徳川慶喜らが朝廷を説得し、条約は勅許されたが、兵庫開港の取り止めなど条件がついた
日付と暦
- 原典表記
- 慶応元年10月5日(和暦・太陰太陽暦)
- 換算
- 1865-11-22(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 10月5日のページ
暦の注記: この出来事は和暦(旧暦)の慶応元年10月5日に起きた(グレゴリオ暦換算: 1865年11月22日)[SRC-00386][SRC-00393][SRC-00389]。本サイトでは 10-05 のページに掲載している。換算値は国立天文台「日本の暦日データベース」による [SRC-00389]。この月日は、複数の事典に加え、当時の記録を典拠に引く編纂資料でも独立に一致して確認できる(本文・異説欄参照)。
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概要
禁裏守衛総督の徳川慶喜(当時は一橋中納言)は、慶応元年(1865年)9月、兵庫沖に来航した英・米・仏・蘭の連合艦隊を前に、京都守護職松平容保・京都所司代松平定敬とともに関白二条斉敬らと協議した[SRC-00388]。7年前に幕府が天皇の許しを得ないまま結んでいた安政五カ国条約を、今度こそ正式に認めてもらうためである[SRC-00386]。艦隊は条約の勅許とあわせて兵庫の先期開港も求めていたが、朝廷内の議論は紛糾した[SRC-00388]。慶喜ら幕府当局者は力を尽くして朝廷を説得し[SRC-00386]、慶応元年10月5日、条約は勅許された[SRC-00386][SRC-00393]。ただし、その許しに兵庫開港は含まれていなかった[SRC-00387][SRC-00388]。
本文
事の発端は、幕府が兵庫沖で突きつけられた圧力だった。慶応元年9月16日、英・米・仏・蘭の連合艦隊が兵庫沖に来航した[SRC-00388]。艦隊は条約の勅許と兵庫の先期開港を幕府に迫った[SRC-00388][SRC-00391]。フランス公使レオン ロセス(現在の表記では「レオン・ロッシュ」。本サイトの整理)は同年10月1日付の書翰で、立花出雲守に対し「来ル七日中」に談判をまとめるよう強く求めている[SRC-00390]。
この局面で朝廷との協議にあたったのが、禁裏守衛総督の徳川慶喜(当時は一橋中納言。征夷大将軍への就任はまだ先のことである)、京都守護職の松平容保、京都所司代の松平定敬らだった[SRC-00388]。三者は関白二条斉敬らと協議した[SRC-00388]。慶喜ら幕府当局者は力を尽くして朝廷を説得し[SRC-00386]、10月5日、条約は勅許された[SRC-00386][SRC-00393]。朝廷が認めたのは条約のみで、兵庫の開港は含まれなかった[SRC-00387][SRC-00388]。2日後の10月7日、幕府は兵庫沖の四カ国代表にこの結果を伝えた[SRC-00391][SRC-00393]。深夜に届いた文書を自ら翻訳した、英国公使一行に同行した通訳官アーネスト・サトウ(当時は横浜領事館付き)は、この時は気づかなかった一点を後年書き記している。天皇の文書は、既存の条約を名指しで許したものではなく、条約を結ぶという一般的な権限を認めたにすぎず、しかも兵庫・大坂の開市開港を取りやめるよう将軍に命じる一文が添えられていたというのである[SRC-00391]。
歴史的背景
安政五カ国条約は、安政5年(1858年)、大老井伊直弼が天皇の許しを得ないまま調印した条約である[SRC-00386][SRC-00392]。日米修好通商条約を原型に、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約が結ばれた[SRC-00392]。無断調印は朝廷と幕府の関係を悪化させ、以後、条約を正式に認めてもらうことが幕府の外交課題として残り続けた[SRC-00386]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 安政5年6月〜9月(1858年、和暦) | 幕府が天皇の許しを得ないまま、米・蘭・露・英・仏と修好通商条約を結んだ | [SRC-00386][SRC-00392] |
| 慶応元年9月16日(和暦・グレゴリオ暦換算1865年11月4日) | 英・米・仏・蘭の連合艦隊が兵庫沖に来航した | [SRC-00388][SRC-00389] |
| 慶応元年10月1日(和暦) | フランス公使レオン ロセス(現在の表記では「レオン・ロッシュ」。本サイトの整理)が立花出雲守に対し「来ル七日中」に談判をまとめるよう求める書翰を送った | [SRC-00390] |
| 慶応元年10月5日(和暦・グレゴリオ暦換算1865年11月22日) | 条約が勅許された(兵庫開港は含まれず) | [SRC-00386][SRC-00387][SRC-00388][SRC-00393] |
| 慶応元年10月7日(和暦・グレゴリオ暦換算1865年11月24日) | 幕府が兵庫沖の四カ国代表に天皇の同意を伝えた | [SRC-00391][SRC-00393][SRC-00389] |
| 慶応3年5月(和暦・1867年) | 兵庫開港がようやく勅許された | [SRC-00387] |
| 慶応3年12月(和暦・1867年) | 兵庫開港・大坂開市が実現した | [SRC-00387] |
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
条約勅許の月日(慶応元年10月5日)そのものについて、出典間に記述の粒度の相違がある。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 条約勅許の具体的な月日 | 10月5日と明記 | 日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典・山川日本史小辞典(3事典が独立に一致) | [SRC-00386] |
| 同上(月日に踏み込まない記述) | 個別の月日を示さず、1857〜67年の政治問題全体として記述し、最終的な決着点として1867年5月の兵庫開港勅許のみを明示する | 改訂新版世界大百科事典・百科事典マイペディア | [SRC-00386] |
| 同上(年のみを示す記述) | 個別の月日を示さず、1865年(慶応元年)に条約が勅許されたことのみを記す | 旺文社日本史事典 | [SRC-00386] |
これは対立する日付を示しているのではなく、記述の粒度の違い(1865年10月の条約勅許という中間の出来事に触れるかどうか)と見られる。フランス公使ロッシュが10月1日付の書翰で交渉の期限を「来ル七日中」としていたこと[SRC-00390]、幕府が四カ国代表への回答を10月7日に行ったこと[SRC-00391]から、条約勅許そのものはこの前後(10月1日〜7日の間)に行われたとみて矛盾はない(本サイトの整理)。加えて、渋沢栄一『徳川慶喜公傳』巻三は、朝議の治定を「五日の戌の刻〔午後八時頃〕」とし、「実に慶応元年十月五日なり」と明記しており[SRC-00393]、事典群とは独立の系統でこの月日を裏づける。本サイトでは、この月日を、独立した複数系統の記述が一致して伝える事実として扱っている。また、この時の勅書別紙には「兵庫は止められ候事」との一文があったと記録されており[SRC-00393]、条約のみが勅許され兵庫開港が除外されたという本文の記述を、勅書文言のレベルでも裏づけている。
関連する出来事
- 安政五カ国条約の締結(安政5年6月〜9月、1858年): 大老井伊直弼が天皇の許しを得ないまま調印した、そもそもの条約[SRC-00392][SRC-00386](記事未作成)
- 兵庫開港(慶応3年12月、1867年): この時勅許されなかった兵庫の開港が、約2年後に実現した[SRC-00387](記事未作成)
関連人物
- 徳川慶喜(とくがわよしのぶ) — 禁裏守衛総督(当時「一橋中納言」)。関白二条斉敬らとの協議にあたり[SRC-00388]、慶喜ら幕府当局者は朝廷を説得した[SRC-00386]
- 孝明天皇(こうめいてんのう) — 慶応元年当時の天皇。出典(登録6事典)は条約勅許の主体を一貫して「朝廷」と記す[SRC-00386]
- 二条斉敬(にじょうなりゆき) — 関白。慶喜らと協議した[SRC-00388]
- 松平容保(まつだいらかたもり) — 京都守護職。協議に加わった[SRC-00388]
- 徳川家茂(とくがわいえもち) — 将軍。表向きは長州藩を征討する軍の指揮を執るために京都へ赴いていたが、実際には様々な策謀と兵力の不足のためになお留め置かれていた[SRC-00391]。条約勅許については、自ら天皇へ強く働きかけていたと記録される[SRC-00391]
歴史的意義
この勅許によって、7年前の無断調印以来の条約の不安定な位置づけは解消され、条約の批准に朝廷の関与が及ぶことが示される結果となった[SRC-00386]。一方で兵庫開港だけは持ち越され、開港をめぐる交渉はなお2年近く続くことになった[SRC-00387]。
現代の視点
この勅許は、当時の外国側からは交渉の成果と受け止められた[SRC-00391]。しかし現場に居合わせた、英国公使一行に同行した通訳官アーネスト・サトウ(当時は横浜領事館付き)は、後年、見落としていた一点に気づいたと書き記している。天皇の文書は、それまで結ばれていた条約を名指しで勅許したものではなく、条約を結ぶという一般的な権限を認めたにすぎなかった。しかも、兵庫・大坂の開市開港を取りやめるよう将軍に命じる一文まで添えられていたという[SRC-00391]。この限定は、当時の外国側には伏せられていたとサトウは記している[SRC-00391]。勝ち取ったはずの文書そのものに、なお読み解くべき余地が残されていたことになる(本サイトの整理であり、出典が直接この評価を述べるものではない)。
出典一覧
- [SRC-00386] 条約勅許問題(じょうやくちょっきょもんだい)とは? 意味や使い方 - コトバンク/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE GROUP運営)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-00387] 兵庫開港問題(ひょうごかいこうもんだい)|用語|ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−/山川出版社(ヒストリスト)(ランクB)
- [SRC-00388] 古文書室展示会 資料17:御側日記(条約勅許) - 慶應義塾大学メディアセンター/慶應義塾大学メディアセンター(三田メディアセンター古文書室)(ランクA)
- [SRC-00389] 日本の暦日データベース(国立天文台 暦計算室)— 慶応元年10月の換算・干支照会結果/国立天文台 暦計算室(ランクA)
- [SRC-00390] 条約/条約勅許一件 二(外務省外交史料館・正続通信全覧 類輯之部 修好門)/外務省外交史料館(国立公文書館アジア歴史資料センター経由)(ランクS)
- [SRC-00391] A Diplomat in Japan, by Sir Ernest Satow — Chapter XIII: Ratification of the Treaties by the Mikado/Project Gutenberg(原著: Seeley, Service & Co., 1921初版)(ランクB)
- [SRC-00392] 安政五カ国条約(あんせいごかこくじょうやく)|用語|ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−/山川出版社(ヒストリスト)(ランクB)
- [SRC-00393] 徳川慶喜公傳 巻三(渋沢栄一著)第二十章 条約勅許/竜門社(渋沢栄一伝記資料編纂事業)(ランクB)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-08-30 | — |
| 2 | 2026-08-30 | あり |
| 3 | 2026-08-30 | あり |
| 4 | 2026-08-30 | あり |
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