1821年世界 19世紀

ナポレオンがセントヘレナ島で死去したのは1821年5月5日——『毒殺の証拠』とされた毛髪のヒ素は、少年期の髪からも同じく高い濃度で見つかった

日付と暦

原典表記
1821年5月5日(グレゴリオ暦)
換算
1821-05-05(グレゴリオ暦)
掲載日
5月5日のページ

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概要

1821年5月5日、流刑先の英領セントヘレナ島のロングウッド・ハウスで、ナポレオン・ボナパルトが死去した[SRC-02094][SRC-02095][SRC-01548]。翌日の5月6日、フランス側・英国側双方の立会いのもと解剖が行われ、医師たちは胃に広範な病変――幽門近くを貫通した潰瘍と、癌性病変あるいは癌へ進行しつつある部分――があったと記録した[SRC-02095][SRC-02096]。ところが1961年、死の翌日に採取されたとされる毛髪から高いヒ素濃度が検出されたことを根拠に、毒殺説が提起された[SRC-02095][SRC-02096]。2008年の研究は、このヒ素がナポレオンの少年期の毛髪にも、息子やジョゼフィーヌの毛髪にも同様に高い濃度で認められたことを示し、2021年には国際的な病理学者チームが解剖記録を再検討し、死因は上部消化管出血を伴う進行した悪性胃腫瘍であるとする結論を示した[SRC-02095]。死去の2日前には、医師アーノットが通常の5倍量のカロメルを投与した。歴史家ピエール・ブランダはこれが最後の数日間の苦しみを増したと分析し、著者バーバラ・クラジェフスカはこれがナポレオンを早逝させた直接の要因だったと分析している[SRC-02096][SRC-02097]。

本文

ナポレオンは1815年7月、ワーテルローでの敗北の後、英国側へ投降した[SRC-02097]。同年10月中旬、600冊の書物とともにノーサンバーランド号でセントヘレナ島に到着し、流刑生活が始まった[SRC-02096]。1817年頃から体調不良の訴えが断続的にあったが、1820年9月18日以降、はっきりとした症状――上腹部の痛み、食欲不振、悪心、嘔吐、しゃっくり、排尿障害、倦怠感、発熱、下痢と便秘、著しい脱力――が現れ始めた。著者はこれを単一の病気の進行として捉え、近侍・医師らの記録もこの症状について一致していると分析する[SRC-02096]。1821年4月1日、危篤状態にあったナポレオンのもとに、英国軍医アーチボルド・アーノットが呼び入れられた[SRC-02098]。

1821年5月3日、死の2日前、アーノットはショート・ミッチェル両医師との共同処方のもとで、フランス側医師フランチェスコ・アントマルキの反対にもかかわらず、通常の5倍量にあたる64.8サンチグラムのカロメルを投与した。5〜6時間後、ナポレオンは持続性の内出血・黒色嘔吐・タール便・著しい発汗・急速な脈拍という激しい反応を示した[SRC-02096]。2021年の学術的な再検討は、ナポレオンがこの投与の前から既に頻脈の状態にあったことを踏まえ、カロメルの投与そのものが死因ではなく、基礎にあった進行した悪性胃腫瘍による出血を誘発した「きっかけ」にすぎなかったとみる[SRC-02095]。歴史家ピエール・ブランダも同様に、フランス側のアントマルキと英国側のアーノット双方が投与した水銀製剤が、既にあった胃潰瘍の穿孔を悪化させ、死去前の数日間を苛烈な苦しみにしたと分析する[SRC-02097]。

1821年5月5日午後5時49分、ナポレオンはロングウッド・ハウスで死去した[SRC-02094][SRC-01548]。翌5月6日午後2時、同じロングウッド・ハウスでフランス側・英国側双方の立会いのもと解剖が行われた。フランス側にはアントマルキ・モントロン伯・ベルトラン将軍・従者サン=ドニ・マルシャン・執事ピエロン・司祭ヴィニャーリが、英国側には7名の医師(アーノット・ショート・ミッチェル・バートン・リヴィングストン、ウォルター・ヘンリー、ジョージ・ヘンリー・ラトリッジ。このうち記録を取ったのはウォルター・ヘンリーである)と、ハドソン・ロウ総督の代理トーマス・リード卿らが立ち会った[SRC-02095]。英国側医師の報告書は、胃の内面がほぼ全域にわたり「癌性病変あるいは癌へ進行しつつある硬化性の部分の塊」であり、幽門から1インチの位置に小指が通る程度の、胃壁を貫通した潰瘍があったと記す[SRC-02095]。アントマルキの報告書も、立ち会った17名(うち8名は医師)による独立した観察とほぼ一致し、慢性の穿孔と出血を伴い、慢性胃炎を併発した胃癌という診断に至った[SRC-02096]。ただし同じ記録は、アントマルキの報告書内部に肝臓の記述の矛盾があったこと、またアントマルキ自身が後年、死因を慢性の胃の炎症と急性肝炎によるものとしたことも記している[SRC-02096]。

この解剖記録から導かれる死因について、学術的な検討の方向は一様ではない。1961年、ナポレオンの死の翌日に採取されたとされる毛髪の分析から高いヒ素濃度が検出されたとする論文がNature誌に発表され、毒殺説が提起された[SRC-02095][SRC-02096]。しかし2008年の研究は、同様に高い濃度のヒ素が、ナポレオンが少年だった頃の毛髪にも、また息子やジョゼフィーヌの毛髪にも見つかることを示した。この結果は、犯意を伴う毒殺という解釈を排除する根拠として引用されている[SRC-02095]。2021年、国際的な消化器病理学者の共同研究チームは、1821年の複数の解剖記録を医学的エビデンスの水準別に再評価し、死因は上部消化管出血を伴う進行した悪性胃腫瘍であるとする結論を示した[SRC-02095]。なお、2012年にはある医学史的な著書が胃癌説に異を唱え、消化管出血を伴う慢性胃炎を死因とする説を示したが、2021年の同チームはこの説を「きわめて不安定な根拠の上に立つ」ものとして退けている[SRC-02095]。死因をめぐる学術的な検討は、こうして200年を経てなお続いている。

1821年5月9日、ナポレオンはフランス側・英国側双方の立会いのもとセントヘレナ島内で埋葬されたとされる(単一系統のみに基づく記述であり、本記事は帰属形で示す)[SRC-02094]。

歴史的背景

歴史家ピエール・ブランダは、英国政府がナポレオンの幽閉のために「前例のない規模」の資源を投じたと分析する。「歴史上、ひとりの人間を鎖につなぐためにこれほど多くの資金と土地が割かれたことはない」とし、1792年から1795年にかけてのタンプル塔でのフランス王族幽閉さえ、これほどの資源を要しなかったと述べる[SRC-02097]。ブランダは、この厳格な監視体制の背景に、ナポレオンのエルバ島脱出(本サイトの別記事の主題)が示した予測不能さへの英国側の根強い恐怖心があったとし、英国首相リヴァプール伯の「彼にできたことを、他の誰にもできるとは私には思えない」という言葉を引いて、セントヘレナ総督ハドソン・ロウの厳格な態度もこの恐怖を踏まえなければ理解できないと分析する[SRC-02097]。英国立公文書館には、ロウの軍事秘書代理ギデオン・ゴレクールの文書・日記が保管されている[SRC-02100]。

他方、英国側の処遇に対する批判も存在していた。サンティーニの名で1829年に刊行された書籍は、その書誌タイトル自体に「ハドソン・ロウが〔科した〕数知れぬ虐待と苦難の図」「皇帝ナポレオンが受けた処遇についての英国民への訴え」という言葉を含んでおり、この題名の刊行物が1829年に刊行されていたことを示す[SRC-02094]。本記事は、著者サンティーニの身分や、この書籍が示す批判の内容の当否について判定するものではない。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1815年7月(グレゴリオ暦) ナポレオン、ワーテルローでの敗北後に英国側へ投降 [SRC-02097]
1815年10月中旬(グレゴリオ暦) ノーサンバーランド号でセントヘレナ島に到着、流刑生活を開始 [SRC-02096]
1821年4月1日(グレゴリオ暦) 英国軍医アーチボルド・アーノット、危篤状態のナポレオンの治療にあたる [SRC-02098]
1821年5月3日(グレゴリオ暦) アーノット、通常の5倍量のカロメルを投与。激しい内出血の反応が起きる [SRC-02096][SRC-02095]
1821年5月5日 午後5時49分(グレゴリオ暦) ナポレオン、ロングウッド・ハウスで死去(本記事の主題) [SRC-02094][SRC-02095][SRC-01548]
1821年5月6日 午後2時(グレゴリオ暦) フランス側・英国側双方の立会いのもと解剖 [SRC-02095][SRC-02094]
1821年5月7日(グレゴリオ暦) デスマスクのための仮型取り [SRC-02094]
1821年5月9日(グレゴリオ暦) フランス側・英国側双方の立会いのもと埋葬されたとされる [SRC-02094]
1961年10月14日(グレゴリオ暦) Nature誌に毛髪のヒ素分析論文が掲載され、毒殺説が提起される [SRC-02095][SRC-02096]
2008年(グレゴリオ暦) ナポレオンの少年期・家族の毛髪にも同様に高い濃度のヒ素を検出した研究が発表される [SRC-02095]
2021年(グレゴリオ暦) 国際的な病理学者チームが解剖記録を再検討し、胃腫瘍による死因説を結論として示す [SRC-02095]
異説・論争定説のない論点があります
論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
ナポレオンの死因 A: ヒ素による毒殺(1961年提起) [SRC-02095][SRC-02096](1961年Nature誌論文に基づく。毛髪の高いヒ素濃度を根拠とする) 2008年の研究により、同様に高い濃度のヒ素がナポレオンの少年期の毛髪・家族の毛髪にも見つかったことが示され、犯意を伴う毒殺という解釈を排除する根拠として引用されている。2021年の国際的な病理学者チームの査読付き論文はこの説を採らない。歴史家ピエール・ブランダも「決着済み」との見解を示す(本記事はこれを個人の見解として帰属形で示す)[SRC-02095][SRC-02097]
同上 B: 進行した悪性胃腫瘍(胃癌)に伴う上部消化管出血 [SRC-02095](2021年、国際的な消化器病理学者8名の査読付き論文。1821年の複数の解剖記録を医学的エビデンスの水準別に再評価) 1821年当時の解剖記録(フランス側・英国側いずれも)とも整合する、2021年の学術的検討が示す結論である。ただし本記事は、これを病理組織学的な確定診断(顕微鏡検査)を伴うものではない歴史医学的な再評価として、断定形ではなく帰属形で示す
同上 C: 消化管出血・貧血を伴う慢性胃炎(2012年提起) [SRC-02095][SRC-02096](2012年のGoldcherによる医学史的著書。なお、SRC-02096は、報告書作成者アントマルキ自身が後年、死因を慢性の胃の炎症と急性肝炎によるものとしたという、C説とは同一ではない別の見解を示したことも記す) 2021年の国際的な病理学者チームは、1821年の解剖記録の肉眼的記述(胃壁を貫通した潰瘍・癌性病変の塊)が2012年の著書の説と整合しないとして、明確に退けている
死去直前のカロメル投与と死因の関係 A: 投与そのものが死因ではなく、基礎疾患(胃腫瘍)による出血を誘発した契機(トリガー)にすぎない [SRC-02095][SRC-02097](2021年の学術論文、および歴史家ブランダの分析がいずれも同旨) SRC-02097はこの投与が最後の数日間の苦しみを増したと記し、SRC-02095はこの投与を出血を誘発した「きっかけ」と位置づける。両出典とも、投与そのものが死因ではないという点では一致する
同上 B: 投与が直接の死因であり、医師たちは「過失による致死者」だったが、犯罪行為ではなかった [SRC-02096](著者バーバラ・クラジェフスカ個人の分析。本記事はこれを帰属形で示す) SRC-02096は投与を「医療上の過誤であり犯罪行為ではない」としつつ、医師たちを「過失による致死者」と明記する。犯罪性の否定と致死への寄与の肯定は両立しうる立場であり、本記事はA説と並記する
英国によるセントヘレナでの流刑・監視の処遇 A: 英国側の根強い恐怖心に基づく、必要以上に厳格な監視体制だった [SRC-02097](歴史家ピエール・ブランダの分析) ブランダは、ナポレオンのエルバ島脱出が示した予測不能さが、この厳格さの背景にあったと分析する。これは歴史家個人の分析であり、本記事は帰属形で示す
同上 B: 1829年、英国側の処遇を批判する題名の書籍が刊行されていた [SRC-02094](書誌タイトル。「ハドソン・ロウが〔科した〕数知れぬ虐待と苦難」「英国民への訴え」の語を含む) 本記事は書籍本文の内容・著者の身分までは確認しておらず、この題名の刊行物が当時存在していたことのみを事実として記録する。英国側の処遇についての当否は、本記事は判定しない

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

ナポレオンの死は、1789年のフランス革命以来ヨーロッパを揺るがし続けた一時代の、最終的な終わりを告げる出来事だった。その死因が200年を経てなお学術的な検討の対象となっている事実は、歴史上の人物の最期についてさえ、新たな科学的手法(毛髪の中性子活性化分析等)が登場するたびに評価が更新され続けることを示している(本サイトの整理)[SRC-02095]。

現代の視点

ナポレオンの死因論争は、1840年の遺骸発掘・フランスへの改葬を機に本格化し、1961年のヒ素説の提起、1994年にシカゴで開催された「世紀の討論会」、2008年の毛髪分析研究、そして2021年の没後200年を期した国際的な病理学者チームの再検討まで、繰り返し取り上げられてきた。SRC-02096自身は、この論争を「150年にわたり学界を分けてきた」と記す(1840年を起点に数えれば2021年までは約180年にあたり、本記事はこの差を出典の記述どおり開示する)[SRC-02096][SRC-02095]。歴史上の著名な死について「本当の死因は何か」という問いが世代を超えて再検討され続けること自体が、ナポレオンという人物への関心の持続を物語っている(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-02094] A Close-up on Napoleon's Death/napoleon.org(Fondation Napoléon運営)(ランクB)
  2. [SRC-02095] The gastric disease of Napoleon Bonaparte: brief report for the bicentenary of Napoleon's death on St. Helena in 1821/Virchows Archiv(Springer刊行の査読誌。PDFはnapoleon.org〔Fondation Napoléon〕がオープンアクセス条件のもと再配布するコピーを使用)(ランクA)
  3. [SRC-02096] Arsenic and the Emperor/napoleon.org(Fondation Napoléon運営、Reading Room欄)(ランクB)
  4. [SRC-02097] Pierre Branda: Napoleon on St Helena "Never in the history of the world have so much money and land been given up to keep a single man in chains" (January 2021)/napoleon.org(Fondation Napoléon運営)(ランクB)
  5. [SRC-02098] Who was present at Napoleon's death?/napoleon.org(Fondation Napoléon運営)(ランクB)
  6. [SRC-02099] Collection de vingt-deux volumes, originaux et copies, contenant des documents de toute nature, lettres, rapports, mémoires, notes, etc., relatifs à la captivité de Napoléon Ier à Sainte-Hélène. Correspondance reçue par Hudson Lowe du 4 janvier 1821 à la fin de novembre 1821/Gallica(フランス国立図書館 Bibliothèque nationale de France のデジタルコレクション)(ランクS)
  7. [SRC-02100] The Gorrequer Papers: papers and diary of Colonel Gideon Gorrequer, Acting Military Secretary to Sir Hudson Lowe, Governor of St Helena during Napoleon's captivity (The National Archives, Discovery catalogue)/The National Archives, Kew(英国立公文書館)(ランクS)
  8. [SRC-01547] Napoleon I (Encyclopedia.com aggregator page)/Encyclopedia.com(Gale/Cengage Learning刊行の複数参考事典項目を集約するサイト)(ランクB)(複数の資料を収載)
  9. [SRC-01548] Hundred Days (Encyclopedia.com aggregator page)/Encyclopedia.com(Gale/Cengage Learning刊行の複数参考事典項目を集約するサイト)(ランクB)(複数の資料を収載)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-10-03—
22026-10-03あり
32026-10-03あり
42026-10-03なし
52026-10-09なし

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