源頼朝が相模国に着いた日、鎌倉入りはおよそ一か月前に千葉常胤が進言していた

日付と暦

原典表記
治承4年10月6日(和暦・太陰太陽暦)
換算
1180-10-26(ユリウス暦)
参考
1180-11-02(先発グレゴリオ暦)
掲載日
10月6日のページ

暦の注記: この出来事は和暦(旧暦)の治承4年10月6日に起きた(ユリウス暦換算: 1180年10月26日)[SRC-00378][SRC-00379]。先発グレゴリオ暦(当時まだ施行されていない暦を遡って適用した値)では1180年11月2日にあたる[SRC-00379]。本サイトでは10-06のページに掲載している。換算値は国立天文台暦計算室「日本の暦日データベース」による[SRC-00379]。なお、本記事は同じ史料の翌日条(治承4年10月7日・ユリウス暦1180年10月27日)[SRC-00379]や、頼朝に先立って千葉常胤が鎌倉行きを進言した治承4年9月9日条の内容[SRC-00378]もあわせて扱う(歴史的背景・異説・論争欄参照)。

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概要

石橋山の戦いで平氏方に敗れた源頼朝は、房総・武蔵の武士たちを従えて勢力を立て直した[SRC-00380]。治承4年(1180年)9月9日、千葉常胤は頼朝に、当時の所在地は要害の地でも頼朝ゆかりの旧跡でもないとして、速やかに相模国鎌倉へ向かうよう進言し、常胤自身も一族郎党を率いて出迎えると申し出たと『吾妻鏡』は記す[SRC-00378]。頼朝が実際に相模国へ到着したと記されるのは、その約1か月後の10月6日である[SRC-00378]。この6日の条に「鎌倉」という地名そのものは現れない[SRC-00378]。頼朝が鶴岡八幡宮に手を合わせ、亡き父・義朝ゆかりの地である亀谷を訪ねたと記録されるのは翌7日のことだが、この条にも「鎌倉」の語はない[SRC-00378]。

本文

頼朝は治承4年8月17日、伊豆国北条で挙兵し、目代の山木兼隆を討った[SRC-00380]。まもなく相模国石橋山の戦いで大庭景親ら平氏方に敗れ、海路で安房国へ逃れた[SRC-00380]。ここで上総広常・千葉常胤ら房総の有力な武士の支持を得て勢力を回復し、武蔵国に入ると、江戸重長・河越重頼・畠山重忠らが加わった[SRC-00380]。

治承4年9月9日、千葉常胤は頼朝に対し、当時の所在地は要害の地でもなく、また頼朝ゆかりの旧跡でもないとして、速やかに相模国鎌倉へ向かうよう進言し、常胤自身も一族郎党を率いて出迎えると申し出たと『吾妻鏡』は記す[SRC-00378]。

10月2日には常胤・広常らの舟に乗って大井川・隅田川の両河を渡り、精兵三万余騎で武蔵国へ向かったと『吾妻鏡』は記す[SRC-00378]。

10月6日、頼朝は相模国に到着したと『吾妻鏡』は記す[SRC-00378]。同書によれば、畠山重忠が先陣を、千葉常胤が後陣を務め、付き従う軍士は幾千万とも知れないほどであったという[SRC-00378]。事があわただしかったため邸宅の造営にまでは手が回らず、民家を宿舘としたとも記す[SRC-00378]。この6日の条に「鎌倉」という地名は現れない[SRC-00378]。

翌10月7日、頼朝はまず鶴岡八幡宮を遥拝し、次いで亡き父・源義朝ゆかりの亀谷の旧邸跡を検分したと『吾妻鏡』は記す[SRC-00378]。そこに邸宅(御亭)を建てる方針はいったん定まったものの、地形が広くなかったこと、また岡崎義実が義朝の菩提を弔うためすでに一つの堂を建てていたことから、その方針は取りやめられたという[SRC-00378]。鶴岡八幡宮や亀谷という、鎌倉に固有の場所を訪れたことを記事が伝えるのはこの7日条だが、「鎌倉」という語そのものはこの条にも現れない[SRC-00378]。

その4日後、10月11日条は、卯の刻に御台所(頼朝の妻)が鎌倉へ入ったと記す[SRC-00378]。

歴史的背景

鎌倉市によれば、頼朝の父・源義朝は天養2年(1145年)、鎌倉の寿福寺のあたりに住んでいたといい、源氏と鎌倉には頼朝以前からこうした縁があった[SRC-00384]。一方、鎌倉市が引く『吾妻鏡』治承4年12月12日条は、頼朝が入る以前のこの土地について、漁業や農業を営む者以外に住む者は少なかったと記す[SRC-00381]。ただし鎌倉市はこれに続けて、市内の発掘調査で分かった生活痕跡や郡衙の遺構から、『吾妻鏡』の記述とは異なる鎌倉の姿も明らかになっていると紹介している[SRC-00381]。頼朝はのちにこの地へ鶴岡八幡宮を遷し、大倉の地を新たな御所に定めたと鎌倉市は伝える[SRC-00381]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
治承4年(1180・和暦)8月17日 源頼朝、伊豆国北条で挙兵し、目代の山木兼隆を討つ [SRC-00380]
同8月 相模国石橋山の戦いで大庭景親ら平氏方に敗れ、安房国へ逃れる [SRC-00380]
同(月日は史料に明記されず) 上総広常・千葉常胤ら房総の武士の支持を得て勢力を回復し、武蔵国に入る。江戸重長・河越重頼・畠山重忠らが加わる [SRC-00380]
同9月9日 千葉常胤、頼朝に「速やかに相模国鎌倉へ向かうように」と進言する [SRC-00378]
同10月2日 常胤・広常らの舟で大井川・隅田川を渡り、精兵三万余騎で武蔵国へ向かう [SRC-00378]
同10月6日 『吾妻鏡』は相模国への到着を記す(先陣は畠山重忠、後陣は千葉常胤)。あわただしさの中で民家を宿舘としたことも記すが、この条に「鎌倉」の地名は現れない [SRC-00378]
同10月7日 『吾妻鏡』は、鶴岡八幡宮への遥拝と亡父義朝ゆかりの亀谷の旧邸跡の検分を記す。御亭建立の方針はいったん定まったが取りやめられたという。この条にも「鎌倉」の語は現れない [SRC-00378]
同10月11日 御台所(頼朝の妻)が鎌倉へ入御したと記す [SRC-00378]
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
論点 根拠・出典 学界での位置づけ
頼朝が「鎌倉に入った」日はいつか 事典類の記述水準はまちまちで、コトバンク収載の12資料のうち月まで記すのは改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書の2件(いずれも「10月」)にとどまり、他の10件は年のみ、または月日の記載を欠く。頼朝の鎌倉入りの日について、日単位まで特定する記述はいずれにも見当たらない 複数の事典類 [SRC-00380]、鎌倉市の紹介文も同様に「治承4年」とのみ記す [SRC-00381] 通説・一般的理解(多くの読み物は日付を特定しないまま「10月」または年のみで紹介する)
同上 『吾妻鏡』の記述に即して日単位まで見ると、治承4年9月9日条は千葉常胤が頼朝に相模国鎌倉へ向かうよう進言したことを記し、10月6日条は相模国への到着(あわただしさの中で民家を宿舘としたことを含む)を、10月7日条は鶴岡八幡宮への参拝・亀谷の検分(御亭建立の方針がいったん定まり取りやめられたことを含む)を記す。6日条・7日条のいずれにも「鎌倉」という語そのものは現れない 『吾妻鏡』の記述自体(9月9日条・10月6日条・7日条) [SRC-00378]、日の干支の照合による原典日付の確認 [SRC-00379] 一次史料の記述に基づく整理(本サイトの調査結果)
同上 民間の年表サイトの中には、10月6日(相模国到着)と10月7日(由比の八幡宮への参拝・扇ガ谷の旧邸訪問を記し、これを頼朝「鎌倉入り」とする)を年表上で分けて掲げるものもある 鎌倉タイム(民間サイト) [SRC-00383] 一般向けサイトの一例。学術的な典拠の明示はなく、ランクCの参考情報にとどまる

本サイトは、原典(原資料)の日付をそのままカレンダー配置に用いる方針をとっており、頼朝が相模国へ到着したと『吾妻鏡』が記す日(10月6日)をこの記事の掲載日とした[SRC-00378]。ただし、鎌倉行きを促した9月9日条の千葉常胤の進言、鶴岡八幡宮への参拝や亀谷の検分を記す10月7日条、御台所の入御を記す10月11日条の内容もあわせて本文・タイムラインで扱っている(本サイトの整理。調査範囲: 吾妻鏡・国立天文台暦日データベース・コトバンク・鎌倉市・鎌倉タイムの各出典)。

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

頼朝が鎌倉に腰を据えたこの時期は、のちに「鎌倉幕府がいつ成立したか」を考えるときの出発点の一つになっており、歴史学の議論では、治承4年8月の頼朝挙兵を幕府成立の起点とする説(高橋典幸はこれを「A説」と呼ぶ)のほか、1183年の朝廷宣旨、1185年の守護・地頭設置、1190年の頼朝上洛、1192年の征夷大将軍就任などを起点とする複数の説が並び立つ[SRC-00382]。なお、征夷大将軍就任(1192年)を起点とするE説をめぐっては、征夷大将軍が頼朝念願の官職だったとする通説が、近年発見された新史料により見直されつつあるという[SRC-00382]。

現代の視点

『吾妻鏡』という史料に立ち返ると、頼朝の「鎌倉入り」という出来事は、単純な一日には収まらない形で記されている(本サイトの整理)。頼朝が実際に相模国へ到着したと記される10月6日の条にも、鶴岡八幡宮への参拝を記す翌7日の条にも、「鎌倉」という地名そのものは現れない[SRC-00378]。むしろこの語は、9月9日の条にすでに現れる[SRC-00378]。千葉常胤が「〔頼朝が今いる場所は〕これといった要害の地でもなく、頼朝ゆかりの旧跡でもない。速やかに相模国鎌倉へお出でになるべきだ」と進言した場面である[SRC-00378]。史料に忠実であろうとするほど、「鎌倉入り」という一つの出来事も、進言・到着・参拝という複数の場面に分かれて見えてくる(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-00378] 吾妻鏡. 1(高桑駒吉等校・補、大日本図書、明治29年〔1896年〕刊)/大日本図書(原刊)/国立国会図書館デジタルコレクション(所蔵・公開)(ランクS)
  2. [SRC-00379] 日本の暦日データベース(国立天文台 暦計算室)— 治承4年10月の換算・干支照会結果/国立天文台 暦計算室(ランクA)
  3. [SRC-00380] 源頼朝(コトバンク)/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING運営)(ランクB)(複数の資料を収載)
  4. [SRC-00381] 企画展「頼朝以前-源頼朝はなぜ鎌倉を選んだか-」開催のご案内(鎌倉市/鎌倉歴史文化交流館)/鎌倉市(鎌倉歴史文化交流館/鎌倉市教育委員会)(ランクB)(複数の資料を収載)
  5. [SRC-00382] 高橋典幸「鎌倉幕府の成立をめぐって」『文化交流研究:東京大学文学部次世代人文学開発センター研究紀要』第26号(2013年)pp.27-31/東京大学文学部次世代人文学開発センター(東京大学附属図書館リポジトリ UTokyo Repository 収載)(ランクA)
  6. [SRC-00383] ② 年表で見る「頼朝挙兵〜鎌倉入り」(鎌倉タイム)/鎌倉タイム(民間運営サイト)(ランクC)
  7. [SRC-00384] 鎌倉市の歴史(鎌倉市キッズページ)/鎌倉市(ランクB)

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訂正履歴

日付事実主張への変更
12026-08-29
22026-08-30あり
32026-08-30あり
42026-08-30あり

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