1815年世界 19世紀

ワーテルローの戦い、1815年6月18日——ウェリントン・ブリュッヒャー連合軍がナポレオン軍を破ったが、ウェリントンの公式報告書に死傷者総数の記載はまだなかった

日付と暦

原典表記
1815年6月18日(グレゴリオ暦)
換算
1815-06-18(グレゴリオ暦)
掲載日
6月18日のページ

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概要

1815年6月18日、ベルギー(当時ネーデルラント)のワーテルロー近郊で、ウェリントン公爵率いる連合軍(英・蘭・独諸邦の混成軍)とブリュッヒャー元帥率いるプロイセン軍が、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍を破った[SRC-02472][SRC-02473][SRC-02474]。ウェリントンが戦闘翌日(6月19日)付でロンドンへ送った公式報告書は、士官の戦死者・負傷者の氏名を記したものの、兵全体の死傷者総数は「まだ集計表を入手していない」として記していなかった[SRC-02472]。この敗北の4日後の6月22日、ナポレオンは2度目の退位をした[SRC-01548]。

本文

1815年6月15日払暁、ナポレオンはサンブル川を越え[SRC-02473]、プロイセン軍の哨戒部隊をチュアン・ロベーズで攻撃した[SRC-02472]。同日夕刻、フランス軍はブリュッセル方面の道を進み、フラーヌでヴァイマール公の旅団を攻撃し、同旅団をカトル・ブラの農家まで後退させた。オラニエ公はただちにこの旅団を増援した[SRC-02472]。翌16日、フランス軍主力がリニーでブリュッヒャーのプロイセン軍を破り、退却させた(プロイセン軍の損害は2万人超、フランス軍はその半分程度と記録される)[SRC-02473]。同じ6月16日、ウェリントンはカトル・ブラの交差点で別のフランス軍部隊の攻撃を撃退したが、プロイセン軍のリニーでの敗北により、ウェリントンも後退を強いられた[SRC-02472][SRC-02473]。フランス軍のある部隊は、参謀部の不手際によりリニーとカトル・ブラの間を往復するだけで、いずれの戦闘にも加わらなかったと記録される[SRC-02473]。

ブリュッヒャーは消耗した軍を立て直すため、6月16日夜のうちにワーヴルへ後退・再集結することを決めた[SRC-02472]。4万8000人規模だったプロイセン軍は、経験豊富な将校団・参謀部の力により、リニー敗北からおよそ48時間でワーテルロー戦域へ移動し再編成を終えたと英国立陸軍博物館は記す[SRC-02473]。ウェリントンも17日朝10時、カトル・ブラからジュナップを経てワーテルローへ後退し、プロイセン軍の到着を見込んで6月18日に踏みとどまって戦う決断をした[SRC-02472][SRC-02473]。ワーテルロー戦場での交戦兵力は、英国立陸軍博物館によれば、リニー後にプロイセン軍追撃のため3万3000人を分遣したナポレオンのフランス軍が7万2000人・大砲246門、ウェリントンの連合軍が6万8000人・大砲156門だったとされる[SRC-02473]。

戦闘は、ウェリントンの報告書によれば午前10時ごろ[SRC-02472]、英国立陸軍博物館によれば午前11時30分ごろ[SRC-02473]、ナポレオン軍によるウーグモン(Hougoumont)の邸宅・庭園への攻撃をもって始まった(英国立陸軍博物館は、この攻撃の前に大規模な砲撃があったと記す)[SRC-02472][SRC-02473]。この哨所はバイン将軍配下の近衛旅団からの分遣隊が守り、度重なる攻撃にもかかわらず終日維持された[SRC-02472][SRC-02473]。中央のラ・エ・サント(La Haye Sainte)農場は、守備するドイツ軍団軽歩兵大隊が弾薬を使い果たしたため、戦闘終盤に陥落した(英国立陸軍博物館は午後6時ごろと記す)[SRC-02472][SRC-02473]。フランス軍騎兵は英国歩兵への攻撃を繰り返したが、いずれも撃退され、その機会にサマセット卿旅団・ポンソンビー少将旅団の英国重騎兵が活躍し、ポンソンビー少将旅団は多数の捕虜と鷲章1旒を奪取した[SRC-02472][SRC-02473]。

午後半ば、プロイセン軍到着の報せによりナポレオンは右翼に防衛線を形成せざるを得なくなったと英国立陸軍博物館は記す[SRC-02473]。ウェリントン自身の報告書は、午後7時ごろ、フランス軍が騎兵・歩兵・砲兵の支援攻撃でラ・エ・サント付近の左翼中央を突破しようと必死の攻撃を行ったが、激しい戦闘の末に撃退されたこと、敵がこの攻撃から大混乱で退くのを確認したこと、ビューロー将軍のプロイセン軍団がフリシェルモンを経てプランシュノワ・ラ・ベル・アリアンス方面へ進む動きが効果を現し始めたこと、ブリュッヒャー元帥自身がオアン方面から一部隊を率いて戦線左翼に合流したことを確認し、この時点で全軍の総攻撃を決意したと記す[SRC-02472]。ナポレオンは同じ頃、最精鋭の近衛隊を投入して最後の勝機を求めたが、英国近衛兵・軽歩兵の射撃の前に停止・動揺し、崩れたと英国立陸軍博物館は記す[SRC-02473]。ウェリントンの総攻撃は全地点で成功し、フランス軍は陣地を追われて大混乱で敗走、判断できる限り150門の大砲を弾薬ともに残して退いた[SRC-02472]。追撃は日没後長く続けられたが、12時間戦い続けた将兵の疲労のため中止され、以後はブリュッヒャーが夜通し追撃を引き継いだ。ブリュッヒャーは翌朝、近衛隊所属の大砲60門とナポレオンの馬車・荷物をジュナップで奪取した旨をウェリントンへ伝えたと記録される[SRC-02472]。

ウェリントンは報告書の中で「これほど必死の戦闘が、これほどの戦果とともに、大きな損失なしに行われるはずはなかった」とし、「遺憾ながら、我が方の損失は甚大であった」と記した[SRC-02472]。報告書には戦死・負傷した士官の氏名リストが添えられたが、兵卒を含めた全軍の死傷者総数は記されておらず、文末の追伸には「死傷者の集計表はまだ入手していないが、集計表なしに判明する範囲で、この2日間の士官の戦死者・負傷者リストを同封する」とある[SRC-02472]。後代の整理では、英国立陸軍博物館はフランス軍の損害を「戦死・負傷・捕虜合わせて4万人近く」、連合軍の損害を「2万2000人」と記す[SRC-02473]。日本の事典類(日本大百科全書)はフランス軍の損害を「4万の戦死者」と記す[SRC-02474]。これらの数字は集計対象(戦死のみか、戦死・負傷・捕虜の合計か)が出典ごとに異なり、本記事はいずれが正確かを判定せず、出典ごとに併記する(本サイトの整理)。

ウェリントンは報告書の終盤で、「この困難な一日の成功の結果を、ブリュッヒャー元帥とプロイセン軍から受けた誠実かつ時宜を得た支援に帰さなければ、自分の感情にも、ブリュッヒャー元帥とプロイセン軍にも、正当を期すことにはならないだろう」と記した[SRC-02472]。旺文社世界史事典は、プロイセン軍の参戦を「側面攻撃」と表現する[SRC-02474]。

歴史的背景

1815年3月、エルバ島を脱出したナポレオンがパリに帰還し帝政を復活させた(本サイトの別記事の主題)[SRC-02473][SRC-01548]。ウィーン会議に列席していた連合国首脳はこれを受けて軍を動かし、プロイセン軍(ブリュッヒャー指揮)と英国を中心とする連合軍(ウェリントン指揮)がネーデルラントに集結した[SRC-02473][SRC-02474]。両軍を合わせればフランス軍を上回る兵力となるため、ナポレオンは両軍が合流する前に各個撃破することを狙い、1815年6月15日、サンブル川を越えて進軍を開始した[SRC-02473]。ワーテルローの戦いは、この一連の軍事行動(ウォータールー戦役)における決戦であり、ナポレオンが復位してからおよそ3か月後、エルバ島脱出(1815年2月26日)からはおよそ4か月後にあたる[SRC-02473][SRC-01548]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1815-06-15(グレゴリオ暦) ナポレオン、サンブル川を越え進軍を開始。払暁にチュアン・ロベーズでプロイセン軍哨所を攻撃、夕刻にはフラーヌでヴァイマール公旅団と交戦 [SRC-02472][SRC-02473]
1815-06-16(グレゴリオ暦) リニーの戦い(プロイセン軍敗退)・カトル・ブラの戦い(ウェリントン軍が防戦) [SRC-02472][SRC-02473]
1815-06-17(グレゴリオ暦) ブリュッヒャー軍はワーヴルへ、ウェリントン軍はワーテルローへ、それぞれ後退・再集結 [SRC-02472][SRC-02473]
1815-06-18(グレゴリオ暦。本記事の主題) ワーテルローの戦い。連合軍とプロイセン軍がナポレオン軍を破る [SRC-02472][SRC-02473][SRC-02474]
1815-06-22(グレゴリオ暦) ナポレオン、2度目の退位 [SRC-01548]
1815-07-07(グレゴリオ暦) 連合軍、パリを占領 [SRC-02473]
異説・論争定説のない論点があります
論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
戦闘の呼称 説1: 英国側は布陣地にちなみ『ワーテルロー』と呼んだ。説2: フランスでは長らく、『モン=サン=ジャン』の戦いと呼ばれた。説3: プロイセンでは、『ラ・ベル・アリアンス』の勝利として記録された いずれも[SRC-02475](1851年刊行の紀行記事、著者レオン・ゴズラン) 出典の著者は「この3つの呼称はいずれも等しく根拠がある」と記すが、同じ号の編者注は、著者が示す陣地の位置関係の理解(モン=サン=ジャンをフランス軍側の陣地とする点)を誤りとしており、英国立陸軍博物館はむしろウェリントン(連合軍)がモン・セント・ジョン(Mount St Jean)の尾根に布陣したと記す[SRC-02473]——著者の位置の説明とは逆の配置である。この典拠は単一の、かつ編者自身が複数箇所で事実認識を誤りと注記する紀行記事に限られるため、呼称の由来についての確度は低い。本記事は、いずれか一つを正式名称と判定せず、呼称そのものの存在のみを陣営ごとに並記する
両軍の死傷者数 説1: 英国立陸軍博物館は、フランス軍の損害を戦死・負傷・捕虜合わせて「4万人近く」、連合軍の損害を「2万2000人」と記す。説2: 日本大百科全書(金澤誠)は、フランス軍の損害を「4万の戦死者」と記す。説3: ウェリントン自身が戦闘翌日に書いた公式報告書は、士官の名簿を添えるのみで、兵卒を含めた全軍の死傷者総数は「集計表をまだ入手していない」として記していない 説1=[SRC-02473]、説2=[SRC-02474]、説3=[SRC-02472] 説1はNAMが明記する「戦死・負傷・捕虜の合計」、説2は日本大百科の「戦死者」で、説2の「戦死者」が字義どおり戦死のみを指すか、より広い範囲を指すかは出典の記述からは判別できない。説3のとおり、戦闘直後の公式報告には総数自体が存在しなかった。本記事はこれらを対立する数値として優劣をつけず、出典ごとに併記する

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

ワーテルローでの敗北は、ナポレオンの「百日天下」の決着局面となり、この4日後、ナポレオンは2度目の退位をした[SRC-01548]。「百日天下」という政権期間そのものの終期をどこに置くか(6月18日のこの敗北か、6月22日の退位か、それ以降の日付か)は出典によって分かれるが、その裁定は本サイトの別記事(ナポレオンのパリ帰還を扱う記事)の主題であり、本記事はここでは立ち入らない。英国立陸軍博物館は、この戦いがフランス革命(1789年)以来ヨーロッパを揺るがしてきた一連の戦争を終わらせ、クリミア戦争(1854-56年)による短い中断を除けば1914年まで続く全般的な平和をもたらしたと記す[SRC-02473]。ウェリントンは英国で迎えられ、のちに2度にわたり首相を務めた[SRC-02473]。

現代の視点

英国立陸軍博物館は、「ワーテルロー」という地名そのものが英語の語彙に入り、連勝を続けた者が敗れることを指して「自分のワーテルローに出会う(meet one's Waterloo)」という言い回しとして現在も使われていると記す[SRC-02473]。1820年、オランダ王ウィレム1世は、自身の子(オラニエ公)が戦闘で負傷したと考えた地点に、戦場を見渡す人工の丘(ライオンズ・マウンド)を築いた。この丘は現在も戦場跡に残る[SRC-02473]。

出典一覧

  1. [SRC-02472] The London Gazette Extraordinary, Numb. 17028(ウェリントン公爵のワーテルロー報告書〔Waterloo Despatch〕掲載号)/The Gazette(英国政府公式官報。The National Archives運営)(ランクS)
  2. [SRC-02473] Battle of Waterloo(National Army Museum公式サイト)/National Army Museum(英国立陸軍博物館、英国防省所管の公認国立博物館)(ランクA)
  3. [SRC-02474] ワーテルローの戦い(コトバンク)/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE GROUP運営。日本大百科全書・旺文社世界史事典・山川世界史小辞典ほか複数事典を収載するアグリゲータサイト)(ランクB)(複数の資料を収載)
  4. [SRC-02475] A Frenchman's Excursion to the Field of Waterloo, June 18th 1849(『Bentley's Miscellany』第30巻、1851年7月号所収の紀行記事。著者レオン・ゴズラン)/Bentley's Miscellany(Richard Bentley刊、ロンドン。編者Albert Smith・Charles Dickens・William Harrison Ainsworth)(ランクC)
  5. [SRC-01548] Hundred Days (Encyclopedia.com aggregator page)/Encyclopedia.com(Gale/Cengage Learning刊行の複数参考事典項目を集約するサイト)(ランクB)(複数の資料を収載)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-10-09—
22026-10-09あり
32026-10-09あり
42026-10-09なし

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