鉄道各社の申し合わせだけで、北米の正午は一日に二度訪れた

日付と暦

原典表記
1883年11月18日(グレゴリオ暦)
換算
1883-11-18(グレゴリオ暦)
掲載日
11月18日のページ

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概要

1883年11月18日、米国とカナダの鉄道各社は、各時間帯の標準時が正午に達した時点で順次、それまで地域ごとにばらばらだった地方時に代えて、標準化された時間帯(Standard Railway Time)へ切り替えた[SRC-00736][SRC-00738][SRC-00739]。切り替えの瞬間、地域によっては地方時としての正午と新しい標準時としての正午が一日に二度訪れることになった[SRC-00736][SRC-00737][SRC-00740]。この現象は「正午が二度の日」(Day of Two Noons)と呼ばれた[SRC-00736][SRC-00737]。米国議会図書館法律図書館のブログによれば、この統一は鉄道業界団体ゼネラル・タイム・コンベンション(General Time Convention)が同年10月11日にシカゴで採択した、ウィリアム・F・アレンの案に基づく私的な申し合わせであり、連邦法によるものではなかったという[SRC-00737]。米国で標準時間帯が連邦法に明記されたのは、これより約35年後の1918年3月19日制定の標準時法(Standard Time Act)による[SRC-00737][SRC-00738]。

本文

米国議会図書館法律図書館の解説によれば、19世紀後半の鉄道各社は自社の拠点都市などに合わせた独自の時刻体系を運用しており、路線が地域規模の時間帯へ統合されつつあった1880年代初頭の時点でも、なお推定80種の時間帯が鉄道会社の間で並立していたという[SRC-00737]。同じ記事は、鉄道に限らず北米の都市・町一般が独自の地方時を用いていたことについても触れ、そうした地方時の集まりは北米全体で144を超えていたとも記している[SRC-00737]。

こうした混乱に対する最初の解決案を、西経75度・90度・105度・120度の子午線を基準に米国を4つの時間帯(各1時間差)へ分割する案として示したものの[SRC-00737]、採用には至らなかったのが、チャールズ・F・ダウドだったとされる[SRC-00736][SRC-00737]。ダウドは当時の惨状を「旅行者の懐中時計は、彼にとってはもはや幻影に過ぎなかった。駅の時計は互いを睨みつけ合うように、互いとも周囲の地方時とも調和せず、旅行者の時計ともまるで噛み合わず、あらゆる分別ある解釈を打ち砕いた」("the traveler's watch was to him but a delusion; clocks at stations staring each other in the face defiant of harmony either with one another or with surrounding local time and all wildly at variance with the traveler's watch, baffled all intelligent interpretation.")と書き残している[SRC-00737]。カナダ政府鉄道の主任技師サンフォード・フレミングも、1876年に著した文書『Terrestrial Time』でダウドとは異なる、24時間制による国際的な時刻標準を提案していた[SRC-00737]。米国議会図書館「今日の歴史」欄によれば、気象学者クリーブランド・アビーは1875年以降、標準時の必要性をアメリカ気象学会に働きかけ、同学会は標準時委員会を設置してアビーを委員長とし、1879年に標準時導入の主要文書となる報告書を公表したという[SRC-00739]。米国議会図書館法律図書館のブログも、同学会が1879年にアビーの働きかけを受けて標準時委員会を設置したことに触れ、アビーは正確な天気予報のために標準時の必要性を唱えていたと記しているが、1875年以降という開始時期や報告書の公表には触れておらず、両ページの記述は完全には一致しない[SRC-00737]。

米国議会図書館法律図書館のブログによれば、政府による介入を懸念していた鉄道各社は、1881年10月、業界団体ゼネラル・タイム・コンベンションでこの課題を取り上げ、同コンベンションの書記で『トラベラーズ・オフィシャル・レールウェイ・ガイド』誌の発行人だったウィリアム・F・アレンに、標準時間帯案の作成を委嘱したという[SRC-00737]。同ブログによれば、アレンはダウド・フレミング・アビーそれぞれの案を踏まえつつ、鉄道の技術者や役員の意見も募ったうえで案をまとめ、1883年10月11日、シカゴのグランド・パシフィック・ホテルで開かれたゼネラル・タイム・コンベンションの会合でこれを提示したという[SRC-00737]。アレンが考案・提示したのは、西経75度・90度・105度・120度の子午線の平均太陽時を基準とする、1時間ずつ差のある5つの時間帯からなる案であり[SRC-00737]、その内訳はインターコロニアル・東部(Eastern)・中部(Central)・山岳部(Mountain)・太平洋(Pacific)であった[SRC-00736]。同ブログによれば、出席した鉄道役員の多数がこれに賛成し、実施日は1883年11月18日正午と定められたという[SRC-00737]。

実施にあたっては、米海軍天文台とピッツバーグのアレゲニー天文台がそれぞれ、鉄道各社の時計合わせを助けるための電信信号を送ることに同意した[SRC-00737]。多くの都市は速やかに新しい標準時を受け入れ、翌年までにはさらに多くの都市が追随した[SRC-00737]。米国議会図書館「今日の歴史」欄によれば、導入からほどなく多くの米国の都市が条例を制定し、これが時間帯という枠組みが定着する一因になったという[SRC-00739]。一方で世論は割れており、多くは新しい制度を便利だと感じた一方、自然の秩序に反すると考えて反発する向きもあった[SRC-00737]。米国議会図書館法律図書館のブログは、『インディアナポリス・センティネル』紙がこの変化を痛烈に批判した記事として、「人々は鉄道時間で結婚し、鉄道時間で死ぬことになるだろう。牧師は鉄道時間で説教し、銀行は鉄道時間で開閉する……事実上、鉄道コンベンションが時間業を掌握したのであり、人々もその布告に従って身の回りを調整するほかない」("People will have to marry by railroad time and die by railroad time. Ministers will be required to preach by railroad time—banks will open and close by railroad time—in fact, the Railroad Convention has taken charge of the time business, and the people may as well set about adjusting their affairs in accordance with its decree…")という一節を引用している[SRC-00737]。

歴史的背景

19世紀後半の米国では、鉄道網の急速な拡大が時刻の統一を切実な課題にしていた。米国議会図書館法律図書館のブログによれば、1862年の太平洋鉄道法を契機に大陸横断鉄道の建設が進み、1865年までに推定3万5千マイルの線路が敷かれていたという[SRC-00737]。米海軍天文台によれば、標準時間帯導入以前は「時刻は地域ごとの問題であり、多くの都市や町が、教会の尖塔や宝石店の時計といったよく知られた時計を基準に何らかの地方太陽時を用いていた」という("time of day was a local matter, and most cities and towns used some form of local solar time, maintained by some well-known clock (for example, on a church steeple or in a jeweler's window).")[SRC-00738]。鉄道各社は自社が定める時刻に合わせて列車を運行しており、会社によって用いる時刻が異なっていたため、こうした違いが重大な衝突事故や多数の死者につながりかねなかった[SRC-00736]。

米国議会図書館「今日の歴史」欄は、標準時導入への機運が鉄道自身からではなく天文学者・地球物理学者から生まれたとも記しており、離れた地点での同時観測を必要とする科学者たちが早くから標準時を求めていたと説明する[SRC-00739]。鉄道各社が最終的に標準時間帯の採用に踏み切った背景には、こうした科学界からの圧力に加え、政府による強制的な介入を避けたいという業界側の思惑があったとされる[SRC-00737]。米国議会図書館「今日の歴史」欄も、この鉄道主導の統一が「30年余りにわたり、民間の時刻に対する連邦の介入を先送りした」と評している("forestalling federal intervention in civil time for more than thirty years")[SRC-00739]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1862年(グレゴリオ暦) 太平洋鉄道法が成立し、大陸横断鉄道の建設が本格化する [SRC-00737]
1875年以降(グレゴリオ暦) クリーブランド・アビーがアメリカ気象学会に標準時の必要性を働きかける [SRC-00739]
1876年(グレゴリオ暦) サンフォード・フレミングが文書『Terrestrial Time』で24時間制の国際標準時を提案 [SRC-00737]
1879年(グレゴリオ暦) アメリカ気象学会標準時委員会が報告書を公表(法律図書館ブログは同年を委員会の設置年として記すのみで報告書公表には触れていない) [SRC-00737][SRC-00739]
1881年10月(グレゴリオ暦) ゼネラル・タイム・コンベンションがウィリアム・F・アレンに標準時間帯案の作成を委嘱したとされる(法律図書館ブログの記述) [SRC-00737]
1883年10月11日(グレゴリオ暦) ゼネラル・タイム・コンベンション(シカゴ・グランド・パシフィック・ホテル)が、アレンの5時間帯案を可決したとされる(米国議会図書館法律図書館ブログの記述。会合の日付・場所を記す他出典はない) [SRC-00737]
1883年11月18日正午(グレゴリオ暦) 米国・カナダの鉄道各社が標準時間帯へ切り替え(「正午が二度の日」) [SRC-00736][SRC-00737][SRC-00738][SRC-00739]
1884年(グレゴリオ暦) ワシントンで国際的な実施に向けた会議(国際子午線会議)が開かれ、共通の本初子午線と世界的な時刻標準化が協議される [SRC-00739]
1918年3月19日(グレゴリオ暦) 連邦議会が標準時法(Standard Time Act)を制定し、標準時間帯を初めて連邦法に明記 [SRC-00737][SRC-00738]

暦の注記: 上表の日付はいずれもグレゴリオ暦であり、本事象に改暦境界等の複雑さは生じない。

異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)

出典間で、次の2点について記述が一致していない。

(1) 実際に導入・実施された標準時間帯は4つか5つか: 米国議会図書館の複数の解説ページのうち、「今日の歴史」欄は「導入された4つの標準時間帯は東部・中部・山岳部・太平洋だった」と記し("The four standard time zones adopted were Eastern, Central, Mountain, and Pacific.")、インターコロニアルには触れていない[SRC-00739]。一方、同館のリサーチガイドは、鉄道各社が実施したのはアレンの考案した版であり、その版は「インターコロニアル・東部・中部・山岳部・太平洋」の5つの時間帯からなっていたと記す[SRC-00736]。同じ米国議会図書館内でも、実際に導入・実施された標準時間帯の数について記述が一致していない。本サイトはどちらが正しいかを判定せず、両説を出典の言葉のまま併記する。なお、アレン自身が考案・提示した案が5つの時間帯から成っていたこと自体は、米国議会図書館法律図書館のブログとスミソニアン協会国立アメリカ歴史博物館という独立した2つの機関が一致して記しており、この点自体には争いがない[SRC-00737][SRC-00740]。

(2) チャールズ・F・ダウドが最初に提案を行ったのはいつか: 米国議会図書館のリサーチガイドは、ダウドが「1863年」に最初の提案を行ったが採用されなかったと記す[SRC-00736]。もっとも、同じリサーチガイドの巻末印刷資料一覧は、この提案と同一書名の著作(ダウドの著書)の刊行年を「1870年」と記しており、同一ページの中でも年代の記述が割れている[SRC-00736]。一方、同館法律図書館のブログは、ダウドが「1870年」にパンフレット『A System of National Time and its Application』を公刊し、その中で4つの時間帯への分割案を詳述したと記す[SRC-00737]。両者が同一の行為(最初の着想・私的な提案・パンフレットの公刊のいずれ)を指しているのかは出典からは判別できないため、本サイトはどちらの年が正確かを判定しない。

論点 根拠・出典 学界での位置づけ
実際に導入・実施された標準時間帯の数 4つ(東部・中部・山岳部・太平洋。インターコロニアルへの言及なし) [SRC-00739] 米国議会図書館「今日の歴史」欄の記述
同上 5つ(インターコロニアル・東部・中部・山岳部・太平洋。アレンの考案した版がそのまま実施されたとする) [SRC-00736] 米国議会図書館リサーチガイドの記述。同館の他ページとの関係は不明
ダウドが最初に標準時間帯案を提案した年 1863年(同じページの巻末印刷資料一覧は同一著作の刊行年を1870年と記す) [SRC-00736] 米国議会図書館のリサーチガイドの記述。同一ページ内でも年代の記述が割れる
同上 1870年(パンフレット公刊) [SRC-00737] 米国議会図書館法律図書館ブログの記述。同館の巻末印刷資料一覧も同パンフレットの刊行年を1870年とする

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

米海軍天文台によれば、1883年の標準時間帯導入は「万人にすぐ受け入れられたわけではなかった」ものの("The new standard time system was not immediately embraced by all")、通信・移動の面での実際的な利便性ゆえに採用は徐々に広がっていったという[SRC-00738]。この鉄道主導の枠組みは、1918年に標準時法として連邦法へ組み込まれるまでの間、事実上の全国標準として機能し続けた[SRC-00737][SRC-00738]。米国議会図書館法律図書館のブログは、現行の米国の時間帯制度は、郡の申請によって境界がところどころ移動してきたことを除けば、基本的に鉄道会社が最初に導入した制度と変わらないと述べている。同ブログはまた、乗客鉄道が自動車や飛行機に押されて人気を失いつつある一方で、時間帯という枠組みは鉄道が遺した持続的な遺産であるとも評している[SRC-00737]。

現代の視点

今日、私たちが日常的に使う「東部標準時」「太平洋標準時」といった呼び名の起源は、1883年に鉄道業界団体が私的に定めた時間帯の枠組みに遡る、というのが前掲の経過から導かれる本稿の整理である(出典がこの因果関係を直接述べているわけではない)。政府による法制化に先立って、業界団体の自発的な申し合わせが事実上の全国標準として定着し、後から法律がそれを追認するという順序は、業界標準が公的な規制に先行する現代の技術標準の成立過程とも通じるところがある(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-00736] The Day of Two Noons — This Month in Business History/Library of Congress (Research Guides)(ランクA)
  2. [SRC-00737] Whose Time is it Anyway? A Brief History of Standardized Time Zones in the United States/Library of Congress, In Custodia Legis (Law Library of Congress blog)(ランクA)
  3. [SRC-00738] U.S. Time Zones/U.S. Naval Observatory, Astronomical Applications Department(ランクA)
  4. [SRC-00739] Today in History - November 18 (Railroads Adopt Standard Time)/Library of Congress (Today in History)(ランクA)
  5. [SRC-00740] "On Time" Opens at Smithsonian's National Museum of American History/Smithsonian Institution, National Museum of American History(ランクA)

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訂正履歴

日付事実主張への変更
12026-09-05あり
22026-09-05あり
32026-09-05あり

訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。