1848年世界 19世紀

フランクフルト国民議会は、1848年5月18日、パウロ教会で開会した——ドイツ連邦議会が「最初の全ドイツ議会」と位置づけるこの議会は、翌年に憲法を可決しながら、国家樹立には至らなかった

日付と暦

原典表記
1848年5月18日(グレゴリオ暦)
換算
1848-05-18(グレゴリオ暦)
掲載日
5月18日のページ

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概要

1848年5月18日、選挙で選ばれたドイツ各地の代議員たちが、フランクフルト・アム・マインに集まった[SRC-02206][SRC-02207][SRC-02208][SRC-02209][SRC-02211]。議員たちはまずレーマー(市庁舎)のカイザーザールに集合し、そこから盛大な行列でパウロ教会へ移動したうえで、年長議長が開会を宣言した[SRC-02212][SRC-02207][SRC-02208]。ドイツ連邦議会は、この議会を「最初の全ドイツ議会」と位置づけている[SRC-02206]。議会は、開会の翌日である同年5月19日、305票を得てハインリヒ・フォン・ガーゲルンを暫定議長に選出した[SRC-02211][SRC-02212]。国民議会はその後十か月にわたって審議を続け、1849年3月27日に『ドイツ帝国憲法』を可決し[SRC-02208][SRC-02213]、翌28日にこれを公布してプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を290票で皇帝に選出した[SRC-02208][SRC-02210][SRC-02213]。同国王はこの地位への就任を拒んだ[SRC-02208][SRC-02215]。連邦議会は、同年4月3日、神の恩寵に基づく正統性を理由とする拒否と記す[SRC-02208]。ドイツ歴史博物館は、同年4月3日、諸侯・自由都市の同意が得られていないとした暫定的な拒否と記す[SRC-02215]。同年4月28日について、ドイツ歴史博物館は皇帝位の最終的な拒否と記し[SRC-02215]、連邦議会は同日付の公電による帝国憲法拒否の表明と記す[SRC-02208]。議会は国民からの支持を急速に失い[SRC-02206]、1849年5月30日、残留議員がシュトゥットガルトへの移転を決め、残部議会は同年6月18日に強制的に解散された[SRC-02207]。

本文

1848年3月、ドイツ各地で自由主義的改革と国民統一を求める声が強まる中[SRC-02206]、同年3月5日、51名の在野政治家がハイデルベルクに集まり(「ハイデルベルク集会」)、「信任代表」を予備議会としてフランクフルトに招くことを決めた[SRC-02207]。各邦の身分代表・邦議会議員ら573名で構成された予備議会は、1848年3月31日にフランクフルトで開会した[SRC-02207]。当初の会場であったレーマー(市庁舎)のカイザーザールが手狭であったため、議員らは開会式の後パウロ教会へ移り、来るべき国民議会の選挙方法・組織・権限を審議した[SRC-02207]。この審議の終了日について、ドイツ連邦議会は同年4月4日までとし[SRC-02207]、ドイツ歴史博物館(LeMO)の年表は同年4月3日までとする(出典間で1日の相違がある。異説・論争参照)[SRC-02214]。ガーゲルン自身の人物伝も、彼の予備議会への参加を同年3月31日から4月3日までと記す[SRC-02211]。予備議会は、普通・平等選挙によって選ばれる国民議会を同年5月1日にフランクフルトへ招集することを決め、選挙準備を担う五十人委員会を設置した[SRC-02207]。

選挙の実施は各邦に委ねられたが[SRC-02206][SRC-02207]、組織上の理由で実施が遅れたため、国民議会の活動開始は当初の予定より遅れた[SRC-02207]。法定649選挙区のうち、非ドイツ系住民が多数を占める地域でのボイコット等により、実際に議員を選出したのは585選挙区のみであった[SRC-02207]。1848年5月18日、選出された代議員たちはフランクフルトに集まり、国民議会として初めて活動を開始した[SRC-02206][SRC-02207][SRC-02208][SRC-02209][SRC-02211]。議員たちは、予備議会と同様、まずレーマーのカイザーザールに集合し、そこから盛大な行列でパウロ教会へ移動したうえで、年長議長ラング(Dr. Lang von Werden)が開会を宣言した[SRC-02212][SRC-02207][SRC-02208]。ドイツ連邦議会は、ここに集まった代議員たちを「最初の全ドイツ議会の議員」と位置づけている[SRC-02206]。開会の翌日である同年5月19日、議会はヘッセンを代表する自由主義カジノ派の議員ハインリヒ・フォン・ガーゲルンを、305票を得て暫定議長に選出した[SRC-02211][SRC-02212]。議会は議事規則を定め、準備審議のための委員会を設置し、特に憲法委員会は、国民議会が構成されてからわずか1週間後の同年5月24日、大差で設置された[SRC-02206][SRC-02208]。

国民議会は、冬季の一時中断を挟みながら、1849年5月30日までパウロ教会で開会を続けた[SRC-02207]。この間、1849年3月27日、議会は憲法草案の第二読会を終え、『ドイツ帝国憲法』を可決した[SRC-02208][SRC-02213]。可決の翌日である同年3月28日、議会はこの憲法を公布し[SRC-02208]、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を290票で「ドイツ人の皇帝」に選出した[SRC-02210][SRC-02208][SRC-02213]。同国王は、同年4月3日、この地位への就任を拒んだ[SRC-02208][SRC-02215]。連邦議会は、神の恩寵に基づく君主としての正統性を理由とする拒否と記す[SRC-02208]。ドイツ歴史博物館の年表は、諸侯・自由都市の同意が得られていないとして、暫定的に(vorläufig)断ったと記す[SRC-02215]。同年4月28日について、ドイツ歴史博物館の年表は、同国王による皇帝位の最終的な拒否と記す[SRC-02215]。連邦議会の歴史文書アーカイブは、同日付(4月28日)の公電により、同国王が帝国憲法の拒否を最終的に表明したと記す[SRC-02208]。憲法制定とドイツ国民国家建設に向けた議会の努力は、連邦議会自身の言葉で「事実上失敗した」とされる[SRC-02206]。議会は各邦における君主制的・復古的な勢力の再強化の中で国民からの支持を急速に失い[SRC-02206]、1849年5月30日、残留した135名の議員が議会のシュトゥットガルトへの移転を決めた[SRC-02207]。移転後の「残部議会」は、同年6月18日、ヴュルテンベルク軍により強制的に解散された[SRC-02207]。

歴史的背景

1840年代以降の経済危機・貧困・政治的不満の高まりは、欧州各国の社会・政治秩序を不安定化させ、1848年には欧州全体を覆う革命的な波となった[SRC-02206]。ドイツでも集会・デモにおいて基本権・自由権の保障と国民統一が求められた[SRC-02206]。こうした情勢の中、1848年3月5日のハイデルベルク集会における51名の在野政治家の決定を起点として予備議会の招集が進んだ(本記事「本文」参照)[SRC-02207]。ドイツ連邦議会は、この国民議会を、自由主義的な憲法とドイツ国民国家の形成を審議するために集まった「最初の全ドイツ議会」と位置づけている[SRC-02206]。

タイムライン

日付(グレゴリオ暦) 出来事 出典
1848年3月5日 ハイデルベルク集会(51名の在野政治家が予備議会招集を決定) [SRC-02207]
1848年3月31日〜4月3日/4日(出典間相違。異説・論争参照) 予備議会、フランクフルトで開会(カイザーザール→パウロ教会) [SRC-02207](〜4月4日)/[SRC-02214](〜4月3日)
1848年5月18日 国民議会、フランクフルトで開会(カイザーザールに集合後、パウロ教会で年長議長が開会宣言。本記事の主題) [SRC-02206][SRC-02207][SRC-02208][SRC-02209][SRC-02211][SRC-02212]
1848年5月19日 ハインリヒ・フォン・ガーゲルン、305票で国民議会の暫定議長に選出 [SRC-02211][SRC-02206][SRC-02212]
1848年5月24日 国民議会、憲法委員会を設置 [SRC-02206][SRC-02208]
1849年3月27日 国民議会、『ドイツ帝国憲法』を可決(第二読会終了) [SRC-02208][SRC-02213]
1849年3月28日 憲法公布/プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を290票で「ドイツ人の皇帝」に選出 [SRC-02208][SRC-02215](公布)/[SRC-02210][SRC-02208][SRC-02213](選出)
1849年4月3日 フリードリヒ・ヴィルヘルム4世、皇帝位への就任を拒む(連邦議会=神の恩寵に基づく正統性を理由とする拒否/DHM=諸侯・自由都市の同意が得られないとした暫定的拒否。異説・論争参照) [SRC-02208](理由)/[SRC-02215](暫定的拒否)
1849年4月28日 DHM=皇帝位の最終的な拒否/連邦議会=公電による帝国憲法拒否の最終的な表明(異説・論争参照) [SRC-02215](皇帝位)/[SRC-02208](帝国憲法)
1849年5月30日 残留議員135名、シュトゥットガルトへの移転を決定 [SRC-02207]
1849年6月18日 「残部議会」、ヴュルテンベルク軍により強制解散 [SRC-02207]
異説・論争定説のない論点があります

本記事の主題である1848年5月18日の開会について、出典間で「開会はどこで・誰によって宣言されたか」の記述に食い違いがある。国民議会自身が発行した議事速記録原本は、議員がまずレーマー(市庁舎)のカイザーザールに集合したのち、パウロ教会で年長議長ラング(Dr. Lang von Werden)が開会を宣言したと記録する。他方、ドイツ連邦議会公式サイトの史跡解説ページは、この開会会議(Eröffnungssitzung)自体をカイザーザールに置く記述を含み、同サイトの別ページに掲載された図版のキャプションは、場所をパウロ教会とした上で、議長ハインリヒ・フォン・ガーゲルンが開会したと記す(ガーゲルンが選出されたのは実際には翌5月19日である)。本記事は、国民議会自身の記録である議事速記録原本に従い、連邦議会側の記述は下表にper-sourceで示す。他方、皇帝選出の票数の内訳、国王による皇帝位拒否の性格・理由(本記事「本文」参照)、予備議会の終了日については、下表のとおり出典間で記述が異なる点を確認した(調査範囲: ドイツ連邦議会〔Deutscher Bundestag〕公式サイトの議会史解説ページ3件、ドイツ歴史博物館〔LeMO〕の収蔵品解説・人物伝・年表4件、ドイツ連邦公文書館〔Bundesarchiv〕のオンライン展示ページ1件、国民議会自身の議事速記録原本2巻)。

論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
開会はどこで・誰によって宣言されたか パウロ教会で、年長議長ラングが宣言した 国民議会自身の議事速記録原本[SRC-02212] 国民議会自身による当時の直接記録であり、本記事はこれに従う
同上 開会会議(Eröffnungssitzung)はレーマーのカイザーザールで行われた(図版キャプションは、場所をパウロ教会とした上で、議長ガーゲルンが開会したとする) ドイツ連邦議会公式サイト[SRC-02207][SRC-02206] 機関自身による現代の歴史整理であり、「開会」が指す段階(準備的な集合か、パウロ教会での宣言か)が議事速記録原本とは異なる可能性がある
予備議会(1848年3月31日開会)の終了日 4月4日まで開会した ドイツ連邦議会公式サイトの史跡解説ページ[SRC-02207] 両者とも機関自身による歴史整理(一次資料の逐語記録ではない)であり、本記事は1日の差を優劣なく併記する。本記事の主題(同年5月18日の開会)には影響しない
同上 4月3日まで開会した ドイツ歴史博物館(LeMO)年表[SRC-02214] 同上
1849年4月3日の拒否の理由 神の恩寵に基づく君主としての正統性を理由とする(暫定・最終の区別には触れない) ドイツ連邦議会公式サイト[SRC-02208] 機関自身による歴史整理。本記事は両系統の記述を区別して記録する
同上 諸侯・自由都市の同意が得られていないとして、暫定的に(vorläufig)断ったとする ドイツ歴史博物館(LeMO)年表[SRC-02215] 同上
1849年4月28日の拒否の対象 皇帝位(Kaiserwürde)の最終的な拒否 ドイツ歴史博物館(LeMO)年表[SRC-02215] —
同上 同日付の公電による帝国憲法(Reichsverfassung)の拒否の最終的な表明(対象は憲法そのもの) ドイツ連邦議会歴史文書アーカイブ[SRC-02208] 両者は同じ4月28日の事象を指すと考えられるが、記述の対象(皇帝位/帝国憲法)が異なるため、本記事は出典ごとに書き分ける
1849年3月28日の皇帝選出の票数の内訳 投じられた290票はすべて国王に(確認した速記録の該当頁の範囲では、反対票の記載なし) 国民議会自身の議事速記録原本[SRC-02213] 両者とも290票が国王に投じられたことは一致するが、反対票の有無の記述が異なる
同上 290票(棄権248・反対20) ドイツ歴史博物館(LeMO)年表[SRC-02215] 同上

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

ドイツ連邦議会は、国民議会が整えた基本権に関する法律が、ドイツで初めて人権・市民権に法的効力を与え、のちのワイマール憲法・基本法に重要な影響を与えたと位置づけている[SRC-02206]。他方、国民議会は、1849年3月に可決し[SRC-02208]、公布した[SRC-02208]『ドイツ帝国憲法』の下でプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を皇帝に選出したが、同国王がこれを拒否したことにより、連邦議会自身の言葉では、憲法制定とドイツ国民国家建設に向けた議会の努力は「事実上失敗した」とされる[SRC-02206]。本記事は、1848年5月18日の開会という出来事そのものと、その後の展開(憲法可決・皇帝選出・皇帝辞退・議会解散)を出典が述べる範囲に限って扱い、両者の因果関係についての独自の評価は行わない(本サイトの整理)。

現代の視点

本記事の射程は、1848年5月18日の国民議会開会という出来事と、その直接の前後関係(同年3月の予備議会、同年5月19日の議長選出、1849年3月の憲法可決・公布と皇帝選出、同年4月の皇帝辞退、同年5月・6月の議会解散)に限定する。国民議会が審議した将来のドイツ国家の構想や、1848年革命の政治史・社会史的な位置づけ、パウロ教会そのものの戦後の再建と現在の記念施設としての役割については、本記事の主題外として扱わない(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-02206] Revolution und Frankfurter Nationalversammlung 1848/1849(ドイツ連邦議会 歴史解説ページ)/Deutscher Bundestag(ドイツ連邦議会)(ランクS)
  2. [SRC-02207] Frankfurter Paulskirche(ドイツ連邦議会 史跡解説ページ)/Deutscher Bundestag(ドイツ連邦議会)(ランクS)
  3. [SRC-02208] 27. März 1849: Paulskirche verabschiedet Verfassung des Deutschen Reiches(ドイツ連邦議会 歴史文書アーカイブ)/Deutscher Bundestag(ドイツ連邦議会)(ランクS)
  4. [SRC-02209] Die Deutsche Nationalversammlung in der Paulskirche zu Frankfurt (Main), 1848(LeMO Bestand — Objekt)/Deutsches Historisches Museum(ドイツ歴史博物館、LeMO — Lebendiges Museum Online)(ランクA)
  5. [SRC-02210] März 1849(Schlaglichter einer Revolution — Bundesarchiv)/Bundesarchiv(ドイツ連邦公文書館)(ランクS)
  6. [SRC-02211] Heinrich Wilhelm August Freiherr von Gagern 1799-1880(LeMO Biografie)/Deutsches Historisches Museum(ドイツ歴史博物館、LeMO — Lebendiges Museum Online)(ランクA)
  7. [SRC-02212] Stenographischer Bericht über die Verhandlungen der Deutschen Constituirenden Nationalversammlung zu Frankfurt am Main. 1. 1848(速記録 第1巻・BSB/MDZ)/Bayerische Staatsbibliothek(バイエルン州立図書館、MDZ — Münchener DigitalisierungsZentrum)(ランクS)
  8. [SRC-02213] Stenographischer Bericht über die Verhandlungen der Deutschen Constituirenden Nationalversammlung zu Frankfurt am Main. 8. 1849(速記録 第8巻・BSB/MDZ)/Bayerische Staatsbibliothek(バイエルン州立図書館、MDZ — Münchener DigitalisierungsZentrum)(ランクS)
  9. [SRC-02214] Jahreschronik 1848(LeMO 年表)/Deutsches Historisches Museum(ドイツ歴史博物館、LeMO — Lebendiges Museum Online)(ランクA)
  10. [SRC-02215] Jahreschronik 1849(LeMO 年表)/Deutsches Historisches Museum(ドイツ歴史博物館、LeMO — Lebendiges Museum Online)(ランクA)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-10-07あり
22026-10-07あり
32026-10-07あり
42026-10-07あり
52026-10-07なし
62026-10-07不明

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