10月6日に起きたこと
この日付に掲載しているのは、原典の日付がこの月日である出来事です。西暦への換算日は各記事の冒頭に記しています。
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1180年
源頼朝が相模国に着いた日、鎌倉入りはおよそ一か月前に千葉常胤が進言していた
頼朝の鎌倉入りは、相模国到着(10月6日)の1か月前、9月9日条ですでに千葉常胤が進言していた。
この週の出来事
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1859年江戸時代10月7日
橋本左内は評定所で死罪を申し渡され、その日のうちに小伝馬町牢屋敷で処刑された
福井藩士橋本左内は、将軍継嗣問題で一橋派として活動したことから安政の大獄に連座した。安政6年(1859年)10月7日朝、江戸の評定所で死罪を申し渡され、その日のうちに小伝馬町牢屋敷内で処刑された。同じ日、尊攘派の志士頼三樹三郎も死罪となっている。
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1865年江戸時代10月5日
徳川慶喜らが朝廷を説得し、条約は勅許されたが、兵庫開港の取り止めなど条件がついた
慶応元年(1865年)9月、兵庫沖に来航した英・米・仏・蘭の連合艦隊を前に、禁裏守衛総督徳川慶喜らは朝廷との協議にあたった。7年前に無断で調印されていた安政五カ国条約は、この時ようやく勅許された。ただし朝廷が認めたのは条約のみで、兵庫開港の取り止めなど条件がついた。
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1655年江戸時代10月8日
正使趙珩は、江戸城の大広間で徳川家綱と向き合った
明暦元年(1655年)10月8日、朝鮮国王孝宗が派遣した通信使が江戸城で4代将軍徳川家綱に謁見した。正使趙珩・副使兪瑒・従事官南龍翼が国書と進物を携え、家綱への代替わり慶賀を目的の一つとして江戸へ入り、老中らの準備を経て登城した。
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1707年江戸時代10月4日
壊滅的被害を受けた地域を歩いた土佐藩士は、日本最大級とされる地震の記録を書き残した
宝永4年10月4日(グレゴリオ暦1707年10月28日)、遠州灘から四国までの沖合を震源に発生した宝永地震。マグニチュードは出典によりM8.4〜8.6、死者数も5千人以上から2万人超まで幅がある。土佐藩士・奥宮正明は領内の被害を見聞し、約2カ月後に「谷陵記」をまとめた。地震の49日後には富士山が噴火した。