1872年12月、無人のまま大西洋を漂流するメアリー・セレスト号が発見された——船はほぼ無傷、乗員10人だけが消え、原因は今も分かっていない

日付と暦

原典表記
1872年12月4日(グレゴリオ暦)
換算
1872-12-04(グレゴリオ暦)
掲載日
12月4日のページ

暦の注記: この出来事はグレゴリオ暦の1872年12月に起きたが、正確な日付は出典間で記載が割れている。Smithsonian Magazineの2024年の記事は「12月4日」(航海日誌の最後の記載から9日後)とし[SRC-00873]、同誌2007年の記事は「12月5日」(同10日後)とする[SRC-00872]。同一の出版元(Smithsonian Magazine)の記事同士でこの相違が生じており、両記事とも相違の理由には触れていない。本サイトでは12月4日のページに掲載するが、この日付の不確かさ自体を異説・論争欄に記す。

この記事の主張は出典に紐づけて検証しています。検証記録を見る

概要

1872年12月、Dei Gratia(デイ・グラツィア号)が、大西洋上のアゾレス諸島東方約400マイルの海域で、漂流する一隻の船を発見した[SRC-00872][SRC-00873]。その船は、8日前に自分たちより先にニューヨークを出港し、イタリア・ジェノヴァに向かっていたはずのメアリー・セレスト号だった[SRC-00872]。船体は航行可能な状態で、1,701樽の工業用アルコールの積み荷もほぼ無傷だったが、唯一の救命ボートは失われ、船長ベンジャミン・スプーナー・ブリッグスとその妻・2歳の娘・乗組員7名、計10名の乗員は誰一人として船上におらず、その後も二度と見つからなかった[SRC-00872][SRC-00873]。ジブラルタルでの英国海事裁判所の審理では検事総長フレデリック・ソリー=フラッドが不正行為を疑って捜査したが、3か月余りの審理を経ても不正行為の証拠は見出されなかったとされる[SRC-00872]。1884年にはアーサー・コナン・ドイルがこの事件を題材にした虚構の短編小説を発表して事件を広く知らしめ、以後、反乱・海賊・海の怪物・竜巻・アルコール蒸気の爆発など、実に様々な説が唱えられてきたが、乗員が船を放棄した理由は今なお確定していない[SRC-00872][SRC-00873][SRC-00874][SRC-00875]。

本文

メアリー・セレスト号は1872年11月7日、乗組員7名と船長ベンジャミン・スプーナー・ブリッグス、その妻サラ、2歳の娘ソフィアを乗せてニューヨークを出港した[SRC-00872][SRC-00873]。282トンのブリガンティン船は、イタリア・ジェノヴァへ運ぶための1,701樽の工業用アルコールを積んでいた[SRC-00872][SRC-00873]。船は2週間にわたり大西洋の荒天と戦いながらアゾレス諸島へ向かい、航海日誌の最後の記載は11月25日午前5時、サンタマリア島付近の位置で記録された[SRC-00872]。その後、メアリー・セレスト号の消息は途絶えた[SRC-00872][SRC-00873]。

同じころ、Dei Gratia号がメアリー・セレスト号より8日遅れてニューヨークを出港していた[SRC-00872]。Dei Gratia号の国籍・船種の表記も出典間で幅があり、Blumberg(2007年)は「英国船籍のブリッグ(brig)」と記し[SRC-00872]、Wizevich(2024年)は「カナダのブリガンティン(brigantine)」と記す[SRC-00873]。1872年12月、Dei Gratia号の乗員は、アゾレス諸島の東方約400マイルの荒れた海上で、操舵する者のいないまま漂流する一隻の船を発見した[SRC-00872][SRC-00873]。この発見の正確な日付については出典間で記載が割れている(詳細は異説・論争欄)[SRC-00872][SRC-00873]。Dei Gratia号のデイヴィッド・モアハウス船長は、その船が自分たちより先に出港し既にジェノヴァへ到着しているはずのメアリー・セレスト号であることに気づいて驚き、針路を変えて助力を申し出たとされる[SRC-00872]。

モアハウス船長は臨検隊をメアリー・セレスト号に送り込んだとされる。船内では海図が散乱し、乗組員の私物は各自の船室にそのまま残されていた。唯一の救命ボートは失われており、2つあるポンプのうち1つは分解された状態だった。船底には約3.5フィートの水が溜まっていたが、積み荷の1,701樽の工業用アルコールはほぼ無傷であり、半年分の食料と水も残っていた[SRC-00872]。臨検隊は船の主ハッチが閉まった状態にあるのを確認しており、アルコールの臭気を嗅いだとの報告も残していない[SRC-00872]。乗員10名の姿はどこにもなかった[SRC-00872][SRC-00873]。

Dei Gratia号の乗員はメアリー・セレスト号に乗り込み、発見地点からさらに約800マイル離れた英国領ジブラルタルまで、同船を自らの手で航行させたとされる[SRC-00872][SRC-00873]。モアハウス船長はジブラルタルから、ニューヨークのAtlantic Mutual Insurance Company(大西洋相互保険会社)の担当者へ、発見した船が「航行可能」["seaworthy"]な状態で無人のまま漂流していたことを伝える電報を送った[SRC-00873]。米国内ではこの報が広まり、船長一家と乗組員が十分な物資を備えた航行可能な船をなぜ放棄したのかをめぐって憶測が広がった。『Alexandria Gazette』紙は、この状況が「不正な取引を強く示唆する……不正行為があり、その根底にアルコールがあるとの推測が成り立つ」["strongly indicative of unfair dealing. ... The inference is that there has been foul play somewhere and that alcohol is at the bottom of it."]と報じた[SRC-00873]。

ジブラルタルでは英国海事裁判所(vice admiralty court)が救助料審理を開いた。通常この種の審理は、救助者(Dei Gratia乗員)が船主の保険会社から支払いを受ける資格があるかどうかを判断するだけのものだったが、審理を担当した検事総長フレデリック・ソリー=フラッドは不正行為を疑い、それに応じた捜査を行った[SRC-00872]。3か月余りに及んだ審理の末、法廷は不正行為の証拠を見出せなかったとされる[SRC-00872]。最終的にDei Gratia乗員は救助料の支払いを受けたが、船体と積み荷にかけられていた46,000ドルの保険金額のわずか6分の1にとどまり、当局がDei Gratia乗員の無実を完全には確信していなかったことをうかがわせるものだった[SRC-00872]。

歴史的背景

メアリー・セレスト号は、もともと"Amazon"(アマゾン号)という名でノヴァスコシアにおいて1861年に建造された船である。当初は西インド諸島・英国・地中海を結ぶ、特に目立たない交易航路に従事していたが、一連の事故とケープ・ブレトン沖での難破を経て、米国の実業家リチャード・W・ヘインズがこの船を購入し、大規模な修理を施したうえで「メアリー・セレスト」と改名した[SRC-00873]。1872年秋、この船にジェノヴァ向けの工業用アルコール1,701樽が積み込まれ、ブリッグス船長はマサチューセッツ州メリオンの自宅を離れてニューヨークへ向かい、この最後の航海に乗り出した[SRC-00873]。この事件を著書にまとめた作家チャールズ・エディ・フェイは、船が「スタテン島の停泊地を離れたとき、彼女は比較的無名の状態から、海の記録の中で永続的な名声を得る地位へと引き上げられる航海を開始した」["she began a voyage destined to lift her from comparative obscurity to a place of enduring fame in the chronicles of the sea"]と書き残している[SRC-00873]。

事件発生当時、船に積まれていた工業用アルコールが失踪の原因として憶測を呼んだ[SRC-00873]。事件から12年後の1884年、アーサー・コナン・ドイルが発表した短編小説『J・ハバクック・ジェフソンの陳述』が、事件を世界的な伝説として広める大きな転機になったとされる[SRC-00872]。この扇情的な作品がなければ、メアリー・セレスト号の物語は歴史の中に埋もれていたかもしれないと評されており、コナン・ドイルの作品が発表されて以降、事件をめぐる憶測の波が繰り返し起こることになった[SRC-00872][SRC-00873]。ソリー=フラッド検事総長自身も後年この事件を再検討し、聴取内容や所見の要約を書き記しているが、謎は未解決のままだった[SRC-00872]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1872年11月7日(グレゴリオ暦) メアリー・セレスト号がニューヨークを出港。船長ブリッグス、妻サラ、娘ソフィア(2歳)、乗組員7名が乗船 [SRC-00872][SRC-00873]
1872年11月25日午前5時ごろ(グレゴリオ暦) アゾレス諸島サンタマリア島付近で、メアリー・セレスト号の航海日誌の最後の記載が記される [SRC-00872]
1872年12月4日または5日(グレゴリオ暦。出典間で相違。本文・異説欄参照) アゾレス諸島東方約400マイルの海域で、Dei Gratia号がメアリー・セレスト号を無人のまま発見する [SRC-00872][SRC-00873]
1872年12月(グレゴリオ暦。具体的な日付は出典に明記なし) Dei Gratia号の乗員がメアリー・セレスト号を自らの手で航行させ、発見地点から約800マイル離れたジブラルタルへ到着する [SRC-00872][SRC-00873]
3か月余り(グレゴリオ暦。開始・終了の具体的な暦日は出典に明記なし) ジブラルタルの英国海事裁判所で救助料審理が行われる。検事総長ソリー=フラッドが不正行為を疑い捜査するが、不正行為の証拠は見出されないとされる [SRC-00872]
1884年(グレゴリオ暦) アーサー・コナン・ドイルが短編小説『J・ハバクック・ジェフソンの陳述』を発表し、事件を広く知らしめる [SRC-00872][SRC-00873]
2006年(グレゴリオ暦) UCL化学科のアンドレア・セラ博士が、船倉の複製にブタンガスを用いた爆発実験を行い、燃焼・焦げの痕跡を残さない爆発が起こり得ることを示す [SRC-00875]
2007年(グレゴリオ暦) ドキュメンタリー作家アン・マクグレガーと海洋学者フィル・リチャードソンが、航海日誌の転写と海洋データを用いた再現調査の結果を発表する [SRC-00872]
2026年(グレゴリオ暦) 英マンチェスター大学のジャック・ロウボサムとフランク・メアが、セラ博士の実験を木材とエタノールを用いてより実際の船内条件に近づけて発展させた模型実験を行う [SRC-00874]
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)

発見の正確な日付(12月4日か、12月5日か): 本サイトが登録した出典のうち、Smithsonian Magazineの2024年の記事(Wizevich)は「1872年12月4日」に発見されたとし、航海日誌最後の記載(11月25日)から「9日後」だったと記す[SRC-00873]。一方、同誌2007年の記事(Blumberg)は「1872年12月5日」とし、「10日後」だったと記す[SRC-00872]。両記事は同じ出版元(Smithsonian Magazine)でありながら著者・掲載年が異なり(2007年のBlumberg記事、2024年のWizevich記事)、日数の数え方まで対応して1日ずれている。2024年の記事は2007年の記事を明示的に引用しているにもかかわらず、この日付の相違には触れていない。本サイトはこの相違を解消する立場にはなく、12月4日のページに掲載したうえで両論を併記する。

乗員失踪の原因: 乗員10名が消えた理由については、多岐にわたる説が唱えられてきた。以下は、いずれも本サイトが登録した出典が直接扱う範囲に限って整理したものであり、本サイトはいずれの説が正しいかを判定しない。

19世紀当時に唱えられた説として、乗組員が積み荷のアルコールを飲んで反乱を起こしたという説や、アルコール蒸気が主ハッチを吹き飛ばし乗員が爆発を恐れて船を放棄したという説があった[SRC-00872]。しかしドキュメンタリー作家アン・マクグレガーが2002年から進めた調査は、前者について乗組員の子孫への聴取からありそうにないと判断し、後者についてはDei Gratia号の臨検隊が主ハッチを閉まった状態で発見し、臭気を嗅いだとの報告も残していないことを理由に退けた[SRC-00872]。同様に、海の怪物説は容易に退けられたとされ、船の積み荷・船体が無傷だったことから海賊説も退けられたように見えた[SRC-00872]。私物が船に残されていなかったことから疑われたドイツ人乗組員の兄弟(フォルケルト・ローレンツェンとボイエ・ローレンツェン)についても、子孫の証言(1872年の別の難破で装備を失っていたという内容)から動機がなかったとしてマクグレガーは退けている[SRC-00872]。

マクグレガーとウッズホール海洋研究所の海洋学者フィル・リチャードソンは、航海日誌の転写(航海日誌の原本は1885年に失われたとされる)と、1784年から2007年までの海洋データを収めた国際データセット(ICOADS)を用いて、メアリー・セレスト号が11月25日の記録位置から乗員なしで漂流し得たかを検証し、できたと結論づけた[SRC-00872]。そのうえで両者は、ブリッグス船長が不正確なクロノメーター(航海用時計)のため、実際の位置が本人の推定位置よりも120マイル西にあったこと(つまり本人は自分が実際より東にいると誤認していたこと)を指摘した[SRC-00872]。マクグレガーはさらに、前の航海で積んだ石炭の粉塵が直近の改修工事の残骸とともにポンプを詰まらせ、発見時に分解された状態で見つかったポンプを説明し得ると指摘しており、船体にどれだけ浸水しているか把握できなかった船長が、荒天を乗り越え遅れて陸地を視認した末に退避を命じた可能性がある、との説を提示している[SRC-00872]。この説はマクグレガー・リチャードソンの調査という単一の系統に基づくものであり、他の独立した調査による裏づけは本サイトが登録した出典の範囲では確認できていない。

これとは別に、UCL化学科のアンドレア・セラ博士は2006年、メアリー・セレスト号の船倉の複製を製作し、木製の樽の代わりに紙製の立方体を用いてブタンガスによる爆発を再現する実験を行い、爆発は圧力波型で船体に燃焼や焦げの痕跡を一切残さなかったことを示した[SRC-00875]。英マンチェスター大学のジャック・ロウボサムとフランク・メアは2026年、セラ博士の実験を、ブタンガスと紙の代わりに木材とエタノールを用いてメアリー・セレスト号船内の状況をより実際に近づける形で発展させ[SRC-00874]、1:18スケールの模型を用いた実験で、荒天によりハッチを閉め切った船倉内にエタノール蒸気が閉じ込められ、温暖な気候域で引火点(摂氏13度)を超えて蓄積した状態で火花により急速に爆発した場合も、爆発は一瞬で終わり燃焼・焦げの痕跡を一切残さないことを示した[SRC-00874]。ロウボサムとメアは、この結果を「一連の要因が組み合わさった、非常に説得力のある筋書き」["the cocktail of factors that comes together presents a very convincing case"]と評しており[SRC-00874]、セラ博士も同様に、当時の発見時の記録に照らして「提案されてきたあらゆる説の中で最も事実に適合する」["It is the most compelling explanation... Of all those suggested, it fits the facts best"]との見方を示している[SRC-00875]。もっとも、この爆発説と、Dei Gratia号の臨検隊が主ハッチを閉まった状態で発見し臭気の報告も残していないという、マクグレガーの調査が退けた19世紀の単純な爆発説と同じ物的記録(前段落参照)[SRC-00872]との整合性は、本サイトが登録した出典の範囲では明確に説明されていない。本サイトはいずれの説が正しいかを判定せず、両論を提示するにとどめる。

なお、アーサー・コナン・ドイルが1884年に発表した短編小説『J・ハバクック・ジェフソンの陳述』は、船の唯一の生存者という架空の語り手の視点から、アフリカ系の一団による乗員殺害を描いた完全な虚構であり、史実ではない[SRC-00873]。この作品をめぐっては、その筋書きの紹介の仕方にも出典間で幅がある。2007年の記事は「恨みを持つ元奴隷による船の乗っ取り」["a vengeful ex-slave"]と要約し[SRC-00872]、2024年の記事は「アフリカ系の一団が語り手を除く乗員全員を殺害した」["a group of Africans killed every crew member except for the narrator"]という筋書きだと紹介している[SRC-00873]。いずれの紹介も、これが史実ではなく創作であることを明記している。

論点 根拠・出典 学界での位置づけ
発見の日付 1872年12月4日(最後の航海日誌記載から9日後) Smithsonian Magazine(Wizevich、2024年) [SRC-00873]。本サイトはこちらの日付でカレンダー配置する
(同上) 1872年12月5日(同10日後) Smithsonian Magazine(Blumberg、2007年) [SRC-00872]。同一出版元の別記事と対応が食い違う
乗員失踪の原因 乗組員が船内のアルコールを飲んで反乱を起こした 19世紀当時に唱えられた説 [SRC-00872]。マクグレガーの調査(子孫への聴取)により、ありそうにないと退けられた
(同上) アルコール蒸気が主ハッチを吹き飛ばし、乗員が爆発を恐れて放棄した(19世紀の単純な爆発説) 19世紀当時に唱えられた説 [SRC-00872]。臨検隊が主ハッチを閉まった状態で発見し臭気の報告もないことから、マクグレガーの調査により退けられた
(同上) 私物を残したドイツ人乗組員兄弟(ローレンツェン兄弟)への疑い 1935年の映画『The Mystery of the Mary Celeste』の着想源とされる説 [SRC-00872]。子孫の証言(別の難破で装備を喪失)により動機なしと退けられた
(同上) クロノメーターの誤差による位置の誤認+石炭粉塵によるポンプ目詰まりで、船長が浸水を懸念し退避を命じた アン・マクグレガー/フィル・リチャードソンの調査(2007年) [SRC-00872]。単一系統の調査であり独立した裏づけは未確認
(同上) 船倉内のブタンガス(積み荷アルコールに由来する想定)による爆発。圧力波型で燃焼・焦げの痕跡を残さない UCL・アンドレア・セラ博士の実験(2006年) [SRC-00875]。上記のマクグレガー説とは物的記録の解釈が一致しない部分がある
(同上) 荒天でハッチを閉め切ったことによるエタノール蒸気の急速な爆発(燃焼・焦げの痕跡を残さない)。セラ博士の実験を発展させたもの マンチェスター大学・ロウボサム&メアの実験(2026年) [SRC-00874]。上記のマクグレガー説とは物的記録の解釈が一致しない部分がある
メアリー・セレスト号事件の虚構化 コナン・ドイルの短編小説(1884年)の筋書き:恨みを持つ元奴隷による乗っ取り Smithsonian Magazine(Blumberg、2007年)の紹介 [SRC-00872]。史実ではなく創作と明記される
(同上) コナン・ドイルの短編小説(1884年)の筋書き:アフリカ系の一団による乗員殺害 Smithsonian Magazine(Wizevich、2024年)の紹介 [SRC-00873]。史実ではなく創作と明記される

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

メアリー・セレスト号の事件は、確たる証拠が乏しいまま憶測だけが積み重なるとどのような伝説が生まれるかを示す代表例として、150年以上にわたり語り継がれてきた[SRC-00872]。事件発生から12年後にアーサー・コナン・ドイルが発表した虚構の短編小説は、史実に基づかない筋書きであったにもかかわらず、その後の憶測の波を引き起こし、事件そのものの受け止められ方にまで影響を及ぼした[SRC-00872][SRC-00873]。ジブラルタルの検事総長ソリー=フラッド自身も後年この事件を再検討したように、確定的な結論が出ないまま「謎」であり続けたことが、かえってこの事件を航海史上根強い未解決事件の一つに押し上げたと言える[SRC-00872]。

現代の視点

21世紀に入ってからも、メアリー・セレスト号の謎を科学的に検証する試みが続いている。2007年のドキュメンタリー調査は、当時の航海日誌の転写と近代的な海洋データベースを組み合わせる手法を用いた[SRC-00872]。2006年の実験はブタンガスと紙の立方体を用いた船倉の複製で、2026年の実験はそれを木材とエタノールを用いてより実際の船内条件に近づける形で発展させたもので、それぞれ爆発が燃焼・焦げの痕跡を残さずに乗員の退避を招き得たかどうかを検証している[SRC-00874][SRC-00875]。いずれも、史料に残された物的証拠(船体の状態・積み荷の状態・ハッチの状態など)と整合するかどうかを手がかりに仮説を検証するという、現代の歴史学・自然科学に共通する手法である(本サイトの整理)。それでも、生存者の証言が一切残っていない以上、確定的な結論には至っておらず、メアリー・セレスト号の乗員に何が起きたのかは、今もなお完全には解明されていない[SRC-00873]。

出典一覧

  1. [SRC-00872] Abandoned Ship: The Mary Celeste/Smithsonian Magazine(Smithsonian Institution)(ランクB)
  2. [SRC-00873] An Abandoned Merchant Ship Was Discovered Floating in the Atlantic in 1872. The Mystery of Its Missing Crew Was Never Solved/Smithsonian Magazine(Smart News欄・Smithsonian Institution)(ランクB)
  3. [SRC-00874] Chemists think they know what happened on board the Mary Celeste/Chemistry World(英国王立化学会 Royal Society of Chemistry)(ランクB)
  4. [SRC-00875] Solved: The Mystery of the Mary Celeste/UCL News(University College London)(ランクB)(複数の資料を収載)

本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。

訂正履歴

日付事実主張への変更
12026-09-06
22026-09-06あり

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