壊滅的被害を受けた地域を歩いた土佐藩士は、日本最大級とされる地震の記録を書き残した
日付と暦
- 原典表記
- 宝永4年10月4日(和暦・太陰太陽暦)
- 換算
- 1707-10-28(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 10月4日のページ
暦の注記: この出来事は和暦(旧暦)の宝永4年10月4日に起きた(グレゴリオ暦換算: 1707年10月28日)[SRC-00368]。本サイトでは10-04のページに掲載している。換算値は国立天文台暦計算室「日本の暦日データベース」による[SRC-00368]。
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概要
土佐藩検見方の役人・奥宮正明(おくみやまさあき)は、宝永地震の直後、高知県の各地を廻り見聞した被害状況を、約2カ月後の12月に「谷陵記」としてまとめた[SRC-00365]。宝永4年10月4日(グレゴリオ暦1707年10月28日)、遠州灘から四国までの沖合を震源として発生したとされる巨大地震である[SRC-00363][SRC-00368]。マグニチュードは出典によりM8.4〜8.6と幅があり[SRC-00362][SRC-00367]、2011年の東北地方太平洋沖地震が起きるまでは、わが国が体験した最大級の地震とされていた[SRC-00362]。死者数も出典により大きく異なり、少なくとも5千人以上、資料によっては2万人を超えるともされる[SRC-00364][SRC-00367]。地震のわずか49日後には、富士山が大噴火を始めた[SRC-00362][SRC-00366]。
本文
震源域は遠州灘から四国の沖合まで広がるとされ[SRC-00363]、東海道から伊勢湾沿岸、紀伊半島にかけて震害が甚大だった[SRC-00362]。従来はこの地震も熊野灘付近から破壊が始まったと考えられてきたが、近年の史料の再検討では、震源域が東側で安政東海地震とは異なる可能性が指摘されている[SRC-00363]。津波は伊豆半島から九州に至る太平洋沿岸と瀬戸内海、八丈島にまで及び、推定される高さは紀伊半島の尾鷲付近で8〜10メートル、伊豆半島西岸から紀伊半島・高知にいたる地域では3〜8メートルだったという[SRC-00367]。
代官所の集計「竹橋余筆」や柳沢吉保の公用日記「楽只堂年録」などをもとにした内閣府の集計では、死者5千人以上、負傷者1,300人以上、全壊家屋5万軒以上、流失家屋2万軒近くにのぼった[SRC-00364]。ただし鹿児島県分の史料はなく、三重県・和歌山県も高知県ほど一貫性のある調査であったか疑問が残る値を用いており、報告書はこの集計自体が実際より数割少ない可能性があるとしている[SRC-00364]。
最も被害が大きかったのは土佐藩領(現在の高知県)で、全国の倒壊被害の1割が集中したとされる[SRC-00364]。地震から18時間ほどのうちに11波の津波が押し寄せ、なかでも3番目の波が最大だったという[SRC-00364]。「谷陵記」によれば、土佐では全壊家屋4,863軒、流失家屋11,170軒、死者1,844人にのぼった[SRC-00364]。土佐での死者の7割は女性だったと記録されている[SRC-00364]。高知県須崎では、長さ50メートルほどの墓穴を2列掘り、身元の分からない多くの溺死者を埋葬した[SRC-00364]。命だけ助かった領民には1日あたり男3合・女2合のお救い米が30日または45日分支給された[SRC-00364]。
歴史的背景
宝永地震が起きた元禄から宝永にかけての時代は、政治秩序が安定し経済や文化が発展した元禄期に続き、幕府財政の悪化とともに各地で災害が相次いだ時期だった[SRC-00369]。元禄16年(1703年)11月には南関東大地震が発生しており、時の将軍は5代将軍・徳川綱吉であった[SRC-00369]。宝永地震の被害は駿府城(静岡県静岡市)や久能山東照宮の石垣にも及んだ[SRC-00369]。そしてこの地震からわずか49日後、富士山が大噴火を起こした[SRC-00362][SRC-00366]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 元禄16年(1703・和暦)11月 | 南関東大地震が発生(宝永地震の4年前) | [SRC-00369] |
| 宝永4年(1707・和暦)10月4日(グレゴリオ暦1707年10月28日) | 宝永地震が発生。東海道から伊勢湾沿岸・紀伊半島・四国にかけて甚大な被害をもたらす[SRC-00363] | [SRC-00363][SRC-00368] |
| 宝永4年(1707・和暦)10月4日から約2カ月後の12月 | 土佐藩士・奥宮正明が高知県の被害を見聞し「谷陵記」をまとめる | [SRC-00365] |
| 宝永4年(1707・和暦)11月23日(グレゴリオ暦1707年12月16日) | 富士山が大噴火を開始(宝永地震の49日後) | [SRC-00366][SRC-00369] |
| 安政元年(1854・和暦) | 安政東海地震・安政南海地震が発生(宝永地震の147年後) | [SRC-00363] |
| 昭和19年(1944)・昭和21年(1946) | 昭和東南海地震・昭和南海地震が発生 | [SRC-00363] |
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
宝永地震については、発生時刻、地震の規模、死者数、富士山宝永噴火との因果関係という4つの論点で、出典によって記述が異なる。いずれも本サイトは独自に数値・経緯を確定していない(調査範囲: SRC-00362〜00367の6件)。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 出典の性格・内訳 |
|---|---|---|---|
| 発生時刻 | 午後2時頃 | 内閣府「1707 宝永地震」報告書第1章 [SRC-00363] | 政府専門調査会報告書 |
| 同上 | 午前10時ころ | 改訂新版世界大百科事典(宇佐美竜夫執筆、コトバンク収載) [SRC-00367] | 事典項目(地震学者の署名記事) |
| 地震の規模 | マグニチュード8.6 | 内閣府「1707 宝永地震」報告書はじめに(「理科年表」などによる推定) [SRC-00362]、同第1章 [SRC-00363] | 政府報告書。デジタル大辞泉・最新地学事典も同値 [SRC-00367] |
| 同上 | マグニチュード8.4 | 改訂新版世界大百科事典 [SRC-00367] | 事典項目 |
| 同上 | マグニチュード8.4〜8.6 | ブリタニカ国際大百科事典小項目事典 [SRC-00367] | 事典項目 |
| 死者数 | 5千人以上(代官所集計等に基づく集計。鹿児島県分の史料欠如に加え、三重県・和歌山県も高知県ほど一貫性のある調査であったか疑問が残る値を用いていたことを報告書自身が明記し、過小の可能性を認めている) | 内閣府報告書第2章 [SRC-00364] | 政府報告書 |
| 同上 | 「谷陵記」(大阪死者15,263人)と尾張藩「朝林」(圧死5,351人・溺死16,371人)を併せて採れば全国2万〜2万5千人(8割が大阪) | 内閣府報告書第2章 [SRC-00364] | 同報告書内で複数史料の食い違いとして紹介 |
| 同上 | 「大阪諸国大地震大津浪並出火」の大阪死者7千余人を採れば全国1万2千人(6割が大阪) | 内閣府報告書第2章 [SRC-00364] | 同上 |
| 同上 | 約2万人 | デジタル大辞泉 [SRC-00367] | 事典項目 |
| 同上 | 少なくとも死者2万(壊家6万・流失家2万等を含む被害総計の一部) | 改訂新版世界大百科事典 [SRC-00367] | 事典項目(署名記事) |
| 同上 | 5,000人以上、2万人をこえるという説も | ブリタニカ国際大百科事典小項目事典 [SRC-00367] | 事典項目 |
| 同上 | 死者5,000人余 | 最新地学事典 [SRC-00367] | 事典項目 |
| 富士山宝永噴火との関係 | 「大地震が噴火の引き金を引いたと見るのが自然」(ただし単純な関係は、必ずしも成り立たないとも明記) | 内閣府「1707 富士山宝永噴火」報告書はじめに [SRC-00366] | 政府報告書 |
| 同上 | 「宝永地震と関連があったと見るのが自然」(前者より慎重・弱い表現。本サイトの整理) | 内閣府「1707 宝永地震」報告書はじめに [SRC-00362] | 政府報告書(別シリーズ・別報告書) |
| 同上 | 「宝永地震との直接のかかわりはないと思われる」 | 改訂新版世界大百科事典(宇佐美竜夫執筆) [SRC-00367] | 事典項目(署名記事) |
表に示した出典は、数値・記述が一致する組み合わせ(地震の規模ではM8.6が内閣府報告書・デジタル大辞泉・最新地学事典で一致)と、異なる組み合わせの双方を含む。いずれについても本サイトは独自に確定していない。
関連する出来事
- 富士山宝永噴火(宝永4年11月23日〔グレゴリオ暦1707年12月16日〕、和暦)[SRC-00366][SRC-00369]: 宝永地震の49日後に始まった富士山南東斜面の大噴火[SRC-00362][SRC-00366]。この前後関係について、地震と噴火に関連があったと見る報告書があり[SRC-00362]、噴火の引き金を引いたと見るのが自然だとする報告書もある一方[SRC-00366](後者は前者よりも踏み込んだ、因果を明言する表現である。本サイトの整理であり、いずれの報告書もこの強弱の比較そのものを述べるものではない)、直接の関わりはないとする見解もある(異説・論争欄を参照)[SRC-00367](記事未作成)
関連人物
- 奥宮正明(おくみやまさあき) — 土佐藩検見方の役人。宝永地震の直後、高知県各地を廻り見聞した被害状況を約2カ月後の12月に「谷陵記」としてまとめた[SRC-00365]
歴史的意義
内閣府の報告書は、宝永地震による災害の検証が、近い将来の発生が懸念される南海トラフ巨大地震への防災上の教訓になるとしている[SRC-00362]。津波は大阪湾にも入り込み、堀川をさかのぼった大船が橋を壊し小舟を転覆させるなどして多数の溺死者が出た[SRC-00362]。静岡県の安倍川上流では大規模な山崩れ「大谷崩れ」が起き、「鳶崩れ」「稗田山崩れ」とともに日本三大崩れの一つに数えられている[SRC-00362]。伊予(愛媛県)の道後温泉は145日間にわたって湯の湧出が止まったという[SRC-00362]。
現代の視点
宝永地震から147年後の1854年には安政東海地震・安政南海地震が発生し、その90年後にあたる1944年には昭和東南海地震が、2年後の1946年には昭和南海地震が、それぞれ南海トラフ沿いで発生している[SRC-00363]。政府の地震調査委員会は、南海トラフを震源とする巨大地震が今世紀前半にも発生する可能性が高いとしている[SRC-00362]。
出典一覧
- [SRC-00362] 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1707 宝永地震」— はじめに/内閣府(中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会)(ランクA)
- [SRC-00363] 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1707 宝永地震」— 第1章 宝永地震の地震像/内閣府(中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会)(ランクA)
- [SRC-00364] 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1707 宝永地震」— 第2章 宝永地震による被害とその後/内閣府(中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会)(ランクA)
- [SRC-00365] 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1707 宝永地震」— 第3章 各地の津波災害(第1節 四国の津波被害)/内閣府(中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会)(ランクA)
- [SRC-00366] 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1707 富士山宝永噴火」— はじめに/内閣府(中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会)(ランクA)
- [SRC-00367] 宝永地震(コトバンク/デジタル大辞泉・改訂新版世界大百科事典・ブリタニカ国際大百科事典小項目事典・最新地学事典)/コトバンク(株式会社DIGITALIO・朝日新聞社)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-00368] 日本の暦日データベース(国立天文台 暦計算室)— 宝永4年10月4日の換算照会結果/国立天文台 暦計算室(ランクA)
- [SRC-00369] 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1707 富士山宝永噴火」— 第3章 時代背景とファーストインパクト(第1節 宝永という時代背景)/内閣府(中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会)(ランクA)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-08-29 | — |
| 2 | 2026-08-30 | あり |
| 3 | 2026-08-30 | あり |
| 4 | 2026-08-30 | あり |
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