1815年世界 19世紀

ナポレオンがエルバ島を脱出したのは1815年2月26日——上陸した3月1日、パリに入城した3月20日とは、別の日である

日付と暦

原典表記
1815年2月26日(グレゴリオ暦)
換算
1815-02-26(グレゴリオ暦)
掲載日
2月26日のページ

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概要

1815年2月26日、地中海のエルバ島に流刑されていたナポレオン・ボナパルトは、島の監視にあたっていた英国委員ニール・キャンベル大佐が数日間の不在を告げた隙を突いて、同島を脱出した[SRC-01545][SRC-01546]。自ら準備していた将兵を伴っていたとされる(人数は出典により差がある。下記異説・論争欄参照)[SRC-01548][SRC-01549]。この脱出そのものは2月26日の出来事であり、ナポレオンが南仏のゴルフ=ジュアン付近(アンティーブ近郊)に上陸したのは3月1日、パリへ入城して帝政を復活させたのは3月20日である——いずれも脱出当日とは異なる日付である[SRC-01548][SRC-01550]。この一連の政権復帰は、後に「百日天下」と呼ばれることになる[SRC-01550]。

本文

ナポレオンは1814年4月6日、フランス皇帝の座を無条件で退位した[SRC-01547][SRC-01548]。退位から5日後に取り交わされたフォンテーヌブロー条約は、ナポレオンにエルバ島(ならびにパルマ・ピアチェンツァ・グァスタッラ諸公国)の完全な主権を認め、本人と家族への年金、および皇帝の地位・称号を保持する権利を与えた[SRC-01545]。ナポレオンはタレーランの支配下にあったフランス海軍を信頼しておらず、英国船でエルバ島へ渡ることを選んだと歴史家ピエール・ブランダは述べる[SRC-01546]。同年5月からナポレオンはこの島を統治し[SRC-01549]、島には英国政府が派遣した監視官(コミッショナー)ニール・キャンベル大佐が駐在した[SRC-01545]。

1815年2月、キャンベル大佐は数日間の不在を皇帝に告げてエルバ島を離れた[SRC-01546]。実際には脱出前の10日間にわたってエルバ島を離れており、フィレンツェ駐在の英国公使バーガーシュ卿から2月24日に島へ戻るよう強く求められていたが、従わなかった[SRC-01545]。同記事の著者(Katharine MacDonogh)は、この不在を明白な職務怠慢だったと評している[SRC-01545]。ナポレオン自身にとって、これは見過ごせない好機だったと歴史家ブランダは分析する[SRC-01546]。

1815年2月26日、ナポレオンは自らに従う将兵とともにエルバ島を脱出した[SRC-01545][SRC-01547][SRC-01548]。同行した兵力の人数は、出典によって「約1,000人」[SRC-01548]、「1,050人」[SRC-01547]、「約600人」[SRC-01549]などの差がある。この決行日を知っていたのは、リヴォルノ駐在のフランス領事でタレーランの手先だったマリオッティが島内で雇っていたスパイ(「油商人」と呼ばれた人物)だったが、彼は英国を信用しきれず、間に合えば英国海軍に警報を発しえた人物アダイにこの事実を伝えなかったと伝わる[SRC-01545]。事後、ウェリントン公は、この計画を事前に知っていれば地中海の英国艦隊を島の沖に展開できたはずだと書簡に記している[SRC-01545]。

ナポレオンがこの時期に脱出を決断した背景について、歴史家ブランダは2つの理由を指摘する。第一に、当時開催中だったウィーン会議が、自身をエルバ島よりさらに遠方へ移送する決定を下して閉幕することへの懸念である[SRC-01546]。実際、脱出前からナポレオンをより遠いセントヘレナ島へ移送するという噂が流れており、この噂自体がナポレオンの決意をむしろ強めていたと伝えられる[SRC-01545]。第二に、フランス政府がエルバ島を海上封鎖し、フォンテーヌブロー条約に基づく支払いを果たしていなかったことである[SRC-01546]。

脱出の後、ナポレオンは南仏のゴルフ=ジュアン付近(アンティーブ近郊)に3月1日に上陸し[SRC-01548][SRC-01550]、3月20日にパリへ入城し帝政を復活させた[SRC-01548][SRC-01550]。この上陸とパリ入城は、脱出そのもの(2月26日)とは異なる、後続の日付である。この政権はワーテルローでの敗北(同年6月18日)と2度目の退位(6月22日)を経て終わり、後に「百日天下」と呼ばれるようになった[SRC-01548][SRC-01550]。ナポレオンはその後セントヘレナ島へ流刑され、1821年5月5日、同島で没した[SRC-01547][SRC-01548]。

歴史的背景

1814年春、20年以上続いた対仏戦争の末にナポレオンが退位し、ルイ18世のもとでブルボン王政が復古した[SRC-01547][SRC-01548]。ヨーロッパの戦後処理を話し合うウィーン会議が開催されるなか列強間の対立は先鋭化しており、1815年初めまでにはオーストリア・フランス・英国が対ロシア・プロイセン枢軸の秘密同盟を結ぶに至っていた[SRC-01545]。一方、エルバ島のナポレオンに対しては、秘密裏の監視や通信の妨害、銀行取引の妨害など、フランス政府による圧力が加えられていたと歴史家ブランダは述べる[SRC-01546]。ブランダはウィーン会議の行方とキャンベル大佐不在という2つの要因を脱出の決断理由として挙げる一方[SRC-01546]、他の出典にはフランス国内の王政への不満を脱出の契機として挙げるものもある。Encyclopedia of Modern Europe(Leggiere執筆)はフランス国内の不満の高まりを知ったことを機に脱出したと記し[SRC-01548]、同じくSRC-01547に収載されるEncyclopedia of World Biography項目(無署名)も復古王党派へのフランス国民の不満を背景にナポレオンが権力復帰を計画したと記す[SRC-01547]。百科事典マイペディアも、ルイ18世による王政復古への国民の反対ぶりを脱出の契機として記している[SRC-01550]。SRC-01547収載のEncyclopedia of Modern Europe項目(Englund執筆)はまた、脱出後の帰還について、復古ブルボン王政による暗殺の陰謀の噂にも促されたとみられるとも記している[SRC-01547]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1814年4月6日(グレゴリオ暦) ナポレオン、フランス皇帝を無条件退位 [SRC-01547][SRC-01548]
1814年4月(グレゴリオ暦、退位から5日後) フォンテーヌブロー条約により、エルバ島等の主権と年金がナポレオンに認められる [SRC-01545]
1814年5月(グレゴリオ暦) ナポレオン、エルバ島の統治を開始 [SRC-01549]
1815年2月26日(グレゴリオ暦) ナポレオン、エルバ島を脱出(本記事の主題) [SRC-01545][SRC-01547][SRC-01548]
1815年3月1日(グレゴリオ暦) 南仏ゴルフ=ジュアン付近(アンティーブ近郊)に上陸 [SRC-01548][SRC-01550]
1815年3月20日(グレゴリオ暦) パリへ入城し帝政を復活(「百日天下」の始まり) [SRC-01548][SRC-01550]
1815年6月18日(グレゴリオ暦) ワーテルローの戦いに敗北 [SRC-01548]
1815年6月22日(グレゴリオ暦) 2度目の退位 [SRC-01548][SRC-01550]
1821年5月5日(グレゴリオ暦) セントヘレナ島で死去 [SRC-01547][SRC-01548]
異説・論争定説のない論点があります
論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
エルバ島脱出時にナポレオンが率いた兵力の人数 A: 約1,000人/B: 1,050人/C: 約600人 A=[SRC-01548](Encyclopedia of Modern Europe)/B=[SRC-01547](Encyclopedia of World Biography)/C=[SRC-01549](日本大百科全書) 本記事が確認した範囲では、いずれの数値についても算出根拠(名簿等)を示す記述は見当たらず、参考事典項目間の記述の差にとどまる。本記事は本文で複数の数値を併記し、単一の数値を断定しない
「エルバ島脱出」と「南仏上陸」の日付の区別 A: 脱出(2月26日)と上陸(3月1日)を別の日付として明確に区別する/B: 脱出と上陸を「3月1日」という同一の日付句の中で記す A=[SRC-01545][SRC-01547][SRC-01548](英語圏3系統)/B=[SRC-01550](コトバンク収載・日本大百科全書「百日天下」の項、執筆者金澤誠) 脱出日を2月26日と明記する系統は3件(SRC-01545・SRC-01547収載Encyclopedia of World Biography項目・SRC-01548)。このうち、脱出日(2/26)と上陸日(3/1)を明確に分けて記すのはSRC-01548の1系統のみである。SRC-01545は上陸そのものに言及せず、SRC-01547収載Encyclopedia of Modern Europe項目(Englund執筆)は上陸を「3月上旬」とするのみで日を明示しない。日本語の事典項目のうち1件(SRC-01550収載・日本大百科全書、執筆者金澤誠)は脱出と上陸の2つの動作をまとめて「3月1日」と記しており、脱出そのものの日付を明示的には区別していない。本記事は、脱出日を明記する複数系統(特に脱出日・上陸日の双方を分けて明記するSRC-01548)に基づき、脱出日を2月26日とする(確実)
パリでの復位(帝政復活)の日付 A: 3月20日にパリへ入城し復位/B: 3月21日に自ら復位 A=[SRC-01548][SRC-01550](複数系統が一致)/B=[SRC-01547](Encyclopedia of World Biography、無署名項目) 独立した複数系統(Gale刊行の署名事典・日本語事典3件)が3月20日で一致する一方、無署名の1項目のみが3月21日とする。本記事は多数系統の一致に基づき3月20日を採用する(確実)

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

この脱出は、1814年のナポレオン退位からわずか10か月あまりで、ヨーロッパの政治秩序を再び動揺させる契機となった。ナポレオンの実際の帰還(フランスへの上陸)は、当時ウィーンに集まっていた列強に衝撃を与えたと記録される[SRC-01547]。脱出そのものは、エルバ島という小さな監視体制の間隙を突いた出航にすぎなかったが、その後の百日天下・ワーテルローの戦いを経て、結果としてナポレオンの統治とナポレオン戦争の時代に終止符を打つ一連の経緯の起点となった(本サイトの整理)[SRC-01548][SRC-01550]。

現代の視点

2015年、南仏上陸から200年の節目にあたり、上陸地ゴルフ=ジュアンでは、上陸の様子を再現する行事や関連の展示を含む記念行事が予定されていた(2015年2月28日〜3月1日)[SRC-01551]。少人数の監視体制の間隙を突いて一人の元皇帝が地中海を渡ったというこの出来事は、要人の身柄をどのように監視・管理するかという課題について、現代においても振り返られる事例の一つである(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-01545] A sympathetic ear: Napoleon, Elba and the British – from History Today (1994), vol. 44/Fondation Napoléon(napoleon.org)(ランクB)
  2. [SRC-01546] Pierre Branda: "On Elba, Napoleon once again took charge of his own destiny" (interview, April 2014)/Fondation Napoléon(napoleon.org)(ランクB)
  3. [SRC-01547] Napoleon I (Encyclopedia.com aggregator page)/Encyclopedia.com(Gale/Cengage Learning刊行の複数参考事典項目を集約するサイト)(ランクB)(複数の資料を収載)
  4. [SRC-01548] Hundred Days (Encyclopedia.com aggregator page)/Encyclopedia.com(Gale/Cengage Learning刊行の複数参考事典項目を集約するサイト)(ランクB)(複数の資料を収載)
  5. [SRC-01549] エルバ島(エルバとう)とは? 意味や使い方 - コトバンク/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING運営)(ランクB)(複数の資料を収載)
  6. [SRC-01550] 百日天下(ヒャクニチテンカ)とは? 意味や使い方 - コトバンク/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING運営)(ランクB)(複数の資料を収載)
  7. [SRC-01551] Napoleon at Golfe-Juan 1815/2015: Bicentenary Events/Fondation Napoléon(napoleon.org)(ランクB)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-18—
22026-09-18不明
32026-09-19不明
42026-10-09なし

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