家老・河井継之助を失った長岡藩は、新政府軍に降伏したとされる

日付と暦

原典表記
明治元年9月23日(和暦・太陰太陽暦)
換算
1868-11-07(グレゴリオ暦)
掲載日
9月23日のページ

暦の注記: この出来事は和暦(旧暦)の明治元年9月23日に起きたとされる(グレゴリオ暦換算: 1868年11月7日)[SRC-00322][SRC-00323][SRC-00324]。本サイトでは09-23のページに掲載している。換算値は国立天文台暦計算室「日本の暦日データベース」による[SRC-00322]。

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概要

慶応4年(1868年)1月3日の「鳥羽・伏見の戦い」に端を発した戊辰戦争は[SRC-00323]、越後国(現・新潟県)にも及んだ[SRC-00326]。長岡藩では中堅藩士の家に生まれた河井継之助が上席家老となり、藩政改革を主導し[SRC-00327]、兵制改革も進めていた[SRC-00323]。継之助は新政府軍との衝突を避けようとしたが、慶応4年5月2日の小千谷会談が決裂すると、長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わり抗戦する道を選んだ[SRC-00323]。同年5月19日と7月29日の二度にわたり長岡城は新政府軍の手に落ち、継之助自身も奪還戦で左足に銃撃を受けて重傷を負い、会津領へ退く途中の8月16日に死去したとされる[SRC-00323]。継之助を失った長岡藩は、明治元年9月23日(グレゴリオ暦換算: 1868年11月7日)、新政府軍に降伏したとされる[SRC-00323][SRC-00322]。

本文

新政府は慶応4年4月14日、会津征討のため薩摩藩・長州藩などを越後方面へ出兵させ、高倉永祐を北陸道鎮撫総督に任命した[SRC-00326]。新政府軍は、動向に疑惑を持たれた長岡藩をめざして進撃を開始した[SRC-00326]。継之助は当初、新政府軍にも旧幕府方にも与しない中立(武装中立)を模索していたが[SRC-00323][SRC-00327]、5月2日、小千谷の慈眼寺で新政府軍軍監・岩村精一郎と会談し[SRC-00323][SRC-00324]、和睦に向けて旧幕府方を説得するための猶予を求めたものの受け入れられず、会談は決裂した[SRC-00323]。継之助はやむなく徹底抗戦を宣言し、長岡藩は奥羽越列藩同盟に正式に加わった[SRC-00323]。

5月19日、新政府軍が信濃川を渡って城下に迫り、長岡城は落城した(第一次)[SRC-00323][SRC-00324]。継之助は陽動と奇襲の作戦で長岡城の奪還に成功したが、この戦闘で左足に銃撃を受けて重傷を負った[SRC-00323]。総指揮官の負傷と、同盟軍の新発田藩の離反が重なり、長岡城は奪還からわずか4日後の7月29日、再び新政府軍の手に落ちた(第二次)[SRC-00323][SRC-00324]。同日、新政府軍は新潟町も占領した[SRC-00323][SRC-00324]。

城を失った継之助は会津領へと退いたが、道中で容態が悪化し、慶応4年8月16日午後8時頃、塩沢村(現・福島県只見町)で死去したとされる[SRC-00323]。河井継之助記念館は「継之助亡き後、同盟諸藩は次々と脱落、流浪の身となっていた長岡藩は1868年(明治元年)9月23日降伏をします」と説明する[SRC-00323]。上越市公文書センターが作成した資料も同じ9月23日に長岡藩の降伏を記す[SRC-00324]。

歴史的背景

戊辰戦争のうち、越後国内で行われた戦いは北越戊辰戦争と呼ばれる[SRC-00324]。江戸開城後も会津藩や庄内藩などは抵抗の姿勢を示し、越後平野に出兵し、やがて奥羽越列藩同盟を結成した[SRC-00326]。同盟の成立は慶応4年5月6日とされ、陸奥・出羽・越後の31藩が加わった[SRC-00324]。越後国内では、動向に疑惑を持たれた長岡藩をめざして新政府軍が進撃し、長岡城をめぐる攻防は北越戊辰戦争で最も激しい戦いとなった[SRC-00326][SRC-00324]。長岡城が7月29日に再落城すると、越後国内の同盟軍は会津方面へ退き始め、8月11日には越後国内の同盟軍最後の砦であった村上城も落城した[SRC-00324]。戦いの場は庄内・米沢・会津へ移り、9月に入ると米沢藩(上越市公文書センターの年表は「4日」、本文は「5日」とし記述が割れる)・会津藩(9月22日)・長岡藩(9月23日)・庄内藩(9月27日)が相次いで新政府軍に降伏したとされる[SRC-00324]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
慶応4年(1868・和暦)5月2日 小千谷会談(慈眼寺)が決裂。長岡藩は奥羽越列藩同盟に参加し抗戦を表明 [SRC-00323]
慶応4年(1868・和暦)5月19日 長岡城が新政府軍に占領される(第一次落城) [SRC-00323][SRC-00324]
慶応4年(1868・和暦)7月下旬 長岡藩が奇襲により長岡城を奪還。河井継之助が左足に銃撃を受けて重傷を負う(日付に異説あり。異説・論争欄参照) [SRC-00323]
慶応4年(1868・和暦)7月29日 長岡城が再び新政府軍の手に落ちる(第二次落城)。同日、新政府軍が新潟町を占領 [SRC-00323][SRC-00324]
慶応4年(1868・和暦)8月11日 越後国内の同盟軍最後の砦であった村上城が落城 [SRC-00324]
慶応4年(1868・和暦)8月16日 河井継之助が会津領塩沢村(現・福島県只見町)で死去したとされる [SRC-00323]
明治元年(1868・和暦)9月22日 会津藩が新政府軍に降伏したとされる [SRC-00324]
明治元年(1868・和暦)9月23日 長岡藩が新政府軍に降伏したとされる(グレゴリオ暦換算: 1868年11月7日) [SRC-00323][SRC-00324][SRC-00322]
明治元年(1868・和暦)9月27日 庄内藩が新政府軍に降伏したとされる [SRC-00324]
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)

長岡藩の降伏をめぐっては、以下の3点で資料間に幅がある。

(1) 長岡城再奪還(第二次落城直前)の日付: 河井継之助記念館は「7月25日未明」の奇襲で長岡城が奪還されたと記し[SRC-00323]、上越市公文書センターの年表も「同年 7月25日 奥羽越列藩同盟軍が長岡城を奪還」と記す[SRC-00324]。一方、コトバンク収載の山川日本史小辞典改訂新版は「7月24日」に長岡藩が奪還に成功したと記す[SRC-00326]。本サイトはこの日付を「7月下旬」(本文・タイムライン)とし、いずれか一方の日付を断定していない。

(2) 米沢藩の降伏日: 上越市公文書センターの資料は、同一資料の中で米沢藩の降伏日の表記が割れている[SRC-00324]。年表は「同月4日」(9月4日)とするが、本文は「9月になると5日に米沢藩」と記す[SRC-00324]。本サイトはこの資料内部の相違を歴史的背景で開示し、いずれか一方を断定していない。

(3) 「北越戦争」という語が指す範囲の取り方: コトバンク収載の改訂新版世界大百科事典(執筆者: 井上勝生)は、北越戦争を越後中・北部における戦闘として説明し、そのうちもっとも激しい焦土戦は「8月11日,村上藩の落城で終息した」と記す[SRC-00326]。同じくコトバンク収載の百科事典マイペディアは、「7月末,長岡城を再度陥れて越後を制圧,会津戦争への新局面を開いた」と記し、7月末の長岡城再制圧(越後の制圧)を会津方面の戦争への転換点として位置づける[SRC-00326]。両事典とも、北越戦争を越後中・北部における戦闘として説明し、9月に入ってからの各藩の降伏には言及しない[SRC-00326]。一方、上越市公文書センターの資料は、9月の米沢・会津・長岡・庄内各藩の降伏までを一連の経過として年表に含めている[SRC-00324](同資料は主に「北越戊辰戦争」の語を用いる)。本サイトはこれを「終結時期の対立」ではなく、事典類が使う「北越戦争」と上越市公文書センターが使う「北越戊辰戦争」とで、同じ越後方面の戦いに与えている範囲の取り方の違いとして併記する(本サイトの整理)。

論点 根拠・出典 出典の性格
長岡城再奪還の日付 7月25日(未明) 河井継之助記念館 [SRC-00323]/上越市公文書センター年表 [SRC-00324] 博物館の公式解説/公文書センターの解説資料
同上 7月24日 山川日本史小辞典改訂新版(コトバンク) [SRC-00326] 事典項目(無署名)
米沢藩の降伏日 9月4日(同月4日) 上越市公文書センター年表 [SRC-00324] 公文書センターの解説資料
同上 9月5日 上越市公文書センター本文 [SRC-00324] 同一資料内での相違
「北越戦争」の範囲 越後中・北部における戦闘。もっとも激しい焦土戦は8月11日の村上藩の落城で終息 改訂新版世界大百科事典(コトバンク) [SRC-00326] 事典項目(署名: 井上勝生)
同上 7月末の長岡城再制圧(越後の制圧)を会津方面の戦争への新局面の起点と位置づける 百科事典マイペディア(コトバンク) [SRC-00326] 事典項目(無署名)
同上 米沢・会津・長岡・庄内各藩の降伏(9月)までを一連の経過に含める 上越市公文書センター資料 [SRC-00324] 公文書センターの解説資料

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

長岡藩の降伏は、越後国内で展開された新政府軍と旧幕府方勢力の戦い、いわゆる北越戊辰戦争[SRC-00324]における主要な藩の一つが抗戦を終えたことを意味した(本サイトの整理)。長岡藩は「賊軍」とされ、所領(禄高)を7万4千石余りから2万4千石に減らされたとされるが[SRC-00323]、新政府は牧野忠毅の家督相続を許し、長岡藩の再興を許可した[SRC-00325]。

現代の視点

長岡市観光課は、継之助の生涯をまとめた作品として司馬遼太郎の小説『峠』を挙げ、「読み進むうちに、継之助の手腕や思想に魅せられていく」と紹介している[SRC-00327]。長岡藩の抗戦とその後の降伏は、150年以上を経た現在も、こうした作品を通じて語り継がれている(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-00322] 日本の暦日データベース(国立天文台 暦計算室)— 明治元年9月23日の換算照会結果/国立天文台 暦計算室(ランクA)
  2. [SRC-00323] 河井継之助とは – 幕末の越後長岡の風雲児(河井継之助記念館)/河井継之助記念館(ランクA)
  3. [SRC-00324] 第19回 上越市公文書センター出前展示会「戊辰戦争と高田藩」北越戊辰戦争の概要/上越市公文書センター(ランクB)
  4. [SRC-00325] 長岡開府と長岡藩主牧野家(『長岡400年のあゆみ』)/長岡市(ランクB)
  5. [SRC-00326] 北越戦争(コトバンク: 改訂新版世界大百科事典・百科事典マイペディア・山川日本史小辞典改訂新版)/コトバンク(朝日新聞社・ジャパンナレッジ等提供)(ランクB)(複数の資料を収載)
  6. [SRC-00327] 河井継之助の足跡(長岡市観光課)/長岡市(観光課)(ランクB)

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訂正履歴

日付事実主張への変更
12026-08-29
22026-08-29あり
32026-08-29あり

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