会津若松城の開城 — 一か月の籠城の末に、藩主が下した降伏の決断
日付と暦
- 原典表記
- 明治元年9月22日(和暦・太陰太陽暦)
- 換算
- 1868-11-06(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 9月22日のページ
暦の注記: この出来事は和暦(太陰太陽暦)の明治元年9月22日に起きた(グレゴリオ暦換算: 1868年11月6日)[SRC-00166]。改元の詔は同年9月8日に出されており[SRC-00172]、天文台の換算基準では9月22日はどちらの年号設定でも「明治元年」表記になる[SRC-00166]。もっとも、実際の資料には1868年の年号を年始から通して「慶応4年」のまま書く編集方針も見られ、そうした資料では9月22日も慶応4年の枠のまま書かれる[SRC-00170](国立国会図書館の資料も、9月22日を含め改元後の日付に「明治元年」の年号を一度も用いていない[SRC-00168])。西暦換算値はどちらの年号表記でも変わらない[SRC-00166]。本サイトでは 09-22 のページに掲載している。換算値は国立天文台暦計算室「日本の暦日データベース」による[SRC-00166]。
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概要
戊辰戦争のさなか、約1か月におよぶ籠城戦の末、会津藩主・松平容保は新政府軍への降伏を決断した[SRC-00167][SRC-00169][SRC-00170]。明治元年9月22日、会津若松城(鶴ヶ城)は開城した[SRC-00166][SRC-00167][SRC-00169]。掲げられた白旗は、負傷者の包帯としてすべて使い尽くされていた城内の白布を、女たちが縫い合わせたものと伝えられる[SRC-00169]。戊辰戦争のうち東北地方で最後まで抗った会津藩の戦い(会津戦争)は、こうして事実上の終わりを迎えた[SRC-00167]。
本文
慶応4年(1868)8月21日、新政府軍は母成峠の戦いで会津軍を破った[SRC-00167]。同じ日のうちに猪苗代城も落ち[SRC-00167]、新政府軍は8月23日、板垣退助の指揮のもと若松城下に突入した[SRC-00167]。会津藩は籠城戦に入った[SRC-00167][SRC-00170]。
9月14日には新政府軍による総攻撃があり、50門の砲が城内へ50発ずつ撃ち込まれたと伝えられる[SRC-00168]。9月に入ると、同盟していた米沢藩・仙台藩が相次いで降伏し、越後方面の新政府軍も若松城下へ殺到した[SRC-00167]。外部からの援軍は見込めなくなっていたとされる[SRC-00170]。
明治元年9月22日午前、鶴ヶ城に白旗が掲げられたと伝えられる[SRC-00169]。この白旗は、負傷者の包帯としてすべて使い尽くされていた城内の白布を、女たちが縫い合わせたものだという[SRC-00169]。降伏式は追手門前・甲賀町通りの路上で行われ、緋毛氈を敷いた式場に藩主・松平容保とその養子・喜徳の父子、新政府軍側代表の薩摩藩士・中村半次郎が臨んだとされる[SRC-00169]。容保は謝罪書を提出したとされ[SRC-00169]、家老・萱野権兵衛は責任は家臣にあるとして父子への寛大な処置を求める嘆願書を提出したとされる[SRC-00169]。式のあと父子は家臣に別れを告げ、妙国寺で謹慎の身となったとされる[SRC-00169]。
歴史的背景
松平容保は京都守護職として反幕府派志士の弾圧にあたった経歴を持つとされる[SRC-00167]。この経歴のため、慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いのあと、新政府から会津藩は朝敵とみなされた[SRC-00167]。会津藩は米沢藩・仙台藩とともに抗戦を選び、同年5月には北越の諸藩も加わった奥羽越列藩同盟が結成された[SRC-00167]。新政府軍は白河・平潟・越後の3方面から進撃し、同盟諸藩が次々と降伏・帰順する中、会津若松は抗戦最大の拠点となった[SRC-00167]。降伏に先立つ8月、会津藩の少年による部隊「白虎隊」の一隊が、若松城下近くの飯盛山で自刃している[SRC-00167][SRC-00168]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 慶応4年8月21日(旧暦) | 新政府軍、母成峠の戦いで会津軍を破る(同日、猪苗代城も落城) | [SRC-00167] |
| 慶応4年8月23日(旧暦) | 新政府軍(板垣退助指揮)、若松城下に突入。会津藩、籠城戦へ | [SRC-00167] |
| 慶応4年8月23日ごろ(旧暦。自刃日には異説あり — 異説欄参照) | 白虎隊士中二番隊、飯盛山で自刃(19人死亡・1人生存) | [SRC-00173] |
| 明治元年9月14日(旧暦) | 新政府軍による総攻撃(50門の砲撃) | [SRC-00168] |
| 明治元年9月22日(旧暦) | 会津若松城、開城(降伏式) | [SRC-00166][SRC-00169] |
| (西暦換算: 1868年11月6日) | 同上の西暦換算値 | [SRC-00166] |
| 明治2年(1869) | 家老・萱野権兵衛、切腹 | [SRC-00169] |
| 明治7年(1874) | 若松城、取り壊される | [SRC-00171][SRC-00175] |
| 昭和40年(1965) | 天守、復元される | [SRC-00171] |
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 1868年の年号表記 | 年始から通して「明治元年」とする資料と、年を通して「慶応4年」のまま書く資料があり、同一項目内で両方を併用する資料もある | 年単位で明治元年とする: コトバンク収載の精選版日本国語大辞典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・改訂新版世界大百科事典・山川日本史小辞典(うち日本大百科全書「1868年(明治1)8月下旬~9月末」・改訂新版世界大百科事典「1868年(明治1)1月の鳥羽・伏見の戦後」・山川日本史小辞典「1868年(明治元)5月」の3事典は改元前の月にも明治の年号を用いる。マイペディアは出来事名〔鳥羽・伏見の戦後〕で、精選版日本国語大辞典は年のみで、いずれも1868年全体を明治元年の枠で語る)[SRC-00167]。福島県は開城日を「明治元(1868)年9月22日」と表記するが、改元前の日付を含まないため年単位・日付単位いずれの編集方針かは判別できない[SRC-00169] / 慶応4年で通す: 会津若松観光ビューロー[SRC-00170](国立国会図書館も、9月22日を含め改元後の日付に「明治元年」の年号を一度も用いていない[SRC-00168])、コトバンク収載のブリタニカ国際大百科事典[SRC-00167] / 同一項目内で併用: コトバンク収載のデジタル大辞泉(書き出しは「慶応4年」、結末は「9月(明治元年)」)[SRC-00167] | 史実の対立ではなく、年号(紀年法)表記の編集方針の相違。国立天文台の換算基準では、9月22日は年単位・日付単位いずれの設定でも「明治元年」表記になる[SRC-00166]。実際の資料には、改元の詔[SRC-00172]の定めどおり年始から明治元年で通す資料(年単位)と、改元後も年号を切り替えず慶応4年のまま書く資料が併存し、同一項目内で両方を使う資料もある。ただし9月22日のような改元後の日付のみを記す資料は、改元前の日付を含まないため年単位・日付単位いずれの編集方針かを判別できない(福島県はその例)。西暦換算値(1868年11月6日)はどちらの表記でも変わらない[SRC-00166] |
| 白虎隊の自刃・全滅の日付 | 士中二番隊の自刃は8月23日とされる一方、平凡社系事典は白虎隊(集団)の全滅を猪苗代城落城(8月21日)の翌日とし、算術的には8月22日となる | 前者: レファレンス協同データベース(専門書10点以上を典拠。士中二番隊の自刃を慶応4年8月23日と明記)[SRC-00173] / 後者: 改訂新版世界大百科事典(「翌日,会津城外で白虎隊が全滅し」)・百科事典マイペディア(「翌日には会津城外で白虎隊が全滅」)(いずれも平凡社刊。表現は同旨だが逐語は異なる。「士中二番隊」「自刃」の語はいずれにも用いられず、「8月22日」とも明記しない)[SRC-00167] | 会津若松城の開城そのものではなく前段の出来事であり本記事の中核ではない。両者は対象(士中二番隊の自刃/白虎隊全体の全滅)も日付の示し方(明記/算術的導出)も異なり、単純な1日差の対立ではないことを開示する(R6-4) |
関連する出来事
- 戊辰戦争: 会津若松城の開城は、東北地方における戊辰戦争の実質的な終結を意味した[SRC-00167](記事未作成)
- 陸奥斗南藩の立藩: 翌年、容保の子・容大(かたはる。喜徳とは別人)に陸奥斗南3万石が与えられたとされる[SRC-00167][SRC-00170](記事未作成)
関連人物
- 松平容保(まつだいらかたもり) — 会津藩9代藩主。京都守護職を務めた経歴を持つとされ、籠城戦の末に降伏を決断した[SRC-00167][SRC-00169][SRC-00170]
- 松平喜徳(まつだいらのぶのり) — 水戸藩主徳川斉昭の十九男。慶応2年、容保の養子となった。開城の際、養父とともにあったとされる[SRC-00169][SRC-00174]
- 板垣退助 — 8月23日、若松城下へ進撃した政府軍を率いたとされる[SRC-00167]
- 萱野権兵衛 — 会津藩家老。藩主父子への寛大な処置を求める嘆願書を提出し、責任を負って明治2年(1869)に切腹したとされる[SRC-00169]
- 中村半次郎 — 薩摩藩士。新政府軍側の代表として降伏式に臨席したとされる[SRC-00169]
歴史的意義
会津若松城の開城は、東北地方における戊辰戦争を事実上終わらせた出来事だった[SRC-00167]。少年による部隊「白虎隊」の悲劇は、今日まで会津の歴史として語り継がれている[SRC-00168]。家老・萱野権兵衛も、藩主に代わって責任を負い明治2年(1869)に切腹したとされる[SRC-00169]。
現代の視点
いま鶴ヶ城で見られる天守は、開城当時のものではない。若松城は明治7年(1874)に取り壊され[SRC-00171][SRC-00175]、現在の天守は昭和40年(1965)に復元されたものである[SRC-00171]。天正18年(1590)に蒲生氏郷が七層の天守を築いて「若松城」と改称し、寛永16年(1639)に加藤明成が西出丸・北出丸を増築して現在の姿を完成させた城は[SRC-00170][SRC-00171]、一度は取り壊され、20世紀になって蘇った。前夜に女たちが縫い合わせ、開城の朝に掲げられたという白旗は、いまは城とともに残っていないとみられる(出典はこの点を直接には述べておらず、本稿の見立てである)。残っているのは、複数の記録者がそれぞれの立場から書き残した、開城の朝の情景である。
出典一覧
- [SRC-00166] 日本の暦日データベース(国立天文台 暦計算室)— 明治元年9月22日の換算照会結果/国立天文台 暦計算室(ランクA)
- [SRC-00167] 会津戦争(コトバンク: デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・改訂新版世界大百科事典・ブリタニカ国際大百科事典小項目事典・山川日本史小辞典改訂新版)/コトバンク(朝日新聞社・ジャパンナレッジ等提供)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-00168] コラム:会津戦争と若松城(『写真の中の明治・大正 - 国立国会図書館所蔵写真帳から -』電子展示会)/国立国会図書館(ランクB)
- [SRC-00169] 鶴ヶ城開城(『八重が刻んだ「足跡」/八重のふるさと、福島県』特設サイト)/福島県観光交流局観光交流課(ランクB)
- [SRC-00170] 幕末(会津若松観光ビューロー『鶴ヶ城』サイト内・会津の歴史)/一般財団法人 会津若松観光ビューロー(ランクB)
- [SRC-00171] 史跡(国指定文化財)若松城跡(鶴ヶ城)(会津若松市)/会津若松市教育委員会 文化スポーツ課 文化財グループ(ランクB)
- [SRC-00172] 明治元年(1868)9月|一世一元の制となる(『日本のあゆみ』国立公文書館)/国立公文書館(ランクA)
- [SRC-00173] 白虎隊が飯盛山で自刃した時、生き残った人がいると聞いた。その時に何人いて、何人が亡くなったのか。(レファレンス協同データベース)/神戸市立中央図書館(国立国会図書館運営レファレンス協同データベース)(ランクB)
- [SRC-00174] 松平喜徳(コトバンク: デジタル版 日本人名大辞典+Plus)/講談社(コトバンク収載)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-00175] 会津の歴史(一般財団法人 会津若松観光ビューロー『鶴ヶ城』サイト内・年表)/一般財団法人 会津若松観光ビューロー(ランクB)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-08-28 | — |
| 2 | 2026-08-29 | あり |
| 3 | 2026-08-29 | あり |
| 4 | 2026-08-29 | あり |
| 5 | 2026-08-29 | あり |
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