1861年世界 19世紀

イタリア王国の成立宣言

日付と暦

原典表記
1861年3月17日(グレゴリオ暦)
換算
1861-03-17(グレゴリオ暦)
掲載日
3月17日のページ

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概要

サルデーニャ王国議会で可決された、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が自身と後継者のために「イタリア王」の称号を継承する法律(法律第4671号)は、1861年3月17日、トリノで国王により裁可・公布され、イタリア王国の成立が宣言された[SRC-01700][SRC-01701][SRC-01702][SRC-01704]。この法律は、同年2月26日に元老院で(賛成129・反対2)、3月14日に代議院で(全会一致)可決されたのち、3月17日に国王により裁可・公布されたものである[SRC-01701][SRC-01704]。国王は「イタリア王」への称号継承にあたり、サルデーニャ王としての序数「2世」をそのまま維持した[SRC-01701][SRC-01702][SRC-01703]。ただし、この宣言は「イタリア統一の完成」を意味するものではない。ヴェネト(1866年編入)[SRC-01703]とローマ(1870年編入)[SRC-01702]は、この時点ではまだ王国の領域に含まれていなかった[SRC-01700]。

本文

1861年2月21日、サルデーニャ王国首相カミッロ・ベンソ・ディ・カヴールは、元老院に「国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が自身と後継者のためにイタリア王の称号を継承する」という単一条から成る法律案を提出した[SRC-01701][SRC-01704]。カヴールは提案演説で、「この2年間の驚くべき出来事は、思いがけない成功の連続によって、国民のほとんどすべての離散した部分を一つの国家に再統合した。……イタリア王国は今日、一つの事実である」と述べた[SRC-01701]。

法案は同年2月26日、元老院で賛成129・反対2の多数で可決された[SRC-01701]。3月11日にカヴールがこの法案を代議院に提出し、3月14日、代議院の委員会が報告した後、同日の本会議で全会一致で可決された[SRC-01701][SRC-01704]。委員会報告は、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のイタリア王位への権利は「国民の憲法制定権力から発する」ものであり、「イタリア王国の形成をもたらしたのと同じ人民投票(プレビシット)」によって国王が統治していると述べた[SRC-01701]。

法律は1861年3月17日、トリノで国王により裁可・公布され、法律第4671号となった[SRC-01700][SRC-01701][SRC-01702][SRC-01704]。この法律は単一条(Articolo unico)から成り、その一部として次の文言が布告された:「元老院及び代議院はこれを可決した。朕はこれを裁可し、次のとおり公布する。単一条:国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、自身及びその後継者のために、イタリア王の称号を継承する」[SRC-01702]。この法律は1861年4月21日、新たに成立したイタリア王国の法律として改めて第1号に位置づけられた[SRC-01702]。

国王が称号を継承するにあたり、当時の民主派勢力は国王が名を「ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世」に改めることを望んだ。Treccaniによれば、国王は歴史的連続性と王朝の神授権に強くこだわり、カヴールが国王の意志と国民の意志を調和させる方法を見出したとされる。国王はサルデーニャ王としての序数「2世」をそのまま維持した[SRC-01703]。

歴史的背景

サルデーニャ王国は、1848〜49年の第一次イタリア独立戦争、1859年から1861年にかけての第二次イタリア独立戦争[SRC-01702]を経て、講和(ヴィッラフランカ仮講和)によりロンバルディアを編入した[SRC-01703]。1860年にはガリバルディが義勇兵を率いてシチリアのマルサラに上陸し、3か月足らずでシチリア島全域を制圧したのち、8月19日にメッシーナ海峡を渡り、9月7日までにナポリへ入城した[SRC-01700]。両シチリア王国のブルボン軍最後の組織的抵抗は、10月1日、カゼルタ近郊のヴォルトゥルノの戦いで終わった[SRC-01700]。1860年10月から11月にかけて、旧教皇領・旧ブルボン領の各州で行われた住民投票は、いずれもイタリア王国への編入を圧倒的多数で支持した[SRC-01700]。

代議院の委員会報告は、この法律を新たな法的効果を生むための「新規の行為」ではなく、国民が幾多の機会・幾多の方法で表明してきた意志の「繰り返し、あるいはむしろ、総括的な最終要約」であると位置づけた[SRC-01701]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1861年2月21日(グレゴリオ暦) カヴール首相が元老院に「イタリア王」称号継承法案を提出する [SRC-01701][SRC-01704]
1861年2月26日(グレゴリオ暦) 元老院が法案を賛成129・反対2で可決する [SRC-01701]
1861年3月11日(グレゴリオ暦) カヴール首相が代議院に法案を提出する [SRC-01701]
1861年3月14日(グレゴリオ暦) 代議院委員会が報告し、同日の本会議で全会一致で可決される [SRC-01701][SRC-01704]
1861年3月17日(グレゴリオ暦・配置日) 国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が法律(第4671号)を裁可・公布し、「イタリア王」の称号継承が成立する。トリノで宣言される [SRC-01700][SRC-01701][SRC-01702][SRC-01704]
1861年3月27日(グレゴリオ暦・本記事の主題の射程外) ローマがイタリア王国の首都と宣言される(実際のローマ併合は1870年。Treccani単独の記述) [SRC-01703]
1861年4月21日(グレゴリオ暦) 同法がイタリア王国の法律として改めて第1号に位置づけられる [SRC-01702]
1861年6月6日(グレゴリオ暦・射程外) カヴール首相が死去し、ローマ問題は未解決のまま残る [SRC-01700]
1866年(グレゴリオ暦・射程外) 第三次イタリア独立戦争(対オーストリア戦)を経て、講和によりヴェネトがイタリア王国に編入される [SRC-01703]
1870年(グレゴリオ暦・射程外) ローマがイタリア王国に併合される [SRC-01702]
異説・論争定説のない論点があります
論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
サルデーニャ王国からイタリア王国への「転化」をどの日付に紐づけるか 法律の裁可・公布日である3月17日(法律番号自体が冠する日付)を成立日とする [SRC-01700][SRC-01701][SRC-01702][SRC-01704](4系統) 本サイトが確認した範囲では、いずれの日付が「正しい」かを判定する記述はない。可決手続の各段階(元老院可決2/26・代議院可決3/14・裁可公布3/17)のうちどこに着目するかの相違であり、対立する史実認定ではないとみられる。本サイトは3/17(裁可・公布日)を配置日として採用した。法律番号自体がこの日付を冠し、2012年法律222号もこの日を記念日の基準日と定めているためである
同上 代議院可決日である3月14日を「サルデーニャ王国がイタリア王国へ転化した」日とする [SRC-01703](Treccani、単独) 同上

関連する出来事

イタリア王国の成立宣言に先立ち、1859年から1861年にかけての第二次イタリア独立戦争[SRC-01702]の講和(ヴィッラフランカ仮講和)でロンバルディアがサルデーニャ王国に編入され[SRC-01703]、1860年にはガリバルディの「千人隊」遠征を経てシチリア・ナポリ(両シチリア王国)が編入されていた[SRC-01700]。宣言後も統一過程は続き、1866年の第三次独立戦争でヴェネトが[SRC-01703]、1870年のローマ占領でローマが[SRC-01702]、それぞれイタリア王国に編入された。これらの出来事は本記事の主題(1861年3月17日の称号継承法の成立)の射程外であり、詳述しない。

関連人物

歴史的意義

イタリア王国の成立宣言は、それまで7つの国家に分裂していたイタリア半島の大部分を単一の王国のもとに統合する経過の法的な区切りとなった[SRC-01702]。一方でブリタニカによれば、1861年の議会多数派は、製造業・銀行を掌握するピエモンテ系グループ(ジョヴァンニ・ランツァ、クインティーノ・セッラが主導)と、商業・運輸に関心を持つトスカーナ系グループ(リカーゾリ)の連合であり、1865年の一連の法律によって中央集権的な統治機構が構築された[SRC-01706]。同じくブリタニカによれば、この中央集権的統治は南北間の経済格差を拡大させ、自由貿易政策は南部の産業に打撃を与え、農村部の貧困を背景とした「山賊(brigantaggio)」運動は、亡命したフランチェスコ2世の使者に扇動・助力された面もあったが「地主層に対する一種の階級闘争」という性格を帯び、政府はイタリア軍の5分の2にあたる約11万6000人を鎮圧のため南部に派遣し、少なくとも5000人の農民が処刑されたと記す[SRC-01706]。統一過程の性格や評価については歴史家の間でも見方が分かれる論点であり、本サイトはいずれかを断定しない(本稿の整理)。

現代の視点

3月17日は、2012年のイタリア法律第222号により「国民統一・憲法・国歌・国旗の日(Giornata dell'Unità nazionale, della Costituzione, dell'Inno e della Bandiera)」として、1861年トリノでの統一宣言の日を記念する日と定められている[SRC-01704]。仮設の代議院が設けられ、イタリア統一が宣言されたカリニャーノ宮殿は、1938年以降イタリア国立リソルジメント博物館となっており、1848年当時のサルデーニャ王国議会の議場は、現存する欧州唯一のオリジナル議場としてイタリア国家記念物に指定されている[SRC-01705]。

出典一覧

  1. [SRC-01700] Italy - Garibaldi, Thousand, Unification/Encyclopaedia Britannica(ランクB)
  2. [SRC-01701] Atti parlamentari del Regno di Sardegna relativi alla proclamazione del Regno d'Italia (1861)/Dipartimento di Giurisprudenza, Università degli Studi di Torino(Centro di documentazione sul diritto costituzionale comparato e europeo/DirCoSt)(ランクS)
  3. [SRC-01702] 17 marzo 1861, l'Italia unita/Ministero della Difesa(イタリア国防省)(ランクS)
  4. [SRC-01703] VITTORIO EMANUELE II, ultimo re di Sardegna, primo re d'Italia/Walter Maturi 執筆/Enciclopedia Italiana(1937年)/Istituto della Enciclopedia Italiana(Treccani)(ランクA)
  5. [SRC-01704] 17 Marzo 2023: Giornata dell'Unità nazionale, della Costituzione, dell'Inno e della Bandiera/Senato della Repubblica(イタリア共和国元老院)(ランクS)
  6. [SRC-01705] Palazzo Carignano/Museo Nazionale del Risorgimento Italiano(イタリア国立リソルジメント博物館)(ランクA)
  7. [SRC-01706] Italy - Unification, Culture, Economy/Encyclopaedia Britannica(ランクB)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-27—
22026-09-27あり
32026-09-27あり
42026-10-09なし

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