正使趙珩は、江戸城の大広間で徳川家綱と向き合った

日付と暦

原典表記
明暦元年10月8日(和暦・太陰太陽暦)
換算
1655-11-05(グレゴリオ暦)
掲載日
10月8日のページ

暦の注記: この出来事は日本の旧暦(和暦)の明暦元年10月8日に起きた(グレゴリオ暦換算: 1655年11月5日)[SRC-00403][SRC-00402]。本サイトでは10-08のページに掲載している。換算値は国立天文台「日本の暦日データベース」への照会による[SRC-00402]。

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概要

明暦元年(1655年)10月8日、朝鮮国王孝宗が派遣した通信使の一行が、江戸城の大広間で4代将軍徳川家綱に謁見した[SRC-00403]。一行を率いた正使は趙珩、副使は兪瑒、従事官は南龍翼である[SRC-00403][SRC-00408]。国書と進物(聘物)を携えたこの使節は、家綱への代替わり慶賀を目的の一つとして来日した[SRC-00404]。一行は同じ年の4月(朝鮮暦)に国王孝宗へ暇乞い(辞朝)をし、10月2日に江戸へ入ったのち、老中らによる準備と協議を経て8日に登城した[SRC-00403][SRC-00408]。

本文

趙珩ら一行は、孝宗6年4月20日(朝鮮暦)、国王孝宗に暇乞い(辞朝)をした[SRC-00408]。通信使一行は大坂までを海路、それより先を陸路で進むのが通例であり[SRC-00404]、半年ほどをかけて10月2日に江戸へ入った[SRC-00403]。この日、大目付や江戸の両町奉行、目付らが一行の宿所と定められた本誓寺へ出向き、辻々には警固の役人が配置された[SRC-00403]。

翌3日には老中酒井忠淸・松平信綱が本誓寺を訪れ、正使趙珩・副使兪瑒・従事官南龍翼と対面し、前日到着したことについて将軍の意向を伝えた[SRC-00403]。4日には臨時の朝会があり、対馬藩主宗義成が拝謁して金襴・照布・虎豹の皮・鮫皮・人参を将軍に献上している[SRC-00403]。使節を引き連れて参上したことについて、将軍から義成へ慰労の言葉が下された[SRC-00403]。7日には御三家や老中らが黒木書院に集まり、「明日韓使引見」の儀注を協議し、将軍家綱自身も大広間に出て引見の所作をあらかじめ試みたと記録されている[SRC-00403]。

そして10月8日、使節は本誓寺から江戸城へ登城した[SRC-00403]。一行は身分に応じて段階的に城内へ入り、玄関では上々官が書簡(国書)を持つ一方、進物は前日のうちに大広間の板縁へ並べられていた[SRC-00403]。将軍家綱は大広間の上段に着座し、大老井伊直孝・保科正之ら列席の面々は西の縁に着座した[SRC-00403]。対馬藩主宗義成が取り次ぐかたちで趙珩ら三使が拝謁した[SRC-00403]。引見のあとには、同じ大広間で三使をもてなす饗宴が催され、紀伊・水戸・尾張の御三家も出て座に着いた[SRC-00403]。

歴史的背景

朝鮮通信使は、豊臣秀吉による侵攻(文禄・慶長の役)で断絶した日朝の国交を、徳川家康の代に対馬藩宗氏の仲介で回復したことに始まる[SRC-00404]。当初の3回(1607・1617・1624年)は、対馬藩が偽作した国書への回答と、朝鮮人捕虜の送還を名目とする「回答兼刷還使」だった[SRC-00404]。国書偽造が対馬藩内の対立から発覚した柳川一件(1631年)を経て、以後の使節は名実ともに「通信使」と呼ばれるようになる[SRC-00404][SRC-00406]。山川日本史小辞典は、1655年(明暦元)以降、将軍の代替わりごとに通信使を送ることが定例になったと位置づけている[SRC-00404]。もっとも、1624年の使節(正使鄭岦)も将軍徳川家光の襲職を祝う使命を帯びており、代替わりを祝う使節そのものは1655年が最初というわけではない[SRC-00404]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
孝宗6年4月20日(朝鮮暦) 正使趙珩・副使兪瑒・従事官南龍翼、国王孝宗に暇乞い(辞朝) [SRC-00408]
明暦元年10月2日(旧暦) 通信使一行、江戸へ入る(入府)。宿所は本誓寺 [SRC-00403]
明暦元年10月3日(旧暦) 老中酒井忠淸・松平信綱が本誓寺で正使趙珩・副使兪瑒・従事官南龍翼と対面し、将軍の意向を伝える [SRC-00403]
明暦元年10月4日(旧暦) 対馬藩主宗義成が江戸城で拝謁し、金襴・照布・虎豹の皮などを将軍に献上 [SRC-00403]
明暦元年10月7日(旧暦) 御三家・老中が引見の儀注を協議、将軍がリハーサル [SRC-00403]
明暦元年10月8日(旧暦・グレゴリオ暦1655年11月5日) 江戸城大広間で将軍徳川家綱が通信使を引見 [SRC-00403]
孝宗7年2月28日(朝鮮暦) 一行、日本より帰国し国王孝宗に復命 [SRC-00408]

暦の注記: 朝鮮側の日付(孝宗6年4月20日・孝宗7年2月28日)は朝鮮の暦(1653年以降は時憲暦)によるものであり、日本の年号(明暦元年・明暦2年)とは暦法が異なる。両暦の日付が同一の日を指すことを述べた出典は登録していないため、本表では年号を並記せず「朝鮮暦」と明示する。

異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)

謁見の日付(10月8日)・正使名(趙珩)・将軍(徳川家綱)・使節の名目(家綱への代替わり慶賀を含む)については、日本側記録(徳川実紀)・朝鮮側記録(孝宗実録)・コトバンク収載の複数事典(改訂新版世界大百科事典・山川日本史小辞典・日本人名大辞典+Plus等)・九州国立博物館の対馬宗家文書データベースを照合したが、出典間で実質的な記述の相違は確認されなかった。

一点、整理を要する論点がある。この使節を「将軍代替わりごとの通信使派遣の始まり」と紹介する場合があるが、本記事が確認した出典(山川日本史小辞典)は「1655年以降、代替わりごとの派遣が定例となった」と記すにとどまり、1655年が代替わり慶賀の使節としての最初の事例だとは述べていない。同じ出典(コトバンク収載表)は、1624年の使節(正使鄭岦)の使命も「家光の襲職」祝賀としており、代替わりを祝う使節そのものは1655年より前に例がある[SRC-00404]。「定例化した画期」と「最初の事例」を区別して扱う必要がある。

なお、1624年の使節を「通信使」と呼ぶかどうかにも留保がある。山川日本史小辞典自身が「初期の3回は答礼と捕虜帰国のための派遣で,厳密には通信使ではないが,」と記しており、改訂新版世界大百科事典の掲載表も「1607-24年の3回は回答兼刷還使とよぶ」と注記する。したがって1624年の使節は「代替わりを祝う使節」の先例ではあっても、同じ出典によれば「通信使」の先例ではない。この呼称上の区別が、山川日本史小辞典の「1655年以降定例化」という位置づけをむしろ裏づけている[SRC-00404]。

論点 根拠・出典 学界での位置づけ
1655年の使節の位置づけ 1655年以降、将軍代替わりごとの通信使派遣が定例となった(1655年が代替わり慶賀の最初の事例とは述べていない) [SRC-00404] 事典に明記された記述。1624年の使節(家光襲職祝賀)が先例としてある

なお、この使節を江戸時代通算で「何回目」と数えるかは資料の整理の仕方に左右されうる観点だが、本記事で確認した出典は明示的な通し番号を付していないため、回数の断定は避けた(調査範囲: 上記出典)。

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

この謁見は、日朝両国が対馬藩を窓口として維持した外交関係の一場面である[SRC-00404]。通信使の来日は、将軍の国際的地位を国内に示す機会として重視された[SRC-00404]。以後、通信使の来日は将軍の代替わりごとの慣行として定着していったと山川日本史小辞典は位置づけている[SRC-00404]。

現代の視点

使節が帰国したのち、朝鮮の公式記録『孝宗実録』には興味深い一節が残る。国王孝宗が「關白何如人也」(関白=将軍はどのような人物か)と尋ねると、正使趙珩らは「年才十六、性且昏庸矣」(年はわずか16歳で、性質もまた暗愚のようであった)と復命したと記録されている[SRC-00408]。事典類が伝える徳川家綱の生年(寛永18年=1641年)から数え年で計算すると、江戸城での謁見(明暦元年10月8日)の時点で家綱は15歳、この復命が行われた孝宗7年2月28日の時点では16歳にあたる(本サイトの整理)[SRC-00405][SRC-00408]。実録という朝鮮側の記録に残った「見え方」の記録であって、家綱自身の実像を証明するものではない。

出典一覧

  1. [SRC-00402] 日本の暦日データベース(国立天文台 暦計算室)— 明暦元年10月8日の換算・干支照会結果/国立天文台 暦計算室(ランクA)
  2. [SRC-00403] 徳川実紀 第參編(巌有院殿御実紀 巻十・明暦元年九月-同十月)— 国立国会図書館デジタルコレクション/経済雑誌社(成島司直等編・経済雑誌社校)/国立国会図書館デジタルコレクション(ランクS)
  3. [SRC-00404] コトバンク「朝鮮通信使」(複数事典収載)/朝日新聞社(コトバンク運営)(ランクB)(複数の資料を収載)
  4. [SRC-00405] コトバンク「徳川家綱」(複数事典収載)/朝日新聞社(コトバンク運営)(ランクB)(複数の資料を収載)
  5. [SRC-00406] コトバンク「宗義成」(複数事典収載)/朝日新聞社(コトバンク運営)(ランクB)(複数の資料を収載)
  6. [SRC-00407] 対馬宗家文書データベース(九州国立博物館)— P14168「朝鮮通信使正使趙珩詩巻」及び明暦元年関連文書群/九州国立博物館(ランクS)
  7. [SRC-00408] 朝鮮王朝実録(孝宗実録)— 国史編纂委員会「朝鮮王朝実録」データベース:孝宗6年4月20日条・孝宗7年2月28日条・孝宗7年3月13日条/国史編纂委員会(大韓民国)(ランクS)

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訂正履歴

日付事実主張への変更
12026-08-30
22026-08-30あり
32026-08-30あり

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