母を案じて行動した水戸藩士は、江戸を襲った大地震で命を落とした
日付と暦
- 原典表記
- 安政2年10月2日(和暦・太陰太陽暦)
- 換算
- 1855-11-11(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 10月2日のページ
暦の注記: この出来事は和暦(旧暦)の安政2年10月2日に起きた(グレゴリオ暦換算: 1855年11月11日)[SRC-00353]。本サイトでは10-02のページに掲載している。換算値は国立天文台暦計算室「日本の暦日データベース」による[SRC-00353]。
この記事の主張は出典に紐づけて検証しています。検証記録を見る
概要
藤田東湖は、水戸藩の江戸上屋敷で安政の大地震に遭った[SRC-00352]。老母を案じて行動するさなかに命を落とした一人である[SRC-00346][SRC-00352]。安政2年(1855年)10月2日の夜四ッ時(午後10時ごろ)、江戸を中心とする関東地方南部で内陸直下型の地震が発生した[SRC-00346][SRC-00351]。震央は東京湾北部から江東区付近と推定され、規模はマグニチュード7程度とされるが、震源の深さについては数人の議論があり結論は出ていない[SRC-00346]。死者数は、町奉行所の調査による公式数値で町方だけで約4,293人[SRC-00348]、武士・町人を合わせた全体では「少なくとも7,000人以上」とされる一方[SRC-00346]、「1万人前後」ともされ[SRC-00347]、出典によって幅がある。
本文
地震があった10月2日は薄曇りで風は微風だった[SRC-00346]。江戸市中では、青山・麻布など台地は震度5、皇居外苑・神田小川町・小石川・下谷・浅草・本所・深川辺りは震度6弱から6強と推定される[SRC-00346]。日比谷の入江の埋立地や本所・深川などの低地の埋立地で被害が顕著だった[SRC-00346]。火災は30数か所で発生し、大手町・丸の内・日比谷の一部・京橋・新吉原・浅草・両国・深川などに延焼した[SRC-00346]。火は翌日午前10時ごろに鎮火した[SRC-00346]。新吉原では廓全体が焼け、1,000人以上が死亡したと伝えられるが、詳しいことは分かっていない[SRC-00346]。死者の多くは唯一の出入口である大門に殺到したためとされる[SRC-00349]。避難用の反り橋を下ろせなかった理由も分かっていない[SRC-00349]。
藤田東湖(1806〜1855)は、水戸藩の江戸上屋敷で地震に遭遇した[SRC-00352]。内閣府の報告書は、東湖は自身は屋敷の外に逃げられたにもかかわらず、屋敷内を母を探して歩き回るうちに命を落としたと記す[SRC-00346]。一方、文京区の史跡解説は、東湖がいったん母を助けて外に出たが、母が火鉢を案じて屋内に戻ったため救出に向かったところ鴨居が落ち、肩で鴨居を支えながら母を庭まで出したのち、自身は力尽きて下敷きとなり圧死したと伝える[SRC-00352]。描写は異なるが、東湖が母をめぐる行動のさなかに命を落とした点では一致する(本サイトの整理)[SRC-00346][SRC-00352]。
歴史的背景
安政江戸地震の前年(嘉永7年=安政元年〔1854年〕)には、伊賀上野付近を震源とする地震で1,500人を超す死者が出ており、同年11月には32時間の間隔で安政東海地震・安政南海地震(いずれもM8.4)が発生していた[SRC-00347]。江戸が1703年の元禄地震以来、約150年ぶりに大規模な被害を受けたのがこの地震である[SRC-00347]。当時、老中・阿部正弘はペリー来航後の対応に奔走しており、地震発生後は同じく開国派の堀田正睦を震災対応の統括に推す形で処理しようとした[SRC-00347]。幕府は翌安政3年(1856)いっぱい、組織を挙げて震災復旧に当たった[SRC-00347]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1703年(西暦・参考) | 元禄地震で江戸が被害を受ける(安政江戸地震が、江戸にとって約150年ぶりの大規模被害だったとする際の比較対象となった地震) | [SRC-00347] |
| 嘉永7年=安政元年(1854・和暦)6月 | 伊賀上野付近を震源とする地震で1,500人を超す死者 | [SRC-00347] |
| 嘉永7年=安政元年(1854・和暦)11月4日・5日 | 安政東海地震・安政南海地震(いずれもM8.4)が32時間の間隔で発生 | [SRC-00347] |
| 安政2年(1855・和暦)10月2日夜四ッ時 | 安政江戸地震が発生。江戸を中心に甚大な被害があった[SRC-00346][SRC-00349]。水戸藩士・藤田東湖が死去した[SRC-00346] | [SRC-00346][SRC-00349][SRC-00353] |
| 安政2年(1855・和暦)10月3日午前10時ごろ | 前日からの火災が鎮火 | [SRC-00346] |
| 安政3年(1856・和暦) | 幕府の組織を挙げて震災復旧に当たる | [SRC-00347] |
| 安政5年(1858・和暦)2月26日 | 飛越地震(M7.0〜7.1)が発生。安政江戸地震の3年後 | [SRC-00347] |
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
安政江戸地震については、地震の規模、死者数、そして藤田東湖の死の経緯という3つの論点で、出典によって記述が異なる。いずれも本サイトは独自に数値・経緯を確定していない(調査範囲: SRC-00346〜00349・SRC-00351〜00352の6件)。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 出典の性格・内訳 |
|---|---|---|---|
| 地震の規模 | マグニチュード7程度 | 内閣府「1855 安政江戸地震」報告書第1章 [SRC-00346] | 政府(専門調査会)報告書。震源の深さは数人の議論があり結論は出ていないと明記 |
| 同上 | マグニチュード7.0〜7.1 | 同報告書「はじめに」 [SRC-00347] | 同一報告書内の別部分。第1章とは数値レンジが異なる |
| 同上 | マグニチュード7.0〜7.2 | 内閣府広報誌『広報ぼうさい』No.33(中村操執筆) [SRC-00349] | 内閣府刊行物。発行主体・執筆関与者は上記報告書と重なる |
| 同上 | マグニチュード7程度 | デジタル大辞泉(コトバンク収載) [SRC-00351] | 事典項目 |
| 同上 | マグニチュード6.9〜7.1 | ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク収載) [SRC-00351] | 事典項目。震源は東京湾北部・北緯35.65°・東経139.08°と具体的な数値を挙げる |
| 死者数 | 町方だけで死者約4,293人・負傷者約2,759人(武家地を含まず) | 内閣府報告書第2章、町奉行所調べ [SRC-00348] | 江戸時代当時の公式調査を報告書が転記 |
| 同上 | 武士・町人合わせ少なくとも7,000人以上(詳細不明) | 内閣府報告書第1章 [SRC-00346] | 政府報告書。1995年阪神・淡路大震災の死者数(6,433人)を上回ると位置づける |
| 同上 | 丸の内・本所・深川などで確認された人数が7,000人を超すとされるが、実際はそれ以上と考えられる | 内閣府広報誌 [SRC-00349] | 内閣府刊行物 |
| 同上 | 1万人前後 | 内閣府報告書「はじめに」 [SRC-00347] | 同一報告書内で第1章と異なる数値レンジ |
| 同上 | 約1万人と推定された | ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 [SRC-00351] | 事典項目 |
| 藤田東湖の死の経緯 | 自身は屋敷の外に逃げられたが、屋敷内を母をさがして歩き回るうちに死去 | 内閣府報告書第1章 [SRC-00346] | 政府報告書の体験談まとめ |
| 同上 | 母を庭へ救出したのち、力尽きて鴨居の下敷きとなり圧死 | 文京区「藤田東湖 護母致命の処」史跡解説 [SRC-00352] | 自治体公式の史跡解説。典拠となる一次史料は明記されていない |
表に示した出典は、数値・描写が一致する組み合わせ(地震の規模では内閣府報告書第1章とデジタル大辞泉がいずれも「マグニチュード7程度」)と、異なる組み合わせの双方を含む。いずれについても本サイトは独自に確定していない。
関連する出来事
- 安政東海地震・安政南海地震(嘉永7年=安政元年〔1854年〕11月4日・5日、和暦): 安政江戸地震の前年に32時間の間隔で発生した巨大地震。いずれもマグニチュード8.4と推定される[SRC-00347](記事未作成)
関連人物
- 藤田東湖(ふじたとうこ、1806〜1855) — 幕末の水戸藩士・尊王思想の指導的人物。安政江戸地震で死去した[SRC-00346][SRC-00351][SRC-00352]。母をめぐる行動のさなかに命を落としたと伝えられる(経緯の詳細は異説・論争欄を参照)[SRC-00346][SRC-00352]
歴史的意義
内閣府の報告書は、幕府が安政2年10月4日にお救い小屋の設置を触れ出し、浅草雷門前・深川海辺町では5日夕方から、幸橋門外では6日夕方からそれぞれ開所する旨を告げたと記録している[SRC-00348]。あわせて窮民への炊き出しも行われ、握り飯は町々の責任者が受け取って自分の町の窮民に配布したという[SRC-00348]。内閣府の広報誌は、幕府が地震後すぐに炊き出しなどの救済措置をとったと記す[SRC-00349]。同報告書(第1章)は、この地震の死者数(少なくとも7,000人以上)が1995年の阪神・淡路大震災の死者数(6,433人)を上回ると述べている[SRC-00346]。同報告書の「はじめに」は、安政江戸地震を「現在ならいわば首都圏直下地震」と位置づけている[SRC-00347]。
現代の視点
安政江戸地震の被害を伝える記録の一つに、地震のあった年に仮名垣魯文が著した『安政見聞誌』がある[SRC-00350]。全3冊、絵師は歌川国芳ほかで、国立公文書館に所蔵されている[SRC-00350]。国立公文書館の解説によれば、同書には新吉原で穴蔵に避難した遊女が全員焼死したという話や、鯰の異変・磁石が磁気を失ったことなど、地震の前兆とされた出来事についての記述があるという(本サイトはこの記述内容自体の当否を検証していない)[SRC-00350]。
出典一覧
- [SRC-00346] 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1855 安政江戸地震」第1章 安政江戸地震/内閣府(中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」)(ランクA)
- [SRC-00347] 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1855 安政江戸地震」はじめに/内閣府(中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」)(ランクA)
- [SRC-00348] 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1855 安政江戸地震」第2章 安政江戸地震の被害の実態/内閣府(中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」)(ランクA)
- [SRC-00349] 広報ぼうさい No.33(2006年5月号)「過去の災害に学ぶ(第7回) 安政2年(1855)江戸地震」/内閣府(広報誌『広報ぼうさい』No.33・2006年5月)/執筆: 中村操(株式会社防災情報サービス、「災害教訓の継承に関する専門調査会」小委員会委員〔安政江戸地震分科会委員〕)(ランクA)
- [SRC-00350] 天下大変-地震と噴火-安政の江戸地震-2. 安政見聞誌(けんもんし)/国立公文書館(デジタル展示「天下大変-地震と噴火-」)(ランクA)
- [SRC-00351] 安政江戸地震(アンセイエドジシン)とは? 意味や使い方 - コトバンク/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-00352] 藤田東湖 護母致命の処(ふじたとうこ ごぼちめいのところ) | 文京区/文京区(アカデミー推進部アカデミー推進課観光担当)(ランクB)
- [SRC-00353] 日本の暦日データベース(国立天文台 暦計算室)— 安政2年10月2日の換算照会結果/国立天文台 暦計算室(ランクA)
本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。
訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-08-29 | — |
| 2 | 2026-08-29 | あり |
| 3 | 2026-08-29 | あり |
| 4 | 2026-08-29 | あり |
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