9月24日に起きたこと
この日付に掲載しているのは、原典の日付がこの月日である出来事です。西暦への換算日は各記事の冒頭に記しています。
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1965年
MITでコンピュータの息吹に触れた技術者の発案から、国鉄「みどりの窓口」は生まれたとされる
台帳と電話で数えていた空席を、機械が瞬時に数えるようになった日。
この週の出来事
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1555年世界 16世紀9月25日
皇帝は姿を見せず、皇帝の委任を受けた弟フェルディナントが発した、領邦ごとの信仰を認める和議
1555年9月25日、皇帝カール5世が欠席したアウクスブルク帝国議会で、委任を受けた弟フェルディナントがカトリックとルター派の共存を認める和議を発した。諸侯に領邦の宗派を決める権利を与えたが、カルヴァン派は対象外とされ、有名な「cuius regio, eius religio」という定式も実は条文の言葉ではなかった。
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1577年安土桃山時代9月23日
能登の城を落として南下した上杉謙信が、手取川で対峙したのは信長本隊ではなく柴田勝家の軍勢だったとされる
天正5年9月23日(ユリウス暦1577年11月3日)、能登・七尾城を落とした上杉謙信は南下し、手取川で織田方の軍勢と対峙したと伝えられる。「はねる謙信、逃げる信長」の落首で知られるが、手取川で実際に対峙したのは柴田勝家の軍勢で、信長本隊は加わっていなかったとされる。
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1868年明治9月23日
家老・河井継之助を失った長岡藩は、新政府軍に降伏したとされる
慶応4年(1868年)、長岡藩は家老・河井継之助の指揮のもと新政府軍と激戦を重ねたが、長岡城は二度落城し、継之助自身も奪還戦で負った傷が癒えないまま8月16日に死去したとされる。継之助を失った長岡藩は、明治元年9月23日、新政府軍に降伏したと伝えられる。
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1868年明治9月22日
会津若松城の開城 — 一か月の籠城の末に、藩主が下した降伏の決断
明治元年(慶応4年)9月22日、約1か月の籠城戦の末、会津藩主・松平容保は新政府軍への降伏を決断し、会津若松城(鶴ヶ城)は開城した。掲げられた白旗は、負傷者の包帯用の白布を女たちが縫い合わせたものと伝えられる。