ローマの城壁が破られたとき、教皇は世俗の統治者でなくなった

日付と暦

原典表記
1870年9月20日(グレゴリオ暦)
換算
1870-09-20(グレゴリオ暦)
掲載日
9月20日のページ

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概要

教皇ピウス9世は、イタリア政府による和解の申し出を拒んだとされる[SRC-00212]。かわりに自らを「ヴァチカン宮殿の囚人」と称し、そこへ退いたという[SRC-00211]。ブリタニカによれば、教皇軍のごく形式的な武装抵抗があったとされ[SRC-00211]、1870年9月20日、イタリア王国軍はローマ市街を囲む城壁の一角、ポルタ・ピアを突破して市内に入った[SRC-00211][SRC-00212][SRC-00213]。教皇による世俗的な統治は、この日に失われた[SRC-00212][SRC-00213]。一般に最もよく知られている占領の写真は、ローマ征服後に演出して撮られた「やらせ」の一枚だったという[SRC-00213]。

本文

教皇領の大半は、1861年に成立したイタリア王国にすでに編入されていたが、ローマだけは除外されていた[SRC-00212]。それでもローマが持ちこたえられたのは、教皇ピウス9世をフランス軍が守っていたためだった[SRC-00211][SRC-00212]。1870年、普仏戦争でナポレオン3世が敗北・退位すると、教皇はこの軍事的な保護を失った[SRC-00211]。イタリア王国軍はこの機を捉えた[SRC-00211]。ブリタニカによれば教皇軍のごく形式的な武装抵抗があったとされたのち[SRC-00211]、イタリア王国軍は9月20日、ポルタ・ピアで城壁を突破しローマ市内に入った[SRC-00211][SRC-00212]。ブリタニカ百科事典によれば、この「ポルタ・ピアの突破」でイタリア兵49名、教皇軍兵士19名が死亡したとされる[SRC-00212]。

占領を受け、教皇ピウス9世はイタリア政府による和解の申し出を拒んだとされる[SRC-00212]。自らを「ヴァチカン宮殿の囚人」と称したともいう[SRC-00211]。この立場は後継の教皇たちにも1929年まで引き継がれたという[SRC-00211]。同年10月の住民投票(プレビシート)を経て、ローマは統一イタリアの首都となったとされる[SRC-00212]。

歴史的背景

ブリタニカ国際大百科事典小項目事典によれば、教皇領はすでに1860年、ピエモンテとの戦いに敗れたことで、ペテロ世襲領のみとなっていたという[SRC-00214]。軍事指導者ジュゼッペ・ガリバルディは1862年と1867年の二度、ローマ攻略を試みたが、いずれも失敗に終わったとされる[SRC-00212]。山川世界史小辞典改訂新版によれば、教皇ピウス9世は1848年のイタリアの革命運動により一時ローマを追われ、イタリア統一の過程で教皇領の多くを失ったという[SRC-00214]。度重なる領土の縮小の果てに残ったローマそのものが、1870年9月20日、最後に失われたことになる(前掲の経過から導かれる本稿の整理であり、出典が直接この総括を述べるものではない)。

タイムライン

日付 出来事 出典
1860年 教皇領、ピエモンテとの戦いに敗れペテロ世襲領のみとなる(ブリタニカ国際大百科事典小項目事典による) [SRC-00214]
1861年 イタリア王国が成立を宣言。教皇領(ローマ)は除外される [SRC-00212]
1862年/1867年 ガリバルディによるローマ攻略の試み、いずれも失敗 [SRC-00212]
1870年(普仏戦争) ナポレオン3世の敗北・退位により、教皇はフランス軍による保護を失う [SRC-00211]
1870年9月20日 イタリア王国軍がポルタ・ピアで城壁を突破しローマに入城 [SRC-00211][SRC-00212][SRC-00213]
1870年10月 住民投票(プレビシート)を経て、ローマが統一イタリアの首都となる [SRC-00212]
1871年 ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、クイリナーレ宮殿に居を移す [SRC-00212]
1929年 ラテラノ条約発効。イタリア国家と教皇の関係がここで解決する [SRC-00212]
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)

「突撃の瞬間」を捉えた有名な写真は、本物か。

論点 根拠・出典 学界での位置づけ
ポルタ・ピア突破の場面として一般によく知られる写真は、実際の瞬間を撮影したものか 一般によく知られる一枚: 盛り土の上で銃を構えたベルサリエリの一団を写した写真が、一般に最もよく知られている写真とされる イタリア文化省所管・中央リソルジメント博物館(VIVE)の解説による[SRC-00213]
同上 博物館による指摘: この写真は、ローマが既に征服された後、実際のベルサリエリを使って演出された「やらせ」であり、城壁に開いた突破口をありのままに撮影した本物の写真は、写真家ルドヴィコ・トゥミネッロによるものである 同館の解説による[SRC-00213] 本記事が確認できたのは同館の解説1件のみであり、他の学術文献による裏付けは本調査の範囲では確認できていない(調査範囲: SRC-00211〜00214の4件)

同一出典内での記述の割れ(R6-4): 同館は、演出された「やらせ」の写真とは別の箇所で、トゥミネッロが撮った本物の写真自体についても「リソルジメントを代表する最も有名な図像の一つである」と記している[SRC-00213]。どちらの写真を「有名」と呼ぶかは、同館の解説の中でも一様ではない——演出された写真は「一般に最もよく知られている」と、本物の写真は「最も有名な図像の一つ」と、それぞれ異なる文脈で評価されている。本記事はこの評価の揺れそのものを開示するにとどめ、いずれか一方を「無名」とは断定しない。

演出された写真がいまも広く「一般によく知られている」一方で、その裏には博物館自身の解説の中にある評価の揺れがある——これも、この出来事のもう一つの「へぇ」かもしれない。

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

ローマ占領は、統一国家の首都としてのローマの獲得という「夢の到達点」であり、教会の世俗的統治権の終焉を示す出来事だったとされる[SRC-00213]。1848年の革命で一時ローマを追われた経験を持つ教皇ピウス9世にとって[SRC-00214]、この日は世俗的な統治者としての教皇の歴史に終止符を打つ日となった(前掲の経過から導かれる本稿の整理であり、出典が直接この評価を述べるものではない)。イタリア国家と教皇庁の緊張関係は、この日から1929年のラテラノ条約発効までの59年間、解決を見なかった[SRC-00212]。

現代の視点

一般によく知られる写真が実は「やらせ」だったという指摘は、150年以上を経た現在にも通じる問いを投げかける。ある出来事が「どう記憶されるか」は、必ずしも実際に何が起きたかとは一致しない(本稿の見立て)。イタリア国家と教皇庁の関係を最終的に定めたラテラノ条約は、ローマ占領から59年後の1929年に発効し、イタリアはヴァチカン市国内での教皇の主権を承認したとされる[SRC-00212]。1870年9月20日のこの日に始まった問題は、1929年のラテラノ条約によって、ヴァチカン市国という小さな主権国家がローマ市内に置かれる形で決着した(前掲の経過から導かれる本稿の整理であり、出典が直接この評価を述べるものではない)。

出典一覧

  1. [SRC-00211] Italy - The acquisition of Venetia and Rome(Britannica)/Encyclopædia Britannica, Inc.(ランクB)
  2. [SRC-00212] Rome - Capital of a united Italy(Britannica)/Encyclopædia Britannica, Inc.(ランクB)
  3. [SRC-00213] Photograph of the breach of Porta Pia on 20 September 1870 by Ludovico Tuminello(Museo Centrale del Risorgimento/VIVE)/VIVE - Vittoriano e Palazzo Venezia(イタリア文化省 Ministero della Cultura 所管の国立博物館機構。中央リソルジメント博物館 Museo Centrale del Risorgimento を運営)(ランクA)
  4. [SRC-00214] ピウス9世とは? 意味や使い方(コトバンク)/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING運営)(ランクB)(複数の資料を収載)

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訂正履歴

日付事実主張への変更
12026-08-28
22026-08-29あり
32026-08-29あり

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