ブラジル「共和国宣言」を動かしたのは、陸軍のごく一部だった

日付と暦

原典表記
1889年11月15日(グレゴリオ暦)
換算
1889-11-15(グレゴリオ暦)
掲載日
11月15日のページ

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概要

1889年11月15日朝、陸軍元帥デオドロ・ダ・フォンセカは重い呼吸困難のため衰弱し、馬車で家を出ざるを得ないほどだったが、そのうえで馬に乗って陸軍司令部に入った[SRC-00727]。この日、陸軍のごく一部が起こした蜂起により皇帝ペドロ2世の内閣は退陣に追い込まれ、同日夜、デオドロを大統領とする臨時政府が布告第1号で共和連邦制を暫定的に宣言した[SRC-00719][SRC-00720]。学術的研究は、共和党の得票率が1889年8月のリオの選挙でわずか12%だったことなどから、国民的合意でなく少数派主導の行動だったと位置づける[SRC-00720]。アメリカ議会図書館も独立に、共和主義への支持は広範でなく君主制はなお人気があったと記す[SRC-00723]。大規模な戦闘はなかったが無血ではなく、海軍大臣が発砲を受け負傷したと記録される[SRC-00720]。皇帝と皇室は数日後に国外追放され、ペドロ2世は1891年、亡命先のパリで死去した[SRC-00724][SRC-00726]。

本文

11月14日深夜から15日未明、騎兵・砲兵連隊の下級将校と士官学校生が部隊を動かした[SRC-00720]。閣僚評議会議長オウロ・プレト子爵はこれを察知し、部隊を召集し陸軍司令部に立てこもった[SRC-00720]。

蜂起軍の指揮官と目されたデオドロは前日から重い呼吸困難で衰弱していたが、蜂起側についていなかった陸軍第1旅団の歩兵大隊にも影響力を持つ彼の不在は懸念材料だった[SRC-00720][SRC-00727]。蜂起の報を受け、彼は起き上がり、進軍中の部隊に合流して指揮を執った[SRC-00720]。15日朝、蜂起軍はカンポ・デ・サンタナの陸軍司令部を制圧し、組織的な抵抗は見られなかった[SRC-00720]。唯一の抵抗は、遅れて合流しようとした海軍大臣バラン・ド・ラダリオが発砲を受け負傷した一件で、大規模な戦闘は生じなかった[SRC-00720]。オウロ・プレトは内閣総辞職を決め、デオドロはこの時点では皇帝と話し合って新内閣を組織する意向を示すにとどまった(異説あり。異説・論争欄を参照)[SRC-00720]。

同日夜、デオドロを大統領、アリスチデス・ロボを内相とする臨時政府(計8名)が構成され、布告第1号第1条はブラジル国家の政治体制として共和連邦制を暫定的に宣言すると定めた[SRC-00720]。第7条は国民投票による最終的な意思表明を留保したが、実施は104年後の1993年で、共和制が86.6%の票を得て信任された[SRC-00720]。

歴史的背景

共和党拡大の一因が、1888年5月13日制定の奴隷制廃止法(黄金法)である[SRC-00724][SRC-00727]。同法は約70万人を無補償で解放し、地主層は労働力と財産を失った[SRC-00724]。サンパウロ・リオグランデドスル両州では農場主が共和党支持へ転じ、同党は有権者の約25%を擁し拡大しつつあった[SRC-00720]。

共和主義の側では、士官学校で科学的教育を受けた下級将校ら(当時の言葉で軍の青年層)が、1870年代から共和主義クラブを結成していた[SRC-00720]。他方、教会との関係悪化(反フリーメーソン法対立、1872年以降)や軍との緊張も強まり、都市中間層・軍との距離が生じていた[SRC-00723][SRC-00724]。アメリカ議会図書館は、不満の中心は教会と軍にあった一方、君主制はなお人気で共和主義への支持は広範でなかったとも記す[SRC-00723]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1888年5月13日(グレゴリオ暦) 摂政イザベル王女の下、奴隷制廃止法(黄金法)が制定 [SRC-00724][SRC-00727]
1889年11月14日夜〜15日未明(グレゴリオ暦) 下級将校・士官学校生が部隊を動かし蜂起の準備 [SRC-00720]
1889年11月15日 朝(グレゴリオ暦) デオドロ・ダ・フォンセカが部隊を率いて陸軍司令部を制圧、内閣総辞職 [SRC-00720]
1889年11月15日 夜(グレゴリオ暦) 臨時政府が布告第1号で共和連邦制を暫定的に宣言 [SRC-00719][SRC-00720]
1889年11月16日(グレゴリオ暦) ペドロ2世が家族との国外退去に同意する書面に署名したとされる [SRC-00727]
1889年11月17日(グレゴリオ暦) 皇室がリオデジャネイロを出航し欧州へ向かったとされる [SRC-00726]
1891年2月24日(グレゴリオ暦) 第一共和国憲法が公布、デオドロが間接選挙で初代大統領に [SRC-00719]
1891年12月5日(グレゴリオ暦) ペドロ2世、亡命先のパリで死去 [SRC-00724][SRC-00726]
1993年(グレゴリオ暦) 布告が留保していた国民投票を実施、共和制が信任 [SRC-00720]
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)

論点: 陸軍内で共和主義の陰謀を主導したのは誰か。 FGV/CPDOCの歴史事典項目は、この点についても対立する2つの理解を紹介する。伝統的に定説とされてきたのは、プライア・ヴェルメーリャ士官学校の数学教官を長く務めたベンジャミン・コンスタント・ボテーリョ・デ・マガリャンイス中佐(当時tenente-coronel。後に臨時政府の陸軍大臣)が軍の青年層("mocidade militar")を指導し、実証主義の伝統を汲む論者を中心に、彼とその教え子たちこそが陰謀の主要な推進力だったとする説である[SRC-00720]。これに対し同項目は、より新しい史料の再検討として、実際には順序が逆で、軍の青年層自身がベンジャミン・コンスタントを共和主義の理想に引き込み転向させたのであり、陰謀の主役はこの層自身だったとする見解を示す。同項目は、この理解が従来の歴史書に見られる通説とは異なる点を自ら認めている[SRC-00720]。サンパウロ州議会の解説記事はこれとは異なる第3の位置を示し、「体制変更の決断はもっぱらベンジャミン・コンスタントから出たものであり、彼が老元帥に働きかけてそうさせた」(原語: "A decisão da mudança de regime partiu exclusivamente de Benjamin Constant que pressionou o velho marechal para fazê-lo.")と、コンスタントの単独主導を明言する[SRC-00727]。ただしこの記事は州議会職員による一般向け解説(Bランク)であり、FGV/CPDOCの学術的な歴史事典項目(Aランク)が示す上記2説とは典拠の水準が異なる。本サイトはこの3説のいずれにも与しない。

論点: デオドロは陸軍司令部を去る際、皇帝に「万歳」を叫んだか。 ある異説によれば、デオドロは建物を出る際、皇帝への「万歳(viva)」を叫んだとされる。この説はデオドロ支持者全員によって強く否定されており、後世の論争の種となってきた[SRC-00720]。

論点1: この出来事は「軍部主導のクーデター」か「国民的な合意による移行」か。 FGV/CPDOCが編纂する歴史事典項目は、この問いに明確に答えている。同項目は、事件を指す「宣言(proclamação)」という呼称そのものが「不可避の移行であり国民的合意の産物だった」という理解を暗に含んでいると指摘したうえで、その理解を否定する。共和党の選挙基盤は1889年8月のリオでの選挙でわずか12%に過ぎず、蜂起に加わった軍人も陸軍全体のごく一部(生え抜きの下級将校と士官学校生)に限られていたとする[SRC-00720]。アメリカ議会図書館の調査ガイドも、これと独立に、共和主義への支持は広範でなく君主制はなお国民に人気があり、臨時政府は当初躊躇いがちで実力によって維持されたと記す[SRC-00723]。

調査メモ: 「国民的合意による穏健な移行だった」と明示的に主張するB以上の出典は、FGV/CPDOC・アメリカ議会図書館・ブラジル国立公文書館・ブリタニカ・サンパウロ州議会の各解説を調べた範囲では見つからなかった。ただしこの調査自体、上記2つの異説(陰謀内の主導権・デオドロの「万歳」)を見落としていた調査であり、不在の一事をもって学界の評価が定まっているとは述べない。実際、Sランクのブラジル国立公文書館の解説は、陸軍の急進派だけでなく「合衆国憲法起草者の影響を受けた穏健派」の関与にも触れており[SRC-00719]、「陸軍のごく一部のみ」という単純化には留保が要る。

論点2: この出来事は「無血」だったか。 大規模な戦闘や組織的な抵抗はほぼ生じなかったとされる一方[SRC-00720]、政府側で唯一抵抗を試みたとされる海軍大臣バラン・ド・ラダリオは、陸軍司令部内の部隊への合流を試みる途上で発砲を受け負傷した(一命は取り留めた)と記録される[SRC-00720]。本サイトでは、この個別の記録を踏まえ「無血」という断定を避けた。

論点3: 共和国を最初に「宣言」したのは誰か・どこでか。 サンパウロ州議会の解説記事は、ジョゼ・ド・パトロシーニオが同日、リオデジャネイロ市議会(Conselho Municipal)の会合で共和派の旗を掲げ、民衆の名において王政の終焉を宣言した最初の人物だったとする[SRC-00727]。しかし、パトロシーニオ本人を主題とするFGV/CPDOCの学術的伝記には、この市議会での宣言に関する記述が一切見当たらない。同伝記はむしろ、黄金法後のパトロシーニオが反共和派の武装集団「黒衛隊」(Guarda Negra)の指導者と疑われていたこと、共和国宣言の直後に自身の新聞『ア・シダーデ・ド・リオ』へ、常に共和派だったとする釈明記事を掲載し、「イザベル派」("isabelista")との疑いを打ち消す必要に迫られたことを記録している[SRC-00722]。学術文献が中核的な宣言行為として一致して扱うのは、デオドロによる部隊行動と、同日夜に臨時政府が署名した布告第1号である[SRC-00719][SRC-00720]。

論点 根拠・出典 学界での位置づけ
陸軍内の陰謀の主導者 ベンジャミン・コンスタントが軍の青年層を指導したとする説 [SRC-00720] 実証主義の伝統を汲む論者に支持されてきた伝統的理解
同上 軍の青年層自身が主導し、ベンジャミン・コンスタントを転向させたとする説 [SRC-00720] FGV/CPDOC事典項目自身が近年の史料再検討として示す見解。従来の通説とは異なる点を自認
同上 体制変更の決断はもっぱらベンジャミン・コンスタントから出たものであり、彼が老元帥(デオドロ)に働きかけてそうさせたとする説 [SRC-00727] サンパウロ州議会の一般向け解説記事(Bランク)のみで確認。FGV/CPDOCの学術的整理(Aランク)とは典拠の水準が異なる
デオドロの退出時の言動 皇帝に「万歳」を叫んだとする異説 [SRC-00720] デオドロ支持者全員が強く否定。後世の論争の種
事件の性格 クーデター・少数派主導説 [SRC-00720][SRC-00723] FGV/CPDOC・アメリカ議会図書館が独立に支持
事件当日の暴力の有無 大規模な戦闘・組織的抵抗はなし [SRC-00720] 学術的記述の総括
同上 海軍大臣が発砲され負傷(無血ではない個別事実) [SRC-00720] 同一出典内の個別記述
共和国を最初に宣言した主体・場所 ジョゼ・ド・パトロシーニオが市議会で宣言(民間人による宣言) [SRC-00727] サンパウロ州議会の解説記事のみで確認。専門研究者による査読済み文献ではない
同上 デオドロの部隊行動と臨時政府の布告が中核(軍主導) [SRC-00719][SRC-00720][SRC-00722] 学術文献が一致して扱う中核的経緯。パトロシーニオ本人の学術的伝記はこの市議会宣言に触れない

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

この出来事は、ブラジル史における軍の政治的台頭の出発点となった。ブラジル国立公文書館は、成立直後の共和政期を、共和派に支持された陸軍勢力主導の集権的な体制として「剣の共和国」("República da Espada")と呼んだと記録している[SRC-00719]。学術的評価では、成立の経緯(国民的合意を欠いた少数派主導の性格)は、およそ1世紀にわたりある程度はこの共和政につきまとう「出生の刻印」("sinal de nascença")だったとされる[SRC-00720]。臨時政府による君主制の廃止は、連邦共和制・大統領制・政教分離を柱とする、その後のブラジルの政治体制の出発点となった[SRC-00719]。

現代の視点

11月15日は現在もブラジルの国民の祝日であり、1949年制定の法律第662号(2002年の法律第10.607号による改正後も維持)に規定されている[SRC-00725]。他方、誰が・どこで最初に共和国を「宣言」したのかという問いには、今日も一様な答えがあるわけではない。陸軍の部隊行動と臨時政府の布告を中心に据える学術的な歴史記述と、リオデジャネイロ市議会でのジョゼ・ド・パトロシーニオの行動を強調する語りとが並存している(本サイトの整理。詳細は異説・論争欄)[SRC-00722][SRC-00727]。

出典一覧

  1. [SRC-00719] Proclamação da República/Arquivo Nacional(ブラジル国立公文書館)/MAPA(Mapa das Organizações da Administração Pública)(ランクS)
  2. [SRC-00720] Proclamação da República(Atlas Histórico do Brasil — Dicionário histórico-biográfico da Primeira República 1889-1930 の項目)/FGV CPDOC(フンダサォン・ジェトゥリオ・ヴァルガス/ブラジル現代史研究資料センター)(ランクA)
  3. [SRC-00721] LOBO, Aristides(Dicionário Histórico-Biográfico da Primeira República の人物項目)/FGV CPDOC(フンダサォン・ジェトゥリオ・ヴァルガス/ブラジル現代史研究資料センター)(ランクA)
  4. [SRC-00722] PATROCÍNIO, José do(Dicionário Histórico-Biográfico da Primeira República の人物項目)/FGV CPDOC(フンダサォン・ジェトゥリオ・ヴァルガス/ブラジル現代史研究資料センター)(ランクA)
  5. [SRC-00723] First Republic (1889-1930) — Brazil-U.S. Relations Research Guide/Library of Congress(アメリカ議会図書館)(ランクA)
  6. [SRC-00724] Pedro II/Encyclopaedia Britannica(ランクB)
  7. [SRC-00725] LEI No 662, DE 6 DE ABRIL DE 1949(国民の祝日を定める法律。2002年法による改正後の現行条文を含む)/Presidência da República(ブラジル連邦共和国大統領府)/Casa Civil, Subchefia para Assuntos Jurídicos(ランクS)
  8. [SRC-00726] 15 de novembro de 1889, A República no Brasil/Assembleia Legislativa do Estado de São Paulo(サンパウロ州議会)(ランクB)
  9. [SRC-00727] 15 de novembro de 1889, A República no Brasil/Assembleia Legislativa do Estado de São Paulo(サンパウロ州議会)(ランクB)

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訂正履歴

日付事実主張への変更
12026-09-05あり
22026-09-05あり
32026-09-05あり

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