1809年世界 19世紀

エドガー・アラン・ポーは、旅役者の両親のもとボストンに生まれ、2歳で母を失って孤児となった——リッチモンドの商家に引き取られた少年は、養父との金銭を巡る軋轢を経て、1845年の詩『大鴉』でひと晩にして名を知られる存在となる

日付と暦

原典表記
1809年1月19日(グレゴリオ暦)
換算
1809-01-19(グレゴリオ暦)
掲載日
1月19日のページ

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概要

1809年1月19日、エドガー・ポー(のちのエドガー・アラン・ポー)は、マサチューセッツ州ボストンで、旅回りの劇団に所属する俳優デイヴィッド・ポー・ジュニアとイライザ・ポーの子として生まれた[SRC-01240][SRC-01241][SRC-01243]。2歳のとき、母イライザが1811年12月8日にリッチモンドで病没し、エドガーは孤児となった[SRC-01240][SRC-01241]。リッチモンドの商人ジョンと妻フランセスのアラン夫妻がエドガーを引き取ったが、正式な養子縁組はされなかった[SRC-01240][SRC-01241][SRC-01243]。青年期、ヴァージニア大学在学中に負った賭博の借金の支払いを養父アランが拒んだことを機に両者の関係は悪化し、ポーは陸軍に入隊、1827年にボストンで処女詩集を筆名で刊行した[SRC-01241][SRC-01240]。18年後の1845年、詩『大鴉』の発表によって、ポーはひと晩にして広く名を知られる存在となった[SRC-01240][SRC-01243]。

本文

エドガーの両親、デイヴィッド・ポー・ジュニアとイライザ(旧姓アーノルド)・ポーは、共に旅回りの劇団の俳優だった[SRC-01241][SRC-01243]。二人は1806年3月14日に結婚し、翌1807年1月30日にはボストンで長男ウィリアム・ヘンリー・レナード・ポーが生まれている[SRC-01241]。1808年10月、両親は再びボストンで巡業しており、その3か月後の1809年1月19日、次男エドガーが生まれた[SRC-01241]。誕生直後の一家の足取りとして、生後5週間ほどのエドガーが両親に連れられボルティモアの父方祖父母のもとを訪れたとする記述もあるが、これは「家伝」["family tradition"]として伝わる記述であり一次資料による確証は示されていない[SRC-01242]。

母イライザは女優としての活動を続けたが病を得て、1811年12月8日、リッチモンドで24歳で病没した[SRC-01241][SRC-01240]。当時のリッチモンドの新聞は、その2日後の紙面で「先週日曜日〔=12月8日〕」["on last Sunday morning"]の死去を報じ、「この女性の死により舞台はその主だった花形の一人を失った」["By the death of this lady the Stage has been deprived of one of its chief ornaments."]と評した[SRC-01241]。父デイヴィッドについては、ポー博物館が「エドガーが幼児のとき、デイヴィッドは一家を去った」["When Edgar was a baby, David abandoned the family"]と記す一方[SRC-01240]、詳細な年代記を編んだ伝記研究者マボットは、デイヴィッドの正確な死没日を確定できないとしたうえで「1811年12月10日ごろ」["on or about December 10, 1811"]死去したとみられると記しており、資料によって父の消息の描き方には幅がある[SRC-01241]。同年12月26日にはリッチモンド劇場で72人が死亡する火災があり、多くの子が孤児となって親の知人一家に引き取られた——エドガーと妹ロザリーはこの火災の被災者ではなかったが、同じ時期に、それぞれ別の裕福な家庭に引き取られている[SRC-01241][SRC-01242]。

リッチモンドの商人ジョン・アランと妻フランセスに引き取られたエドガーは、名門の寄宿学校、続いてヴァージニア大学へ進学した[SRC-01241][SRC-01243]。だが大学在学中に負った賭博などの借金の支払いをアランが拒んだため、1年に満たずに大学を去ることになった[SRC-01241][SRC-01243]。その後ボストンへ移り、「エドガー・A・ペリー」の変名で陸軍に入隊、ボストン港フォート・インディペンデンスに配属された[SRC-01241]。この間、自身より1歳ほど年上の印刷業者カルヴィン・F・S・トマスに依頼し、処女詩集『タマレーン、その他の詩』を筆名「一人のボストン人」["A Bostonian"]で刊行した[SRC-01241][SRC-01240]。陸軍では2年で軍曹長まで昇進したのち、ウェストポイント陸軍士官学校に進んだが、金銭的な事情から1831年1月27日の軍法会議で処分を受けて除隊となった[SRC-01240][SRC-01241]。

歴史的背景

19世紀初頭の米国では、巡業劇団の俳優は各都市を転々とする生活を送っており、ポーの両親も結婚から誕生の前後にかけてボストン・ニューヨーク・リッチモンドなど各地の劇場を渡り歩いていた[SRC-01241]。当時は俳優という職業への社会的評価も定まっておらず、生活は必ずしも安定したものではなかったとみられる(本サイトの整理)。両親を早くに失った子どもを、血縁によらず近しい家庭が非公式に引き取って育てる慣行は、当時のリッチモンドでも珍しいことではなく、エドガーとロザリーの引き取りも、実の親を失った子を近しい知人が支える、こうした慣行の一例として位置づけられる[SRC-01241]。ジョン・アランはエドガーを正式に養子にすることはなかった[SRC-01241][SRC-01243]。この非公式な関係は、のちに学費を巡る対立が生じた際、エドガーの立場を経済的に不安定なものにした一因とみることができる(本サイトの整理)。

タイムライン

日付(グレゴリオ暦) 出来事 出典
1809年1月19日 エドガー・ポー、マサチューセッツ州ボストンで誕生 [SRC-01240][SRC-01241][SRC-01243]
1811年12月8日 母イライザ、リッチモンドで病没(24歳) [SRC-01241][SRC-01240]
1811年12月26日 リッチモンド劇場火災。孤児となった子らが近しい家庭に引き取られる中、エドガーはジョン・アラン夫妻に引き取られる [SRC-01241]
1826年〜1827年 ヴァージニア大学に進学するが、賭博等の借金の支払いをアランが拒み1年に満たず退学。陸軍に入隊し、ボストンで処女詩集『タマレーン、その他の詩』を筆名で刊行 [SRC-01241][SRC-01240][SRC-01243]
1831年1月27日 ウェストポイント陸軍士官学校の軍法会議で処分を受け除隊 [SRC-01240][SRC-01241]
1845年 詩『大鴉』を発表し、一躍名を知られる存在となる [SRC-01240][SRC-01243]
異説・論争定説のない論点があります

エドガーが孤児となった年について、資料間に1年の幅がある。マボット編年代記が引用するリッチモンドの新聞(1811年12月10日付)は、母イライザの死を同年12月8日と直接報じている[SRC-01241]。一方、エドガー・アラン・ポー協会(ボルティモア)が編む年代記の別の記述は、1813年の書簡に関する注記の中で「1812年12月にエドガーとロザリーはリッチモンドで孤児となった」["In December of 1812, Edgar and Rosalie Poe were left orphaned in Richmond, Virginia."]としており、1年のずれがある[SRC-01242]。本サイトは、同時代の新聞報道を直接引用するマボット編年代記の記述をより確度が高いと判断し、本文では1811年12月を採用したが、この食い違いの存在自体は読者に開示する。

父デイヴィッドの消息についても、資料の描き方には幅がある。ポー博物館は「エドガーが幼児のとき、父デイヴィッドは一家を去った」["When Edgar was a baby, David abandoned the family"]と記す[SRC-01240]。これに対し、一次資料に基づき年代記を編んだ伝記研究者マボットは、父の正確な死没日を確定できないとしたうえで「1811年12月10日ごろ」["on or about December 10, 1811"]に死去したとみられるとし、伝記作家ウィリアム・フェアリング・ギルによる「母の死の3日後」["dying only three days later"]という記述、マボットの文通相手が伝える「妻を亡くしてから2日間だけやもめだった」["was a widower only two days"]という伝聞、およびポー自身が書簡で両親は「数週間のうちに」["within a few weeks"]相次いで世を去ったと書いていることを併せて記録しており、父が一家を去ったのか、母とほぼ同時期に死去したのかを含め、単純には確定できない事情がうかがえる[SRC-01241]。本サイトはいずれの記述が正しいかを判定せず、両論を併記するにとどめる。

論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
孤児化の年 1811年12月(母の死と同月) [SRC-01241] 同時代の新聞報道の直接引用に基づく記述(伝記研究者T. O. マボット編年代記)
孤児化の年 1812年12月 [SRC-01242] ポー協会(ボルティモア)編年代記の記述。一次資料への逐次脚注は伴わない
父デイヴィッドの消息 幼いエドガーを残し一家を去った [SRC-01240] ポー博物館の伝記解説の記述
父デイヴィッドの消息 正確な死没日は確定できないが、母の死の直後数日〜数週間のうちに世を去ったとみられる [SRC-01241] 伝記研究者マボットが複数の伝聞・書簡を検討したうえでの記述。死没日そのものはマボット自身も断定を避けている

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

ポーが発表した短編『モルグ街の殺人』は、謎を解く風変わりな天才という人物像を描いた最初期の作品として、近代的な推理小説の起点の一つに位置づけられている、とポー博物館は記す[SRC-01240]。同館によれば、アーサー・コナン・ドイルは、この作品の登場人物C・オーギュスト・デュパンを、自身が生み出したシャーロック・ホームズの文学的着想源として挙げているという[SRC-01240]。アメリカ詩人アカデミーも、ポーの作品群を怪奇小説と推理小説双方の創始者の一つに位置づけている[SRC-01243]。本サイトはこれらを、ポー自身の評価としてではなく、後年の専門機関・団体による位置づけとして紹介するにとどめる。

ポーは1849年10月、フィラデルフィアでの編集の仕事に向かう途中に立ち寄ったボルティモアで半意識状態のまま発見され、その4日後に死去した[SRC-01243]。死因については、飲酒の問題を抱えていたとされる一方(ただし、この問題がヴァージニア大学中退の直接の原因だったわけではないと指摘される)[SRC-01244]、死後長い年月を経た医学的な再検討では狂犬病感染の可能性も指摘されるなど[SRC-01243]、今なお文学史上の謎として複数の見方が併存している。本サイトはいずれの説が正しいかを判定しない。

現代の視点

本記事の射程は、1809年の誕生から、孤児としてアラン家に育てられた経緯、そして1845年に『大鴉』で名声を確立するまでの出来事に限定する。死因の詳細な医学的検討や晩年の経緯、およびポーの作品が後年の映画・漫画・ゲームなど現代のポピュラーカルチャーでどのように翻案・言及されてきたかについては、誕生日記事である本記事の主題外として扱わない(本サイトの整理)。「推理小説の祖」という位置づけについても、あくまで歴史学・文学研究の範囲での帰属形による紹介にとどめ、本サイト自身がこの評価を断定することはしない。

出典一覧

  1. [SRC-01240] Edgar Allan Poe/The Poe Museum(ランクA)
  2. [SRC-01241] The Collected Works of Edgar Allan Poe—Vol. I: Poems (Annals)/Edgar Allan Poe Society of Baltimore(T. O. Mabbott編『The Collected Works of Edgar Allan Poe』第1巻〔詩集、1969年、Belknap Press of Harvard University Press刊〕の年代記〈Annals〉章の再録)(ランクA)
  3. [SRC-01242] Poe in Baltimore - Chronology/Edgar Allan Poe Society of Baltimore(ランクB)
  4. [SRC-01243] About Edgar Allan Poe/Academy of American Poets(poets.org)(ランクB)
  5. [SRC-01244] Poe's Character Under Attack/National Park Service(米国国立公園局、Edgar Allan Poe National Historic Site)(ランクA)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-16あり
22026-09-16あり

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