンツィ劇場で『トスカ』世界初演。指揮はレオポルド・ムニョーネが務めた | [SRC-01200][SRC-01201] |
| 1900-03-17(グレゴリオ暦) | ミラノ・スカラ座での上演(アルトゥーロ・トスカニーニ指揮) | [SRC-01204] |
異説・論争定説のない論点があります
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 開幕直後の客席の混乱の性質 | 座席をめぐる諍いだった | [SRC-01200] | EBSCOの解説による整理 |
| 同上 | 遅れて入場しようとした観客をめぐる騒ぎで「幕を下ろせ」の声が上がった | [SRC-01204] | 英語版ウィキペディアが伝える経緯。両出典とも開幕直後に一時的な混乱があったこと自体は一致するが、原因の描写が異なるため、本サイトはいずれか一方を採らずそのまま併記する |
| 初演当時の批評は一様に否定的だったか | 総じて冷淡だった | [SRC-01200][SRC-01201][SRC-01202] | 独立した3系統の出典が一致して伝える、初演当時の批評の主論調 |
| 同上 | 具体的には「堕落した」「血にまみれた」「暗く、悲劇的で、恐ろしい」「表面的」といった評が相次いだ | [SRC-01201] | ボストン交響楽団のプログラムノートが伝える逐語の評 |
| 同上 | 肯定的な評も存在した——ヴァレッタは管弦楽法を称賛した | [SRC-01204] | 批評の主論調が冷淡だったこと自体は複数出典が支持するが、「初演は酷評一色だった」と単純化はできないことを示す |
| 『トスカ』構想の発端となった観劇の時期・場所 | 1889年2月14日、ミラノでフォンタナとともに観劇(3月17日にトリノで再度観劇) | [SRC-01202] | プッチーニ博物館の公式解説による整理 |
| 同上 | 1895年、フィレンツェで観劇 | [SRC-01200] | EBSCOの解説による整理。本サイトはいずれが正しいかを判定せず、登録出典間で記述が異なる点をそのまま併記する |
関連する出来事
『トスカ』の台本は、前作『ラ・ボエーム』(1896年初演)でも顔を合わせたプッチーニ・イッリカ・ジャコーザの3人による2度目の共同作業で作られたという[SRC-01201]。初演からおよそ2か月後の1900年3月17日には、ミラノ・スカラ座でアルトゥーロ・トスカニーニの指揮による上演が行われた[SRC-01204]。
関連人物
- ジャコモ・プッチーニ(作曲者): プッチーニ博物館の解説によれば1889年にサルドゥーの戯曲を観劇したことをきっかけに『トスカ』の作曲を志したという(観劇の時期・場所には異説がある。「異説・論争」欄参照)。台本を巡る紆余曲折を経て1900年の初演にこぎつけた[SRC-01202]。
- ハリクレア・ダルクレー(タイトルロール): ルーマニア出身のソプラノ歌手で、初演でトスカ役を歌ったという[SRC-01203]。
- レオポルド・ムニョーネ(指揮者): 初演の指揮を務めた。10年前には同じコスタンツィ劇場でマスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ』の初演も指揮していた[SRC-01201]。
歴史的意義
初演の酷評は、この作品だけの特殊な出来事ではなかった。ボストン交響楽団のプログラムノートによれば、原作であるサルドゥーの戯曲『ラ・トスカ』(1887年)も、批評家ジュール・ルメートルから「残酷な扇情性」を非難され、「サルドゥー氏は血に飢えている。彼は劇壇のカリグラだ」と評されていたという[SRC-01201]。
同じプログラムノートは、1956年に音楽学者ジョセフ・カーマンが著書『Opera as Drama』初版で『トスカ』を「安っぽい衝撃作」と断じ、後に「チェーンソー映画」にも喩えたと伝えている[SRC-01201]。初演当時の酷評に通じる評価は、半世紀以上を経ても形を変えて存在し続けたことになる。
他方、プッチーニ博物館の公式解説は、『トスカ』がまもなくレパートリーとなり、世界の主要劇場で上演されるようになったと記している[SRC-01202]。批評における酷評と、劇場での定着というこの二つの流れは、当初から並行して存在していたことになる。
現代の視点
EBSCOの解説は、賛否の割れた評にもかかわらず『トスカ』はその後、画期的な手法として評価され、オペラのレパートリーの定番であり続けていると述べている[SRC-01200]。ボストン交響楽団のプログラムノートは一歩踏み込み、まさにこの作品が持つ「危険性」——初演当時に批評家が忌避した性的・暴力的な要素そのもの——こそが、今日まで観客の前にこの作品を留め続けてきたのではないかと評している[SRC-01201]。これは本サイトの整理ではなく、同資料自身の解釈である。
出典一覧
- [SRC-01200] Puccini's Tosca Premieres in Rome/EBSCO Information Services(EBSCO Research Starters)(ランクB)
- [SRC-01201] Puccini: Tosca(プログラムノート)/Boston Symphony Orchestra(執筆: Helen M. Greenwald)(ランクA)
- [SRC-01202] Tosca(Museo Puccini「作品」ページ)/Museo Puccini(プッチーニ博物館、イタリア・ルッカ)(ランクA)
- [SRC-01203] Hariclea Darcle (1860-1939)/Institutul Cultural Român(ルーマニア文化院/ICR)(ランクA)
- [SRC-01204] Tosca(英語版ウィキペディア)/Wikimedia Foundation(英語版ウィキペディア)(ランクC)(複数の資料を収載)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-16 | — |
| 2 | 2026-09-16 | あり |
| 3 | 2026-09-16 | あり |
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