1815年世界 19世紀
ナポレオンがパリに入城し帝政を復活させたのは1815年3月20日——「百日天下」という呼び名は、ルイ18世の逃亡から数えられていた
日付と暦
- 原典表記
- 1815年3月20日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1815-03-20(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 3月20日のページ
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概要
1815年3月20日、地中海のエルバ島を脱出し南仏に上陸していたナポレオン・ボナパルトが、パリのチュイルリー宮殿に入城し、帝政を復活させた[SRC-01724][SRC-01726][SRC-01728][SRC-01729]。その前日、国王ルイ18世はパリを去り、リールを経てベルギーへ逃れていた[SRC-01726][SRC-01727][SRC-01730]。この政権は、のちに「百日天下(Cent-Jours)」と呼ばれるようになるが、この呼称は当初、ナポレオンの帰還期間ではなく、ルイ18世が首都を離れていた期間を指して用いられたと伝えられる[SRC-01725]。本記事は、パリ入城という出来事そのものと、「百日天下」という呼称の起点・終点をめぐる出典間の相違を整理する。
本文
ナポレオンは1815年2月26日にエルバ島を脱出し(本サイトの別記事の主題)[SRC-01548]、3月1日、南仏ゴルフ=ジュアン付近に上陸した[SRC-01729]。そこから、グルノーブル南方のラフレーで王政側の第5戦列連隊が合流し、3月7日にはグルノーブルに到達するなど、進軍する先々で軍が加わりながら、ナポレオンは北上を続けた[SRC-01724][SRC-01729]。
パリでは、ナポレオンの接近が伝わると、政府内に動揺が広がった。3月17日にはオーセールで元帥ネイがナポレオン側へ寝返り[SRC-01727]、王政側が派遣した部隊も、市門を越えるとすぐに兵士たちが「皇帝万歳」と叫んでナポレオンを出迎えに進み、同行していた王党派の義勇兵は踵を返してパリへ戻った[SRC-01730]。3月18日、チュイルリー宮殿では国王がパリに留まるべきかどうかが協議されたが、翌19日、抵抗は不可能と判断したルイ18世はリールへ向かうことを宣言した[SRC-01730]。ルイ18世は3月19日にチュイルリー宮殿を去った(出典によっては3月20日朝とも記される。異説・論争欄参照)[SRC-01726][SRC-01730]。作家シャトーブリアンは、王が発つという報せを友人から19日の夜に受け取ったと記録している[SRC-01727]。ルイ18世は道中でリールに立ち寄ったのち国境を越えてベルギーに入り、3月30日、ガンに亡命政府を構えた[SRC-01726][SRC-01727][SRC-01730][SRC-01548]。
その翌日、1815年3月20日、ナポレオンはパリに到着し、チュイルリー宮殿に入城した[SRC-01724][SRC-01729][SRC-01730]。この宮殿は、直前にルイ18世が急いで立ち去ったばかりの場所だった[SRC-01724]。ナポレオンはここで帝政を復活させた[SRC-01724][SRC-01726][SRC-01548]。南仏上陸からパリ入城までのこの行軍は、目立った軍事衝突を伴わずに進んだ(本サイトの整理。個々の出典は、ラフレーで守備隊の兵士がライフルを下ろして合流した場面や、行く先々の守備隊が寝返った経緯を個別に記録するほか、抵抗を受けずパリへ進軍したと直接記す出典もある)[SRC-01724][SRC-01547][SRC-01729][SRC-01730]。この行軍を「一発の火薬も燃やすことなく、彼が語っていたように、腕に武器を携えたままフランスを征服した」と記す出典があるが、その出典は前半(書き手の地の文)と後半(ナポレオン自身の言葉として示す部分)を区別している。この表現がナポレオン自身の逐語的な発言であることを直接裏付ける一次資料は、本記事の調査範囲では確認できなかった[SRC-01730]。
歴史的背景
1814年4月6日、ナポレオンは無条件退位し、エルバ島に流刑された。同島では、およそ10か月間その主権者として過ごしたと伝えられる(本サイトの別記事の主題)[SRC-01547][SRC-01548]。同年、ルイ18世のもとでブルボン王政が復古した[SRC-01547]。しかし1815年2月26日、ナポレオンはエルバ島を脱出し、フランス本国への帰還を開始した[SRC-01548]。パリの王政側は、1815年3月5日にナポレオンの上陸を伝える電信を受け取ると、彼を反逆者・反乱者と宣告し追捕を命じる布告を出した[SRC-01730]。3月17日に市門を越えて迎撃に向かった部隊の兵士たちのほとんどは、三色帽章を1年ほど前から保持しており、市門を越えるとそれを掲げてただちにナポレオン側へ寝返った[SRC-01730]。ルイ18世自身はパリに留まる意向だったと伝えられるが、抵抗は不可能と判断してリールへ向かうと宣言し、モルティエ元帥の進言と、公然とナポレオン支持を表明していた守備隊の空気に押されて、フランスを去る決断をしたとされる[SRC-01730]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1815年2月26日(グレゴリオ暦) | ナポレオン、エルバ島を脱出(本サイトの別記事の主題) | [SRC-01548] |
| 1815年3月1日(グレゴリオ暦) | 南仏ゴルフ=ジュアン付近に上陸 | [SRC-01729] |
| 1815年3月7日(グレゴリオ暦) | グルノーブルに到達(それまでに南方のラフレーで王政側の第5戦列連隊が合流) | [SRC-01724] |
| 1815年3月17日(グレゴリオ暦) | オーセールで元帥ネイが合流 | [SRC-01727] |
| 1815年3月19日(グレゴリオ暦) | ルイ18世、チュイルリー宮殿を去りパリを発つ(出典によっては翌20日朝。異説・論争欄参照) | [SRC-01726][SRC-01730] |
| 1815年3月20日(グレゴリオ暦) | ナポレオン、チュイルリー宮殿に入城し帝政を復活(本記事の主題) | [SRC-01724][SRC-01726][SRC-01728][SRC-01729][SRC-01550] |
| 1815年3月30日(グレゴリオ暦) | ルイ18世、ガンに亡命政府を構える | [SRC-01726] |
| 1815年6月18日(グレゴリオ暦) | ワーテルローの戦いに敗北 | [SRC-01548] |
| 1815年6月22日(グレゴリオ暦) | ナポレオン、2度目の退位 | [SRC-01548][SRC-01726] |
| 1815年7月8日(グレゴリオ暦) | ルイ18世、パリに帰還(第二次王政復古)。セーヌ県知事シャブロルが歓迎演説で「百日天下」と呼んだとされる | [SRC-01725][SRC-01726][SRC-01728] |
異説・論争定説のない論点があります
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| ルイ18世がパリ(チュイルリー宮殿)を去った日 | A: 1815年3月19日/B: 同年3月13日/C: 同年3月20日朝 | A=[SRC-01726](Fondation Napoléon年表。直接「quitté Paris le 19 mars」と記す)/B=[SRC-01728](Britannica公式サイト)/C=[SRC-01730](La France pittoresque。「abandonné le matin par Louis XVIII」)。なお[SRC-01727]は退去当日ではなくシャトーブリアンが報せを受けた時刻(19日夜)を記す間接証言、[SRC-01729]は「遅くとも前日には」という上限記述であり、いずれもAを直接確定する独立系統としては数えない | Aを直接記すのはSRC-01726の1系統のみで、SRC-01727・SRC-01729は間接証言・上限記述にとどまる。SRC-01730はさらに別の日(3月20日朝)を記し、SRC-01728は3月13日と記す。いずれが正確かを判定する記述は本記事が確認した範囲では見当たらず、本記事はAを本文の記述として採用しつつ(有力)、3値を併記する(対立あり) |
| 「百日天下」の終期をどこに置くか | A: 1815年6月18日(ワーテルローでの敗北)/B: 同年6月22日(ナポレオンの2度目の退位)/C: 同年6月29日/D: 同年7月8日(ルイ18世のパリ帰還・第二次王政復古) | A=[SRC-01547](収載Encyclopedia of Modern Europe、著者Englund)/B=[SRC-01548](収載Encyclopedia of Modern Europe、著者Leggiere)・[SRC-01550](収載ブリタニカ国際大百科事典・旺文社世界史事典)/C=[SRC-01550](収載日本大百科全書、執筆者金澤誠)/D=[SRC-01725](Fondation Napoléon「Cent-Jours」項)・[SRC-01728](Britannica公式サイト) | 出典によって終期の定義が4通りに分かれる。Dの系統は、「百日天下」という呼称自体が、セーヌ県知事シャブロルの1815年7月8日の演説(ルイ18世帰還を迎えるもの)に由来するという成立経緯に基づく(本記事はこの成立経緯をDの根拠として重視する)。なお本サイトの姉妹記事(ナポレオンのエルバ島脱出を扱う記事)はAの立場でこの政権の終わりを記しており、本記事はここでその相違を開示する。いずれの終期がより一般的かを判定する記述は、本記事が確認した範囲では見当たらない。4値を併記する(対立あり) |
| ナポレオンがパリ(チュイルリー宮殿)に入城し復位した日 | A: 1815年3月20日/B: 同年3月21日 | A=[SRC-01724][SRC-01726][SRC-01728][SRC-01729][SRC-01730][SRC-01550](Fondation Napoléon2件・Britannica公式サイト・Herodote.net・La France pittoresque・コトバンク収載3事典が一致)/B=[SRC-01547](収載Encyclopedia of World Biography、無署名) | 多数系統の一致に基づき、本記事はAを本文で採用する(確実)。収載Encyclopedia of World BiographyのみがBと記すが、他系統との整合性を裏付ける記述は本記事が確認した範囲では見当たらない |
関連する出来事
- 1815年2月26日、ナポレオンはエルバ島を脱出した。本記事のパリ入城は、この脱出に始まる一連の行動の帰結である(本サイトの別記事の主題)[SRC-01548]。
- 1815年3月1日、ナポレオンは南仏ゴルフ=ジュアン付近に上陸した(本記事のパリ入城の前段)[SRC-01729]。
- 1815年6月18日、ナポレオンはワーテルローの戦いに敗れた[SRC-01548]。この敗北を機に、6月22日の2度目の退位、7月8日のルイ18世パリ帰還(第二次王政復古)へと事態が進んだが、「百日天下」と呼ばれる政権期間の終期をどこに置くかは出典によって割れる(異説・論争欄参照)[SRC-01548][SRC-01726]。
関連人物
- ナポレオン・ボナパルト: エルバ島を脱出し、パリに入城して帝政を復活させた当人[SRC-01724][SRC-01726][SRC-01729]。
- ルイ18世: ナポレオン入城の前にチュイルリー宮殿を去り、ベルギー・ガンへ逃れたフランス国王(退去日は出典により3月19日・3月20日朝の説がある。異説・論争欄参照)[SRC-01726][SRC-01727][SRC-01730]。
- シャブロル・ド・ヴォルヴィック: 当時のセーヌ県知事。1815年7月8日、ルイ18世を迎える演説で「百日天下」という呼称を初めて用いたとされる[SRC-01725][SRC-01728]。
歴史的意義
このパリ入城は、1814年のナポレオン退位からおよそ1年後、ヨーロッパの政治秩序を再び動揺させる出来事となった。ワーテルローでの決定的な敗北を経てナポレオンの統治は3か月余りで終わるが、この期間はのちに「百日天下」と呼ばれ、フランス史の一区切りとして記憶されることとなった[SRC-01548][SRC-01726]。もっとも、その呼称そのものの起点は、ナポレオンの視点からではなく、逃れていたルイ18世の視点から名づけられたものであるという成立経緯は、この出来事が同時代人によってどのように受け止められていたかを示す一例である(本サイトの整理)[SRC-01725]。
現代の視点
ナポレオンが南仏ゴルフ=ジュアンからグルノーブルまで進んだ経路は、現在「ルート・ナポレオン(Route Napoléon)」と名づけられ、記念碑や案内板が設置された観光ルートとなっている[SRC-01724]。この出来事は、政権の正統性が軍や民衆の支持によっていかに脆くも移り変わりうるかという事例として、現代でも振り返られている(本サイトの整理)。
出典一覧
- [SRC-01724] The Route Napoléon/Fondation Napoléon(napoleon.org、英語版)(ランクB)
- [SRC-01725] Cent-Jours(辞典項目「その時代の表現」)/Fondation Napoléon(napoleon.org、フランス語版「Dico d'époque」欄)(ランクB)
- [SRC-01726] Février-juillet 1815 : d'une île à l'autre, les Cent-Jours/Fondation Napoléon(napoleon.org、フランス語版「Histoire des 2 Empires」年表欄。著者 Marie de Bruchard)(ランクB)
- [SRC-01727] Chateaubriand et les Cent-Jours/Fondation Napoléon(napoleon.org。著者 Jean-Paul Clément。初出: Revue du Souvenir Napoléonien 第463号、2006年2-3月)(ランクB)
- [SRC-01728] Hundred Days | Napoleon, Waterloo, Reforms/Encyclopaedia Britannica(britannica.com。編集: Britannica Editors/最終改訂 Meg Matthias)(ランクB)
- [SRC-01729] 1er mars 1815 - Napoléon Ier débarque à Golfe-Juan/Herodote.net(著者 Fabienne Manière、パリ古文書学校卒業。国立公文書館の史料調査部門に勤務)(ランクB)
- [SRC-01730] 20 mars 1815 : Louis XVIII quitte les Tuileries et Napoléon entre dans Paris/La France pittoresque(無署名の「éphéméride」欄記事。編集責任者 Valéry Vigan)(ランクC)
- [SRC-01547] Napoleon I (Encyclopedia.com aggregator page)/Encyclopedia.com(Gale/Cengage Learning刊行の複数参考事典項目を集約するサイト)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-01548] Hundred Days (Encyclopedia.com aggregator page)/Encyclopedia.com(Gale/Cengage Learning刊行の複数参考事典項目を集約するサイト)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-01550] 百日天下(ヒャクニチテンカ)とは? 意味や使い方 - コトバンク/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING運営)(ランクB)(複数の資料を収載)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-27 | — |
| 2 | 2026-09-28 | あり |
| 3 | 2026-09-28 | あり |
| 4 | 2026-10-09 | なし |
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