1862年世界 19世紀

モニター号とバージニア号、史上初とされる装甲艦同士の海戦

日付と暦

原典表記
1862年3月9日(グレゴリオ暦)
換算
1862-03-09(グレゴリオ暦)
掲載日
3月9日のページ

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概要

1862年3月8日、南軍の装甲艦バージニア号(旧メリマック号)が米バージニア州ハンプトン・ローズで北軍の木造艦隊を攻撃し、カンバーランド号を撃沈、コングレス号を降伏後に炎上させた[SRC-01636][SRC-01638][SRC-01639]。北軍の新造装甲艦モニター号は同日8日の夜のうちに到着し[SRC-01636][SRC-01638]、翌9日朝、両艦は約4時間砲撃を交わした[SRC-01636][SRC-01640]。米海軍歴史遺産司令部(NHHC)が運営するハンプトン・ローズ海軍博物館は、この9日の交戦を「史上初の装甲艦同士の海戦」と記すが、同館はモニター号の到着自体も9日としており、到着日の記述は同じNHHC内でも割れる[SRC-01637]。決着はつかず、戦果の評価は出典によって分かれる[SRC-01636][SRC-01638]。

本文

連邦海軍の蒸気フリゲート艦メリマック号は、1861年4月のゴスポート海軍工廠放棄に伴い焼却・自沈処分されたが、南軍がこれを引き揚げ、9か月かけて装甲艦へ改装しバージニア号と改称した[SRC-01636][SRC-01639]。改称後も北軍側の呼称として「メリマック号」が使われ続け、Britannicaも項目名を「Battle of the Monitor and Merrimack」とする一方、本文では改称後の艦を一貫して「Virginia」と表記する[SRC-01638]。本サイトは南軍が付けた正式艦名「バージニア号」を主に用いる。北軍もスウェーデン人技師ジョン・エリクソン設計の、水平甲板に回転式砲塔を備えた装甲艦モニター号で対抗し、1862年2月25日に就役させた[SRC-01640][SRC-01636]。

3月8日午後、フランクリン・ブキャナン指揮下のバージニア号はカンバーランド号に体当たりして撃沈し(バトルフィールド・トラストの集計では乗組員121名が艦と共に沈んだ)、続いてコングレス号を砲撃し降伏させた[SRC-01636][SRC-01639]。だが投降受理中、非礼な扱いに怒ったブキャナンはコングレス号の焼却を命じ、自ら小銃で陸へ応戦したところ狙撃され負傷し、指揮をケイツビー・アプ・ロジャー・ジョーンズへ引き継いだ[SRC-01636][SRC-01641]。コングレス号は炎上を経て深夜に爆発した[SRC-01636][SRC-01641]。この日の夜、モニター号がハンプトン・ローズに到着し、座礁したままのミネソタ号の護衛を命じられた[SRC-01636][SRC-01641]。

翌9日朝、ジョーンズはミネソタ号にとどめを刺そうと出撃したが、その陰から現れたモニター号が砲撃を開始し、両艦は約4時間撃ち合った[SRC-01636][SRC-01638]。砲弾は互いの装甲に弾かれ、目立った損傷は生じなかった[SRC-01640]。操舵室への被弾でウォーデン艦長が負傷し一時指揮を退いたのち、バージニア号側も潮位低下と艦の損傷を理由に引き上げ、戦闘は終わった[SRC-01636]。

歴史的背景

北軍の海上封鎖に木造艦だけでは対抗できないと見た南軍海軍長官マロリーは、鉄で木に対抗する装甲艦の建造を選んだ[SRC-01636]。バージニア号出現の報を受け、北軍も対抗策を迫られ、エリクソンの装甲艦案を採用した[SRC-01636][SRC-01641]。両艦にとって、本海戦は実戦そのものが初めてでもあった(モニター号は前日3月8日の夜に現地到着したばかりで、バージニア号にとっても3月8日が実戦の初日だった)[SRC-01636][SRC-01641]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1861年4月(グレゴリオ暦) ゴスポート海軍工廠の放棄に伴い、連邦海軍がメリマック号を含む艦船を焼却・自沈処分 [SRC-01636][SRC-01639]
1862年2月17日(グレゴリオ暦) 南軍がバージニア号をゴスポートで進水 [SRC-01636]
1862年2月25日(グレゴリオ暦) 北軍がモニター号を就役させる [SRC-01640]
1862年3月6日(グレゴリオ暦) モニター号がニューヨークを発ちハンプトン・ローズへ向かう [SRC-01641]
1862年3月8日(グレゴリオ暦) バージニア号が北軍木造艦隊を攻撃。カンバーランド号を撃沈、コングレス号を降伏させ炎上・爆発させる。ブキャナン負傷、指揮がジョーンズへ。同日夜、モニター号がハンプトン・ローズに到着 [SRC-01636][SRC-01638][SRC-01639][SRC-01641]
1862年3月9日(グレゴリオ暦) モニター号とバージニア号が約4時間交戦(本記事の配置日) [SRC-01636][SRC-01638][SRC-01640]
1862年4月11日(グレゴリオ暦) 両艦が再び対峙するが、いずれも交戦を仕掛けず退く [SRC-01638]
1862年5月(グレゴリオ暦、日付は出典により相違) ノーフォーク放棄に伴い、南軍がバージニア号を自沈させる(SRC-01636・SRC-01641は5月11日、SRC-01638は5月9日とする) [SRC-01636][SRC-01638][SRC-01641]
1862年12月31日(グレゴリオ暦) モニター号がケープハタラス沖の嵐で沈没 [SRC-01638][SRC-01640]
異説・論争定説のない論点があります

本サイトが確認した出典の範囲では、3月8〜9日に何が起きたかという経過そのものに大きな異論はない。一方で、(1)戦闘の結果をどう評価するか、(2)カンバーランド号での戦死者数、(3)バージニア号自沈の日付、の3点で出典間に相違がある。

論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
戦闘の結果評価 明確な勝者はおらず、双方が勝利を主張した。ただし局面ごとに見れば、北軍はミネソタ号防衛という任務を果たした点で戦術的勝利といえる一方、南軍は前日にカンバーランド号・コングレス号を撃破したにもかかわらず、南軍陸軍がバージニア号の攻撃と連携できず、北軍がフォート・モンローの拠点を保持し続けたため、戦略的勝利としては不完全だったと整理できる NHHCは "There was no clear winner in the contest between the ironclads, although both sides claimed victory." としたうえで、北軍を「戦術的勝利」、南軍を「不完全な戦略的勝利」と分け、「Despite the destruction of Cumberland and Congress, the failure of the Confederate army to coordinate with the attack by Virginia meant that Federal army retained its toehold at Fort Monroe.」と記す[SRC-01636] 米海軍公式歴史機関による多面的な整理。単純な勝敗の二分法を避けている
同上 戦闘そのものは互角だったが、事後的には北軍側の勝利と解釈されてきたとBritannicaは報告する Britannicaは「the subsequent battle between the two ironclads was generally interpreted as a victory for the Monitor, however, and produced feelings of combined relief and exultation in the North. While the battle was indecisive」と記す[SRC-01638] 百科事典(Britannica)は北軍優位と解釈されてきたと報告形で記す一方、同じ記事が「決着はつかなかった」とも記す。本サイトはいずれかを正しいと判定しない
同上 決着はつかず、双方とも勝利を主張できなかった HISTORYは冒頭で「two ironclads...fight to a draw off Hampton Roads」と明記し[SRC-01640]、American Battlefield Trustも「Result: Inconclusive」「While neither side could claim victory」と記す[SRC-01639] 大手メディアと非営利教育団体の2系統は引き分け・不決着と明記する。本サイトはいずれかを正しいと判定しない
カンバーランド号での戦死者数 121名とする集計と、123名とする記述がある American Battlefield Trustは「taking 121 Union sailors down with her」と集計するが[SRC-01639]、ハンプトン・ローズ海軍博物館は「taking 123 Sailors with the ship」と記す[SRC-01637] 本サイトが確認した出典の範囲では、いずれの数値がより正確かを判定する記述はない
バージニア号自沈の日付 1862年5月11日、ノーフォーク放棄後にタトナルが自沈させた(後に軍法会議にかけられ無罪) NHHCは "On 11 May 1862, Tattnall scuttled the vessel, an act for which he was later court-martialed (and then acquitted)." と記し[SRC-01636]、マリナーズ・ミュージアムも「the Confederate vessel was destroyed by her crew on May 11, 1862. An event that followed the surrender of Norfolk to Union forces.」と記す[SRC-01641] 米海軍公式歴史機関と博物館の2系統の記述
同上 1862年5月9日に自沈した Britannicaは "On May 9, 1862, following the Confederate evacuation of Norfolk, the Virginia was destroyed by its crew." と記す[SRC-01638] 百科事典の記述。5月11日=2独立系統(米海軍公式歴史機関・博物館)、5月9日=1系統(百科事典)という系統構成であり、本サイトが確認した出典の範囲では2日の差の原因を特定する記述はない

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

BritannicaとHISTORYはいずれも、この交戦が鉄・蒸気の艦艇による新たな海戦の時代の始まりを告げたと記す[SRC-01638][SRC-01640]。マリナーズ・ミュージアムは「両艦とも自らの目的の一部を達成した」と整理する[SRC-01641]。NHHCは、バージニア号がジェームズ川を封鎖し続けたことでマクレラン将軍麾下の陸軍が新たな作戦方針を迫られ、1862年3月17日にフォート・モンローへ上陸してリッチモンドへの作戦を始めたと記す[SRC-01636]。HISTORYは両艦が「短命だったが、海戦の新時代を切り開いた」と評する[SRC-01640]。

現代の視点

モニター号の残骸は1973年に発見され、1975年には米国初の国立海洋保護区に指定された[SRC-01641]。2002年には、回収作業により砲塔を含む遺物が引き揚げられている[SRC-01638]。バージニア州ニューポート・ニューズのマリナーズ・ミュージアムは、砲塔などの実物を所蔵する形でこの海戦を今日に伝えている(本サイトの整理)[SRC-01641]。

出典一覧

  1. [SRC-01636] Hampton Roads/Naval History and Heritage Command (NHHC)(ランクA)
  2. [SRC-01637] Heroism and Heartache: The Battle of Hampton Roads/Hampton Roads Naval Museum(Naval History and Heritage Command 運営)(ランクA)
  3. [SRC-01638] Battle of the Monitor and Merrimack/Encyclopaedia Britannica(ランクB)
  4. [SRC-01639] Hampton Roads Battle Facts and Summary/American Battlefield Trust(ランクB)
  5. [SRC-01640] U.S.S. Monitor battles C.S.S. Virginia/HISTORY(A&E Networks)(ランクB)
  6. [SRC-01641] USS Monitor Story/The Mariners' Museum and Park(ランクA)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-27—
22026-09-27あり
32026-09-27あり

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