ダーウィンを乗せたビーグル号は、2度の暴風による失敗ののちプリマスを出航した——後世はこの航海を進化論への旅の始まりと位置づける
日付と暦
- 原典表記
- 1831年12月27日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1831-12-27(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 12月27日のページ
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概要
1831年12月27日、艦長ロバート・フィッツロイ指揮下のHMSビーグル号は、英国プリマス(原典資料の表記ではデヴォンポート)を出航した[SRC-01056][SRC-01057]。この出航に先立ち、強い暴風により2度の出航試行が失敗している[SRC-01056][SRC-01057]。乗船していたのは、当時22歳のチャールズ・ダーウィンだった[SRC-01060]。航海の目的は、南米沿岸の測量と世界一周の時辰儀測定であり、海軍本部が命じた公式の任務だった[SRC-01057][SRC-01058]。この航海に乗船したダーウィンが艦上でどのような地位にあったか——公式の博物学者だったのか、艦長フィッツロイの話し相手にすぎなかったのか——については、歴史学者の間で見解が対立しており、本記事の「異説・論争」欄で扱う[SRC-01061][SRC-01062]。
本文
ビーグル号は11月に出航準備が整っていたが、西寄りの暴風が続き、出航は12月末までずれ込んだ[SRC-01057]。ダーウィンの日記によれば、最初の出航試行は12月10日だった。出航した夜、気圧計の予兆どおり南西から強い暴風が来襲し、翌11日(日曜)の朝までそれが続いたため、プリマスへ引き返した[SRC-01056]。
2度目の試行は12月21日だった。出航後、ドレイクス島付近で一時座礁したが半時間ほどで離礁し、港外へ出た[SRC-01056]。しかし夜半に南西からの暴風となったため、艦長は船を反転させてプリマスへ帰投した[SRC-01056]。翌22日には、同時に出航した他の船も同様に押し戻されたことが記録されている[SRC-01056]。フィッツロイ自身の航海記も、「2度出航を試み、数里進んだが、航海の最初期に損傷やボートの喪失を避けるため引き返さざるを得なかった」と記しており、この経緯と一致する[SRC-01057]。
12月27日、待ち望んだ東風に恵まれた晴天の日、ビーグル号は午前11時に錨を上げ、苦労しながら港外へ出た[SRC-01056]。ダーウィンは昼食をとったのち、午後2時頃、防波堤の外でビーグル号に合流した[SRC-01056]。フィッツロイの記録も、夜明けに錨を上げ、正午には防波堤の外に出たと記している[SRC-01057]。この日ついに出航が果たされたという骨子は、ダーウィンの日記とも一致する[SRC-01056]。
歴史的背景
この航海は、フィッツロイにとって2度目の南米測量任務だった[SRC-01060]。パタゴニア及びティエラ・デル・フエゴの測量は、1826年から1830年にかけて、キング艦長のもとで開始されていた[SRC-01058]。英国立海事博物館の解説によれば、この間に前任の艦長が自殺により死去し、フィッツロイが後任として指揮を執った[SRC-01060]。1831年の航海はこの測量の継続として計画され、フィッツロイは同年11月15日、海軍本部から南米方面での測量を命じる指令書を受けた[SRC-01057]。ダーウィン自身も、遠征の目的を「パタゴニア及びティエラ・デル・フエゴの測量完了、チリ・ペルー沿岸及び太平洋のいくつかの島々の測量、そして世界を一周する時辰儀測定の連鎖」と記している[SRC-01058]。
ダーウィンの乗船は、この公式任務とは別の経緯で決まった。1831年8月、水路測量官ボーフォートがケンブリッジ大学のピーコック教授に依頼し[SRC-01057][SRC-01061]、ピーコックが恩師ジョン・スティーヴンス・ヘンズローに博物学者の推薦を依頼した結果[SRC-01059]、ダーウィンに白羽の矢が立った。ダーウィンは当初、父の反対を理由に一度辞退した。翻意までの期間については出典間で記述が異なり、スミソニアン・マガジンは「数日後」と記す一方[SRC-01063]、ダーウィン通信プロジェクトの解説は「数週間を要した」と記す[SRC-01059]。最終的に父の同意を得て、正式に乗船が決まった[SRC-01059]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1831年11月15日(グレゴリオ暦) | フィッツロイが海軍本部から航海の指令書を受ける | [SRC-01057] |
| 1831年12月10日(グレゴリオ暦) | 第1回出航試行。出航後、夜の暴風により翌朝プリマスへ帰投 | [SRC-01056] |
| 1831年12月21日(グレゴリオ暦) | 第2回出航試行。ドレイクス島付近で一時座礁後、港外へ出るも夜半の暴風で帰投 | [SRC-01056] |
| 1831年12月27日(グレゴリオ暦) | ビーグル号、プリマス(デヴォンポート)を出航 | [SRC-01056][SRC-01057][SRC-01058] |
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
ダーウィンの乗船上の地位を巡る論争: ダーウィンが艦上でどのような地位にあったかについては、歴史学者の間で見解が分かれ、定説はない[SRC-01061][SRC-01062]。
一方の見解は、J・W・グルーバー(1968-69年)の研究に始まり、ハロルド・L・バースティン(1975年)が引き継いだものである。この見解によれば、艦の外科医ロバート・マコーミックが、外科医としての本務に加え、博物学標本の収集という明示的な任務を負って任命されており、彼こそが本来の博物学者(オリジナル・ナチュラリスト)だった[SRC-01061]。民間人だったダーウィンは艦上での義務を負わず、艦が近海の測量に出ている間も港に留まって独自に採集を続けることができ、艦長フィッツロイによるこの優遇にマコーミックは耐えられず、イングランドへの送還を選んだとされる[SRC-01061]。マコーミックは1832年4月にイングランドへ帰還した[SRC-01057]。
もう一方の見解は、ジョン・ヴァン・ワイエ(2013年)による。ヴァン・ワイエは、「ダーウィンは公式の博物学者ではなく艦長の話し相手(companion)にすぎなかった」とする見解が数十年にわたり科学史家に繰り返されてきたが、これは誤りだと主張する[SRC-01062]。根拠として、フィッツロイが水路測量官ボーフォートに宛てた書簡で「彼が博物学者として私に同行できるよう申請していただきたい」と明記していたこと、ダーウィン自身も後年、著書『ビーグル号航海の動物学』の序文で「私の任命は海軍本部の承認を得た」と記していること、航海中ダーウィンが乗員や書簡の中で「博物学者」または「哲学者」(親しみを込めて「フィロス」等)と呼ばれていたことを挙げる[SRC-01062]。
両者は、ダーウィンが艦の正式な乗員としての義務を負う立場ではなかったこと自体には争いがない。バースティンは「民間人であり、艦上の義務を負わなかった」と記し[SRC-01061]、ヴァン・ワイエもダーウィンが供員(supernumerary)として乗船していたと記している[SRC-01062]。対立するのは、この乗船を「公式の博物学者」の地位と呼べるものと見るか、それとも艦長の個人的な話し相手という非公式の立場にとどまるものと見るか、という評価である。本サイトはこの学説対立のいずれの立場も採らない。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| ダーウィンの乗船上の地位 | 公式の博物学者ではなく、艦長の話し相手(companion)。公式の博物学者は外科医マコーミック | [SRC-01061] | Gruber (1968-69) の議論をBurstyn (1975) が引き継いだ従来説 |
| (同上) | フィッツロイの書簡・ダーウィン自身の記述等の一次資料に照らせば、実際には博物学者としての地位にあった | [SRC-01062] | van Wyhe (2013) による、従来説への反論 |
関連する出来事
- この航海に先立つ1826年から1830年、パタゴニア及びティエラ・デル・フエゴの測量が、キング艦長のもとで開始されており[SRC-01058]、この第1次航海の途中でフィッツロイが艦長に就任した[SRC-01060]。
- ビーグル号は1836年10月2日に英国へ帰還した[SRC-01059]。
- 英国立海事博物館は、この航海での成果が、1859年の『種の起源』刊行につながったと位置づけている(詳細は「歴史的意義」欄参照)[SRC-01060]。
関連人物
- チャールズ・ダーウィン(ちゃーるず・だーうぃん): 当時22歳。ヘンズローの推薦を経て、フィッツロイから乗船を打診され[SRC-01059]、供員としてビーグル号に乗船した[SRC-01057]。艦上での地位づけを巡る論争は「異説・論争」欄を参照[SRC-01061][SRC-01062]。
- ロバート・フィッツロイ(ろばーと・ふぃっつろい): ビーグル号第2次航海の艦長。ボーフォートに宛てた書簡でダーウィンの同行を要請した[SRC-01057][SRC-01062]。
- ロバート・マコーミック(ろばーと・まこーみっく): 艦の外科医として乗船。1832年4月にイングランドへ帰還した[SRC-01057]。艦上での地位づけを巡る論争の当事者として扱われる(「異説・論争」欄参照)[SRC-01061]。
歴史的意義
英国立海事博物館は、この航海で得たダーウィンの採集・分析・記録の成果が、彼が自然選択による進化の理論を発展させることにつながり、1859年の『種の起源』刊行に至ったと位置づけている[SRC-01060]。スミソニアン・マガジンも、この旅を「彼の自然選択による進化の理論を着想させた旅」と表現する[SRC-01063]。ただし、この位置づけは、1831年12月27日の出航という出来事そのものが当時持っていた意味ではなく、その後の航海の展開(ガラパゴス諸島での観察等)を踏まえた後年の——遡及的な——評価であることに注意が必要である。出航当日の時点では、この航海はあくまで海軍本部が命じた南米沿岸の測量任務であり、フィッツロイの指令書や、本サイトが確認した登録出典の範囲ではダーウィンの理論的発見を予期する記述はない[SRC-01057][SRC-01058]。
現代の視点
ダーウィンの乗船上の地位を巡る論争は、単なる史実の細部にとどまらない論点を含んでいる(本サイトの整理)。艦の公式の博物学者だったか、艦長の個人的な話し相手にすぎなかったかという問いは、後年『種の起源』を著すことになる人物が、当時どのような制度的立場から航海に参加していたのかという、科学史上の位置づけに関わる論点である(本サイトの整理)。ヴァン・ワイエ自身、この論文の中で「自分もかつては他の多くのダーウィン研究者と同様に『話し相手』説を支持していたが、キース・トンプソンの著書の分析により見解が揺らいだ」と述べており、この論争が近年まで科学史研究の中で更新され続けていることを示している[SRC-01062]。
出典一覧
- [SRC-01056] Charles Darwin's Beagle Diary (1831–1836)/Darwin Online(The Complete Work of Charles Darwin Online)(ランクA)
- [SRC-01057] Narrative of the Surveying Voyages of His Majesty's Ships Adventure and Beagle between the years 1826 and 1836... Vol. II(Proceedings of the Second Expedition, 1831-36, under the command of Captain Robert Fitz-Roy)/London: Henry Colburn(1839年刊)/デジタル化: Smithsonian Libraries・Biodiversity Heritage Library(Internet Archive経由)(ランクA)
- [SRC-01058] Journal of researches into the natural history and geology of the various countries visited by H.M.S. Beagle, etc.(1890年 John Murray版・挿絵入り)/London: John Murray(1890年版)/公開: Darwin Online(ランクA)
- [SRC-01059] Voyage of HMS Beagle(および関連ページ「The Voyage of the Beagle」)/Darwin Correspondence Project(ケンブリッジ大学図書館)(ランクA)
- [SRC-01060] 200 years of HMS Beagle: Charles Darwin, Galapagos, and an enduring legacy/Royal Museums Greenwich(英国立海事博物館)(ランクA)
- [SRC-01061] If Darwin wasn't the Beagle's Naturalist, why was he on Board?/The British Journal for the History of Science, Vol. 8, No. 28(1975)/Cambridge University Press(ランクA)
- [SRC-01062] "My appointment received the sanction of the Admiralty": Why Charles Darwin really was the naturalist on HMS Beagle/Studies in History and Philosophy of Biological and Biomedical Sciences(2013年・Elsevier)(ランクA)
- [SRC-01063] On This Day in 1831, Charles Darwin Embarked on a Journey That Led to His Groundbreaking Theory of Evolution by Natural Selection/Smithsonian Magazine(ランクB)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-07 | あり |
| 2 | 2026-09-07 | あり |
| 3 | 2026-09-07 | あり |
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