10月4日に起きたこと
この日付に掲載しているのは、原典の日付がこの月日である出来事です。西暦への換算日は各記事の冒頭に記しています。
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1707年
壊滅的被害を受けた地域を歩いた土佐藩士は、日本最大級とされる地震の記録を書き残した
マグニチュードも死者数も、出典によって今なお大きく異なる数字が伝えられている。
この週の出来事
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1203年鎌倉時代10月3日
運慶・快慶ら4人の大仏師が短期間で彫り上げた東大寺南大門の仁王像は、建仁3年10月3日に開眼したと伝えられる
建仁3年(1203年)、東大寺南大門の金剛力士像(仁王像)は、大仏師運慶・快慶・定覚・湛慶の4人が短期間で造立したとされる。開眼供養は10月3日と伝えられ、墨書により阿形は運慶・快慶、吽形は定覚・湛慶が担当したとされる。全体の分担・統括は今も明らかでないとされる。
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1865年江戸時代10月5日
徳川慶喜らが朝廷を説得し、条約は勅許されたが、兵庫開港の取り止めなど条件がついた
慶応元年(1865年)9月、兵庫沖に来航した英・米・仏・蘭の連合艦隊を前に、禁裏守衛総督徳川慶喜らは朝廷との協議にあたった。7年前に無断で調印されていた安政五カ国条約は、この時ようやく勅許された。ただし朝廷が認めたのは条約のみで、兵庫開港の取り止めなど条件がついた。
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1180年平安時代10月6日
源頼朝が相模国に着いた日、鎌倉入りはおよそ一か月前に千葉常胤が進言していた
石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、房総・武蔵で勢力を立て直した。治承4年(1180年)9月9日、千葉常胤は頼朝に速やかに相模国鎌倉へ向かうよう進言したと『吾妻鏡』は記す。頼朝が実際に相模国へ到着したと記されるのは、その約1か月後の10月6日のことで、この条に「鎌倉」の地名はまだ現れない。
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1855年江戸時代10月2日
母を案じて行動した水戸藩士は、江戸を襲った大地震で命を落とした
安政2年10月2日(グレゴリオ暦1855年11月11日)夜、江戸を襲った内陸直下型の地震「安政江戸地震」。水戸藩士・藤田東湖は母を案じて行動するさなかに命を落とした一人である。死者は町奉行所調べで町方だけで約4,293人、記録によっては1万人前後ともされ、地震の規模も出典により推定が分かれ確定していない。